94:死神の選ぶ答え
漆黒に包まれた城砦。
テッサリアと同じように、だが比べ物にならないほどの規模で《奈落の渦》による侵蝕を受けている都市。
大崩落の日、一夜にして滅び去ったファルティオンの九大都市が一つ。
その中心にあったはずの白亜の大神殿は、今では全てが黒く染まり、禍々しき城砦としてのみ形を残していた。
――《奈落の渦》が首魁、星天の王の居城として。
(……ここ、は)
朦朧とした意識の中で、カインは呟く。
だがその言葉はほとんど音にならぬまま、漆黒に包まれた建物の中へと消えていった。
黒く染まった城砦は、まるでその内部に闇を押し込められたかのごとく、濃密な漆黒によって塗りつぶされている。
粘性すら錯覚しそうなそれは、ただひたすら遠い闇としてカインの体を包み込む。
――己が体が動かないのは、そのや身に包まれているせいだと、カインは動かぬ頭で半ばそう考えてしまっていた。
(いや……違う。これは、あの時の黒い結晶か?)
直後、僅かに戻ってきた思考回路で、自らの考えを否定する。
幾分か冷静さを取り戻したカインの思考回路は、己の体を拘束しているものがあの時襲い掛かってきた黒い獣。
黒い結晶体が重なり合う事によって現れた漆黒の暴虐は、《刻限告げる処刑人》ですら仕留め切る事が出来ないほどに強大なものだ。
つまり、もしもカインの体を拘束しているものがその類であれば、カインには破壊不能な代物であるという事だ。
両手両足、下半身の全てを拘束されたカインは、視線だけで周囲の様子を観察する。
(俺は……あの後、どうなった?)
テッサリアにて戦いを終わらせた直後、星天の王が現れ、生み出された黒い獣によってカインはあっという間に捕らえられていた。
情けなくは思うものの、リーゼファラスにすら破壊できなかった物質を己が破壊できるとも思えず、カインは胸中で嘆息する。
同時、自分がどのような状況に置かれているのかまでは把握しきれず、カインはわずかに眉根を寄せていた。
状況から見て、監禁状態にある事は間違いないだろう。
だが、カインは己が捕らえられたままである理由が皆目見当も付かなかったのだ。
(連中に俺を殺す手段があるのかどうかは知らないが、少なくとも攻撃を受けた気配はない。一度でも殺されりゃ、流石に気がつくはずだ)
今の今まで己が寝こけていた事実は、《奈落の渦》の目的がカインの殺害ではない事を示していた。
ならば、他にどのような目的があるか――それを考え、カインは闇の中で目を細める。
人質にするつもりならば、カインはあまりにも適切な人選ではないと言えるだろう。
傷つける方法もまず存在せず、命を天秤に掛けること自体が難しい。
それに、もしも人質とするのであれば、ミラというこれ以上ないほどの適任が存在していたのだ。
しかし星天の王は、彼女には脇目も振るような事はなく、一直線にカインを狙って能力を行使していた。
(俺を殺すつもりでもなく、人質の線はどう考えても薄い。ならば、一体何だ?)
さっぱり理由が分からず、カインは嘆息しようとして――ふと、一つの気配が接近してきている事を感じ取っていた。
その気配が持つ強烈なまでの存在感に、カインは思わず息を飲む。
気を抜けば飲まれてしまいそうなほどのそれは、リーゼファラスの持つ力にも匹敵するほどである。
この場において、それだけの力を持つ存在などはたった一人しか思いつかず、カインは静かに気を引き締めていた。
目的が分からない以上、たとえ殺される事がなかったとしても、油断する事は出来ないのだ。
カインの身からは、刺すような殺気が漏れ出始める。熟練の戦士すら硬直させるような死神の威圧――しかしそれに満たされた空間の中に、男は何一つ動じる事なく足を踏み入れてきていた。
「ふむ……やはり、報告を聞くのと直接観察するのでは、実感も異なるものだな。中々に、良い練度だ」
浅黒い肌、銀の髪。怜悧な様相に満足気な笑みを浮かべつつ、星天の王はカインを見下ろしそう告げる。
カインが放つ本気の殺意に対して微塵も動じる事なく、彼はカインの正面にあった椅子へと腰を下ろしていた。
目も慣れ、細い光が入り込んだ事によって、闇に包まれていた部屋の内部も僅かながらに明らかになる。
それほど広くはない、けれど二人ほど人影が存在していても十分に余裕がある室内。
その内側はカインの身を拘束するものと同じ黒い結晶に覆われ、異様な雰囲気を放っていた。
「さて、死神よ。私が何故貴様をここに呼び寄せたか、分かるか?」
「知るかよ、クソッタレ」
「威勢のいい事だ」
まるでじゃれ付く子犬に対応するかのように、星天の王は悠然と笑みを浮かべる。
肘掛に頬杖を突き、その長い足を組みながら、空間を割くようなカインの殺気を心地よさげに受け止めて。
世界の敵たる魔物達の王は、ゆっくりと鋭い瞳を開く。
「記憶は取り戻したのであったな、死神よ。ならば貴様、あの都市から逃げ出した後の事も覚えているのだろうな?」
「……貴様」
ネルを喪い、都市を包む“死”を全て飲み込んで死神と化した当時のカイン。
しかし、いかに力を手に入れたとは言え、その時点では決定的に経験が不足していたのだ。
例え《永劫》の力があったとしても、魔物に包囲されていたテッサリアから逃げ出せるはずがなかったのだ。
しかし、カインはその場から逃げ出す事が出来た。何故なら――
(……何だかよく分からん奴が向かってきて、倒そうと思った瞬間にはどこかの村の前にいた。あれはまさか、《将軍》だったのか? なら、俺があの街から抜け出せたのは――)
