95:始まりの都市にて
30年前、大崩落と共に滅んだ都市、コーカサス。
近年において、その姿を目撃した者は殆ど存在しないと言われている。
それも当然だろう。ファルティオンの東に位置するコーカサスは、現状残っている都市から最も離れた場所に位置しているのだから。
北東の都市であるテッサリアと、南東の都市であるティーヴァは、まだそれぞれ偵察できなくもない場所に位置しているが、コーカサスに辿り着くには無数の魔物と相対しなければならないのだ。
もしも生き残った都市からコーカサスまでを踏破する事が出来る者がいるとすれば、それはリーゼファラス以外には存在しないだろう。
――そんなコーカサスの近くには今現在、幾人かの人影が存在していた。
「ここが……《奈落の渦》が初めて出現した場所」
「コーカサス、か。私も、ここまで近付いたのは生まれて初めてだけど……どうも、テッサリア以上に面倒な事になってるみたいね」
乗り物酔いを何とか収めたミラは、眉根を寄せながら若干離れた都市の姿を見つめる。
全てが――建物も外壁も一つ余さず漆黒に染まった都市の光景が、そこには広がっていたのだ。
初めてそれを目撃していれば、驚愕と共に絶句していた事だろう。
しかしミラたちは、それをここに来る直前、テッサリアにて目撃しているのだ。
「《奈落の渦》の本拠地とも呼べる場所……ここまで侵蝕されていたとしても、別に不思議ではない、って訳ね」
「それを許容するかどうかは、また別の問題ではありますが……とりあえず、今回はカインの事に集中しましょう」
ミラの隣に立ちながら目を細め、リーゼファラスはそう呟く。
魔物を、《奈落の渦》を憎む彼女にとって、コーカサスのこの状況は決して許容できぬものだ。
しかし、リーゼファラスとて、状況は弁えている。
今自分達が行うべき事は、コーカサスに襲撃を掛ける事ではない。連れ去られたカインを奪還する事なのだから。
自らの腹の奥で煮えたぎる感情を押さえつけ、リーゼファラスは視線を細める。
侵蝕されたコーカサスの事も気になるが、それ以上に――
(この、力の気配は……)
遠く離れているにもかかわらず、まるで波のように押し寄せてくる力の波動。
それは紛れも無く、カインの持つ《永劫》の力であった。
既に慣れ親しんだとも言えるその力は、以前から強力であったにもかかわらず、更なる増幅を遂げていたのだ。
――能力を有する訳でもない、ミラやウルカにまで感じ取れてしまうほどに。
「……リーゼさん、この気配は」
「間違いなく、彼でしょうね。しかし、この強度は……」
以前よりも――連れ去られる直前よりも、遥かに強力なその力。
未だ、リーゼファラスに匹敵するとまでは言えない。だが、放たれる力の強さは、明らかにアウルのそれを凌駕していたのだ。
車の運転手にこの場で待機するよう伝えていたアウルは、リーゼファラスの傍に戻ってくると共に、普段には無い真剣な表情で声を上げる。
「リーゼ様。まさかとは思いますけど、カイン様は――」
「いえ、まだでしょうね。けれど、準備は完了させていると思われます」
しかし、リーゼファラスは同時に疑問を抱く。
もしも彼が『準備』を終わらせているのであれば、何故その力を即座に使わなかったのだろうか、と。
仇敵たる魔物達が眼前にいる状況で、カインが戦うという選択肢を選ばなかった事自体が、リーゼファラス達にとっては驚くべき事態だったのだ。
(一体何を考えているのか……いえ、それもここで見ているだけでは分かりませんね)
記憶を取り戻した後のカインは、何を考えているのかが掴みづらい相手であった。
尤も、カインの願望と能力が矛盾していた事を考えれば、現在の方が正常な状態である可能性は高かったが。
これまでのカインの姿とは繋がらぬ、若干落ち着いた様子の彼の様子を思い返し、リーゼファラスは目を細める。
状況がどう変わったのかは、現状では分からない。だが、確かな変化が起こった事は事実だろう。
「行きましょう。くれぐれも、無茶はしないように。貴方達は、撤退する事を優先しなさい」
「分かってるわよ。殿ができるとは思ってないわ。とにかく、さっさとあいつを回収するとしましょう」
溜息を吐きながら、それでも僅かに緊張を滲ませて、ミラは肩を竦めつつそう返す。
そんな彼女の言葉に頷き、リーゼファラスはコーカサスへと向かって歩き始めていた。
押し寄せてくる力は強大ながら、未だはっきりとした形を成していないという印象を受ける。
それが今後どのような形を取るのかは、リーゼファラスにも分からなかったが。
(後一歩、何かきっかけがあれば、彼は私と同じ領域に至る。既にそうなっていてもおかしくないだけの力は、彼に備わっていたのだから)
カインの力を、カインの狂気を思い浮かべながら、リーゼファラスは胸中で一人ごちる。
いかなる死からも復元させる特異性、死神の大鎌《刻限告げる処刑人》の持つ極大の攻撃能力。
そして、異なる能力を元とするはずの《眠りの枝》を己の内側に取り込める力。
それだけの力を持ち、強い信念を持っていたカインは、当の昔にその領域へ至っていてもおかしくはない存在だった。
(けれど、これまで彼からは、この領域へと上がってくるような気配は感じられなかった。力が足りなかったからでもない、想いが弱かった訳でもない。原因は分かりませんが――)
