2・追憶―マリンカ―
シザーの記憶の中に、一人の女性が居る。
七年前。シザーがまだ9歳であった頃。
マリンカと名乗るその女性は、ある日集落の近くで倒れているのを発見された。
遠くの馬人の村から迷い込みでもしたのだろうか。
彼女からは微かに犬の匂いがした。
第一発見者の村人は匂いを察知し「もしかして犬人ではないか」と疑った。
しかし、もし自分と異なる種族であれば、本能的に忌み嫌い近寄ることさえ出来ないはずである。
多少の疑問を抱きながらも、村人は彼女を連れ帰った。
長であるシザーの父は彼女を引き取り、姉がひとしきり世話をつとめた。
母を亡くしたばかりだったシザーは、姉について回るうちマリンカを母のように慕うようになった。
「マリンカはどこから来たの?」
シザーは尋ねる。
「私は…ずうっと西の向こうの国から来たの。」
マリンカは答える。
「ずうっと西?どんな国だった?」
「要塞が…大きな灰色の四角い建物がたくさんあるの。
そこに入るにはとっても大変で、たくさんのドアと、たくさんの廊下を通らなきゃいけない」
「へぇ、西にはそんな馬人の国があるんだ。
俺もいつか行ってみたいな」
「ダメだよ。悪い人がたくさん居るから、シザーが殺されちゃうかも知れない」
「マリンカは悪い奴らから逃げてきたの?」
彼女は、自分がこの集落に来た理由は一切答えようとしなかった。
そして答える事もなく、半年ののち突如集落から去ってしまったのだ。
シザーは泣いて探した。広い草原を果てしなく走り抜け、マリンカを求めた。
湖の傍でマリンカの髪飾りを見つけた。
強い、人人の匂いがした。
*****
朝食を終えたシザーは、痛みを慣らすようにゆっくりと伸びをした。
立ち上がり、窓際へ近付く。
窓の下には焦げ茶色のたくましい雄馬が、四肢をだらしなく投げ出して眠っているところだった。
「テーマン、心配かけたな。」
シザーは馬にそう呼び掛け、そっと腹を撫でる。
馬はその声にパッチリと目を開けると、首をもたげてシザーを見た。
(もう歩ける?)
「うん。走るのは辛いかもだけど、歩ける」
(乗らなくて平気?)
「平気平気。ありがとな、テーマン」
言葉は交わせない。だけど、相手の一挙一動で意思が手に取るように解る。
愛しいカレス。
自分の食べていたニンジンをテーマンに与えた。
テーマンは嬉しそうにそれをほおばり、ゆっくりと立ち上がった。
(小便がしたい)
そう伝えてテーマンは出口へと向かう。シザーも後を追った。
外に出る。秋もそろそろ終わりだろうか。ひんやりした空気が全身をまとった。
シザーは地平線を見つめた。
この地平の向こうに、きっとマリンカが居る。
今はまだ出来ないけれど、いつか必ずあなたを迎えに行く。
冬の香りを一杯に吸い込もうとしたシザーの鼻孔に飛び込んできたのは、テーマンの尿の臭いだった。思わずむせる。
(遠乗りに行こう)
テーマンが優しく語りかけてきた。
「出す時は風上に立つんじゃねーよ」
背中をバシリと叩きながら、シザーはテーマンにまたがった。
「どこまで?」
(好きなだけ遠くへ)
「じゃあ湖の向こうまで行こう、全速力で」
(了解)
テーマンは走り出す。
その背中でシザーは目を閉じる。
立て髪にぎゅっと掴まり、テーマンの温かさを感じる。
全速力で走る馬の背中とは思えない心地よさだ。
リズムの良いヒヅメの音と風の駆ける音だけが聞こえた。
大きな羽音と、驚いて急停止したテーマンの衝撃に、シザーは目を開けた。
振り落とされかけるが何とかしがみついた。
「どうした、テーマン」
(大きな鳥にぶつかりかけた)
テーマンは荒い呼吸をしながら辺りを見渡している。
景色は緩急のある丘にかわり、少し背の高い木がぽつぽつと周りを取り囲んでいる。
「鳥?」
(人間と同じくらいの大きな鳥だ
黒かった)
黒い鳥―と言えばカラスだが―この辺りでは見掛けないものだ。
「気のせいじゃないか」
そう言いかけてシザーは顔をしかめた。
地面には抜け落ちた黒い鳥の羽根。
テーマンから飛び降り、羽根を拾った。
「…血がついている」
ハッと周りを見渡す。
異種の気配―感じない。
おかしい。
「お前は馬人か」
声がした方に反射的に振り返った。
それは木の上に居た。
真っ黒なスーツ、真っ黒なブーツ、真っ黒な髪、真っ黒なサングラス。
そして背中には―真っ黒な翼。
シザーと同じくらいの、馬人ではない少年がそこに居た。