外さぬままの視線に、懐疑の念を込める。
もしも、己の脱出を手引きしたのが《奈落の渦》――星天の王の手引きだと言うのならば、果たしてその目的は一体何なのか、と。
その視線を受け、星天の王は僅かに笑む。その笑みは、カインの疑念が事実である事を告げていた。
「予想外であり、出鼻を挫かれるような形ではあったが……貴様があの場で理の片鱗を発言させた事は、私にとっての福音となった」
「何を、言ってやがる……」
「単純な事だ、死神よ。貴様は、我が配下となれ」
星天の王が告げた言葉に、カインは一瞬呆然と目を見開き――次の瞬間、先ほどに倍する殺意が膨れ上がっていた。
常人ならば浴びた瞬間に即死しかねないようなそれも、星天の王は涼しい顔で受け流す。
それに対しても苦々しい表情を浮かべながら、カインは目の前の敵に対して詰問していた。
「何を考えている。俺は貴様らの敵だ、ネルを殺した貴様らの!」
「ふむ、成程。確かに、安寧を直接的に害したのは我々だろう。だが、彼の者が死する切欠になったのは、あのテッサリアという都市の体制そのものではないか?」
「それがどうした……!」
『もしも』の触れ幅が大きすぎると、カインは胸中で吐き捨てる。
そんな事は想像する価値もなく、意味もないと考えていたのだ。
しかし、星天の王は言葉を重ねる。カインの意志に対して、微塵も揺らぐ事はなく。
「思い起こせ。貴様はあの時、我等に対して憎悪を抱いたのか?」
「な――」
「理を手に入れる資格を持つ者よ。例え貴様ほどの魂を持っていようと、その程度の憎悪であれだけ強大な理を発現させる訳が無いだろう」
欠片の力の原動力となるのは、その使い手本人の『願い』だ。
その人物が思い描く『願い』の形によって、発現する力は大きく姿を変える。
そして『願い』とは、現状を変えたいという思い――とりわけ、憎悪という激しい感情となって現れる場合が多いのだ。
リーゼファラスが世界を汚す存在を決して赦さぬように、現状を憎む事――即ち、今現在の世界を憎む事は、能力を持つ者に対して大きな力を与える。
「貴様は憎んだ筈だ。“死”へと至らぬ己の身を、“死”すらも享受できぬこの世界を」
「俺、は」
「そして――己の望まぬものだけが“死”へと辿り着く、この世界を」
ネルを喪いたくないと、願っていた。
カインの世界に、それ以外のものは存在しなかったから。
カイン自身が、それを自覚した事はなかったが――
「故に、望んだ筈だ。己自身が“死”を支配する今の姿を、その原型となる願いを」
あの瞬間に抱いた、始まりの願い。
それを見据えろと、星天の王は語りかける。
普段ならば、カインはその言葉に疑問を抱いたことだろう。
しかし今は、殺気を発する事すらも忘れ、カインは己の思考へと没頭していた。
星天の王は、カインが破滅を――“死”を願っている事を知っている。
監視していたのだとすれば、カイン自身の言動からも明らかだろう。
しかし、死を望むものが、不死の力を形成する筈がない。
故に、星天の王はこう結論付けたのだ。
「貴様は、貴様自身が“死”を司る存在となる事を、世界の理から“死”の概念を己が物とする事を、願った筈だ」
「――――」
その言葉に、カインは否定の台詞を見失っていた。
それは、紛れもない事実であると、カイン自身が認識していたためだ。
――この身が“死”に至らぬならば、己自身が“死”を司る存在となろう――
紛れも無い本物の死神と化す事――それは、間違いなくカインが抱いた願いであったからだ。
あのような形で救いの“死”が訪れる事を赦せず、せめて自らの手でそれを成し遂げたいと願ったのだ。
例えそれが、どれほど傲慢な願いであったとしても。
「自覚せよ、そして忘れるな。死神よ……貴様は、この世の全てを殺し尽くす存在だ」
そう告げて、星天の王は立ち上がる。
カインの身より放たれる、僅かな脈動を感じ取りながら。
――カインの身を、その部屋に満たされる闇で包み込んで。
「貴様は、それを成せば良い。貴様自身の手で、全てのものを殺せば良い」
徐々に強くなり始めるその力を背に――星天の王は、その部屋から立ち去っていた。
* * * * *
「ふぅん」
漆黒に染まった街、大崩落によって滅び去った都市、コーカサス。
魔物達の跋扈する街中で、一人の少年が楽しそうに口元を歪めていた。
人間を見れば魂を喰らうため襲いかかるはずの魔物達は、まるで少年の事など見えていないかのように無視している。
そしてその少年自身も、それが当然の事であるかのように悠然と歩きながら、街の中心にある巨大な城砦を見上げていた。
「そうか、君はここで、その領域に達する訳だ」
感じる力は、紛れも無く彼の死神のもの。
かつても刺すほどに強く感じていたその力は、今や1秒ごとに計り知れぬ巨大さへと膨れ上がっていた。
カインの放つ力の波動は強大であり、その上で“死”という感覚を想起させるもの。
気を抜けば全身を切り刻まれそうなほどの圧倒的な気配に、しかし少年は心地よいと言わんばかりに両手を広げる。
その姿の中に、“死”への恐怖は欠片もない。
「君達は見せてくれるのかな、君たちの事を」
くすくすと、黒髪の少年は笑う。
地獄と化したはずのコーカサスの地で、微塵も危機感など抱く事なく。
ただただ、死神の誕生を祝福するかのように――
「君たちが見せてくれたなら――僕も、僕の願いを抱けるよ」
――僅かな胎動を、放っていた。