恐らくは彼の抱えていた矛盾ゆえだろうと、リーゼファラスは胸中で当たりを吐ける。
“死”を望むはずなのに、死から復元され続ける能力。
己の願望から発する能力は、基本的にその願いに即した物である筈なのだ。
彼の願望と能力は矛盾を抱えており――それは、かつての記憶を失っていた事が原因であると考えられる。
(《女神》様と《魔王》様も、それを指摘していたように思える……ならば、今の彼は)
接近するコーカサス。黒く染まった都市に対する破壊衝動を抑えながら、リーゼファラスはゆっくりと視線を上げる。
力の波動の出所が何処であるか。それは、接近する前から当に気がついていた事だった。
コーカサスを覆う外壁、全てが黒く染まったその上で――黒き衣の男が、片膝を抱えた体勢で座り、待ち構えていた。
「よぉ。待ってたぜ、リーゼファラス」
「……カイン」
放たれている力の総量を肌で感じ取りながら、リーゼファラスは僅かに視線を細める。
挑発的に笑う、いつもの調子のカイン。周囲には人の姿も無く、他の力の存在も感じ取る事はできない。
少なくとも、星天の王が近くにいない事だけは確かだった。
「カインさん、無事だったんですね!」
「貴方が無事でここにいて、あの星天の王の姿がないという事は……カイン、貴方が奴を倒したの?」
喜色を表すウルカと、訝しげに周囲へ視線を走らせるミラ。
しかしそれらの言葉に対し、カインはただくつくつと笑みを零して肩を竦めていた。
そんな彼の姿に、リーゼファラスは一歩前に出ながら、ミラたちを庇うように右腕を広げる。
――カインから感じる力の波動が、臨戦態勢のそれに近かったが故に。
「カイン。貴方、何を吹き込まれましたか?」
「さてね……奴の事はどうでもいいとは言わんが、まずはお前に約束を果たして貰いたくてな」
約束――その言葉を耳にして、リーゼファラスは僅かに眦を釣り上げる。
カインと躱した約束は、それほど多くは無い。そして、この場で彼が口にしているものは、恐らく――
「正気ですか、カイン。この場で、私と戦うと?」
「ああそうだ。それが、俺の仕事なんでね」
小さく笑い、カインは門の上から飛び降りる。
既に朽ちて黒く染まった巨大な門には、その枠組みだけが残り、扉というものは存在していない。
その前へと身軽に降り立ったカインへ、リーゼファラスは怒りの篭った視線を向けていた。
「成程、貴方で私を消耗させるつもり、という事ですか。しかし、それに乗るつもりはありませんよ。二、三度殺して正気に戻した後、連れ戻させていただきましょう」
「物騒極まりないけど……ここでリーゼが消耗するのは危険ね。カイン、悪いけど気を失ってて貰うわよ」
「制圧するとなると厄介な相手ですねぇ、カイン様」
地に降り立ったカインに対し、女性陣は一様に動揺もなく、その武器を構えていた。
元々、ある程度の可能性は考えていたのだ。《操縦士》にこそ操られる事はないだろうが、星天の王にはどのような力があるのかも判明していない。
そして何よりも、あの場でカインを誘拐した理由があるとすれば、彼の持つ戦力であるとミラたちは考えていたのだ。
一方で、ある程度カインの事を慕っていたウルカは、若干ショックを隠しきれぬ様子であったが。
自らへと向けられる戦意を心地良さそうに浴びながら、カインはただ小さく笑みを浮かべる。
そして――リーゼファラスに対し、禁句とも呼べる言葉を口にしていた。
「何、お前の下らん信仰を打ち砕いてやろうってだけだ。感謝しろよ、リーゼファラス」
「な――ちょっ、カイン!? アンタ、リーゼに対してなんて事をっ!?」
ミラは思わず目を剥き、カインの言葉を遮ろうと声を上げる。
だが言うまでもなく、それは手遅れであった。カインの言葉は留める間もなくリーゼファラスへと届き――彼女は、僅かに顔を俯かせる。
「……下らない? カイン、貴方は今、下らないと言いましたか?」
「ああ、下らんな。それとも、お前をそうしたあの《女神》が下らんのか?」
刹那――巨大な殺意が物理的な波動と化して、リーゼファラスの周囲にいた面々を弾き飛ばしていた。
怒りと殺意に満ち、爛々と輝く二色の瞳は、ただ一直線にカインの笑みを睨みつけている。
「う、わぁっ!?」
「キャァ!? リ、リーゼ!」
「いけません、ミラ様! 下がってください!」
リーゼファラスの足元は既に水晶の地面と化しており、視線を向けられているカインの周囲もまた、徐々に水晶に変貌しようとしている。
だが――その力を一身に浴びているにもかかわらず、彼の体が変化する事はない。
圧倒的なまでのリーゼファラスの力を涼しい顔で受け流しながら、カインは浮かべる不敵な笑みを崩してはいなかった。
「そうですか……カイン、貴方は滅ぼされたいのですね。あの汚らわしい星天の王と共に」
「汚らわしい、ね。まあいいさ、口で言うよりも拳で語ればいいだろう? ただ睨んでるだけじゃ、俺の口は閉ざせないぞ? それとも、お手本を見せてくれるのか、先輩?」
「……いいでしょう。それが思惑だというのならば、正面から打ち砕くまで。貴方も、星天の王も――この《女神》の地に、必要ない」
《拒絶》の意志を――その信念と共に告げて。
リーゼファラスは、己自身の祝詞を、歌い上げていた。
「 Gesegnet sei, du Reiner, durch das Reine!
主よ、どうか清らなる水で浄化の祝福を
So weiche jeder Schuld Bekümmernis von Dir!
いかなる罪も穢れすらも、 あなたの身より跡形も無く消え去るように 」
刹那、リーゼファラスの身が輝きに包まれる。
七色の光に包まれると共に、彼女の身体を覆ったのは、テッサリアでも見せた戦姫の衣であった。
仮展開とも呼ばれる、超越の理を一部だけ汲み取ったその力。
リーゼファラスの持つそれは、星天の王の攻撃すら正面から受け止める防御の力であった。
対し、カインは笑みと共に、己の唄を謳い上げる。
「 nunc decet aut viridi nitidum caput impedire myrto,
今こそギンバイカの花で輝く髪を飾るに相応しく
nunc et in umbrosis Fauno decet immolare lucis,
今こそ影多き森のファウヌスに生贄を捧ぐ時 」
その身を包む黒き衣に変化があるわけではない。
だが、祈りを告げると共にカインの背中からは、彼が《刻限告げる処刑人》を展開したときと同じ刃の翼が突き出していた。
骨の如き黒の翼で身体を覆い、黒衣の死神は不敵に笑む。
その顔を憎々しげに見つめながらも、リーゼファラスは己の言葉に込められた祈りを、ただ一心に捧げ続ける。
「 Mitleidvoll Duldender, heiltatvoll Wissender!
あなたは無限の辛苦を歩み、我らに救いをもたらした
Wie des Erlösten Leiden du gelitten,
あなたは我らを救うため、那由多もの苦悩を積み重ねた 」
リーゼファラスの言葉に満ちる祈りは、捧ぐ願いは、全てが大いなる《女神》に対するもの。
それはまるで、再確認の作業であるかのように。
けれど、その祈りを、カインは下らないと斬って捨てる。
「 seu poscat agna sive malit haedo.
されど、彼の者が如何なる生贄を欲しようと
pallida Mors aequo pulsat pede pauperum tabernas regumque turris.
青ざめた“死”は、貧者の粗末な小屋も王者の聳え立つ城も等しき足で蹴り叩く 」
カインの告げる言葉は、ただただ自身に捧げる信念そのものだ。
“死”を司る者として、全てのものにとって平等なる救いの安寧を宣告するかのように。
「 die letzte Last entnimm nun seinem Haupt!
故にこの身は、あなたに積る穢れを祓い清めよう
Das dankt dann alle Kreatur, was all da blüht und bald erstirbt,
御身に感謝と祝福を――生きとし生けるもの、そして死に逝く総ての者たちが 」
リーゼファラスより放たれるのは、水晶を通した七色の反射光。
そして、その奥に輝く黄金の――黄昏の光。
「 o beate Sesti, vitae summa brevis spem nos vetat incohare longam;
おお、幸福なる者よ。短き生は、我らが長久なる希望を抱く事を禁じている
iam te premet nox fabulaeque Manes et domus exilis Plutonia;
やがて夜の闇と、言葉のみが残る死者の霊と、陰惨なる夜の館が汝を包み込むだろう 」
カインより放たれるのは、漆黒に染まる夜の輝き。
瞳に満ちる紅い月は、天上より血のような紅の月光を降り注がせる。
そして――
「 da die entsündigte Natur heut ihren Unschuldstag erwirbt ...
あなたへの祈りと共に浄化され、清廉なる日を迎えるのだから 」
「 quo simul mearis, nec regna vini sortiere talis nec tenerum Lycidan mirabere.
そこへ一度足を踏み入れたならば、あらゆる熱も快楽も、その姿を失うだろう 」
――二人の祈りが、願いが、今ここに現実として形を成す。
『超越――』
それは、人の理を超えた、人の身では届かぬ願いを追い求めた殉教者の世界。
己の願いだけが叶えばいいと、ただそれだけを追い求めた破綻する世界。
――超越者の理にして、超越者の魂、そのもの。
「――《拒絶:神楯浄化・石化の魔眼》」
「――《永劫:破滅渇望・冥府の王》」




