91:雷の雨
溢れるように湧き続ける無数の魔物の群れ。
猛る炎でそれらを次々に焼き尽くしながら、ウルカは状況の悪さに視線を細めていた。
プラーナはまだ幾分か余裕があるものの、ある程度底が見えてきてしまっている。
しかし、かといって敵の数に陰りが見えるような事もなく、ファルティオンの軍勢は徐々に押し込められつつあった。
打開策はたった一つ、《渦》の核を破壊する事以外には存在しない。
(けど、あの人たちがこれだけ時間をかけても核を破壊できていないって事は、何か厄介な事になってるのかな)
振り下ろした刃から炎を発し、群がる魔物達を灰へと変えながら、ウルカは離れた場所で戦っている二人の姿を脳裏に浮かべる。
カインとリーゼファラス――ウルカが知る中で、間違いなく最強であると言える人間。
そもそも人間なのかどうかすら妖しい存在ではあるのだが、二人の実力は何よりも確かなものだ。
そんな二人が戦っているにもかかわらず、未だに《渦》の核は破壊されていない。
戦力的に考えて、あの二人が苦戦しているとはどうしても考えられず、ウルカは何かしらの異常事態が起きているのだと判断していた。
(正直、苦戦とかそういう言葉とは無縁な人たちだし。《将軍》がいたとしても二人だけで倒しきれちゃうだろうし)
小さく嘆息しつつも、気を抜くような事はない。
カイン達がどうなっていたとしても、自分達が生き残れない事には意味が無いのだ。
彼らが核を破壊できないのであれば、またしばしの間戦い続ける必要がある。
頼みの綱は先ほど全力を発揮する事を宣言したレイクレアであったが――
「魔力の練り上げが足りないわ。もっと強く、大きく」
「ッ、分かっていますわ! 少々黙っていて下さい!」
現在、彼女はジュピターに捧げる魔力を練り上げている所であった。
練り上げられる魔力の量はかなりのものではあるが、そのスピードは遅々としたものである。
ミラがほんの数秒で練り上げてしまうような魔力を、彼女は長い時間をかけて構成していた。
尤も、それはミラが多くの経験と高い技量を持っているというだけの事であり、レイクレアの才能が欠如しているという訳ではない。
だがこの場においては、あまり歓迎できる事態ではなかった。
「他に方法がないとは言え……きっついね、こりゃ」
「贅沢が言える状況でもあるまい。気を抜くなよ――まあ、貴方に言う必要はないだろうが」
岩盤を操りながら呻くケレーリアと、苦笑交じりに刃を振るうユノー。
既に、指揮官である彼女が武器を振るわなければならないほどに、戦場は徐々に押し込められつつある。
未だある程度の余力を残しているとは言え、時間が経てば経つほど不利になっていくのは確かだ。
そんな戦場の中心で、レイクレアの傍らに立つミラは、彼女の魔力の練り方に一つ一つ指示を出しながら、普段以上に厳しい声音で声を上げる。
「これまで神域言語をまともに扱った事もない人間が、いきなり最高難易度の術を扱おうとしているのよ? 無理や無茶は最初から承知してる。でもね、貴方がやらなきゃいけないのよ、分かるでしょう?」
「言われなくとも……!」
「本来ならば、貴方の対抗意識やら劣等感に付き合う理由は無い。賭けに出る理由のない戦場なら尚更ね。でも、今は賭けに出なければならない。貴方と言う不確定要素に頼らねばならず、本来それを行うべき私は貴方達の救助で力を使ってしまっている」
故に、失敗できる状況ではない。
そうであるにもかかわらず、ミラはレイクレアを追い立てるように言葉を並べていた。
そんな彼女の様子に、ウルカは違和感を覚えて眉根を寄せる。
ミラは、基本的には味方に優しい人間だ。あらゆる人に分け隔てなく接し、信頼する仲間には常に手を差し伸べる。
しかし、今のミラは、味方であるはずのレイクレアを追い詰めるような言葉を発していたのだ。
同じジュピターの契約者である彼女に、何かしら思う事でもあるのか――そんな言葉が脳裏に浮かんだウルカは、苦笑交じりに自らの考えを否定していた。
例え何らかの感情を抱いていたとしても、それをこの場で発するような人間ではない。
何か思う事があって、その言葉を発しているのだろう――そう判断し、ウルカは再び目の前の魔物達に集中していた。
「困難に対し、あえて立ち上がった。その意気は認めましょう。けれど、今この場においては、ただ強い意志を示しただけでは意味がない。分かるでしょう? 貴方は誰、貴方は何者?」
「わたくし、は……」
レイクレアの声が、僅かに震える。
しかしそれは、ミラの言葉によって心を挫かれたからではない。
何故なら、彼女の魔力は、今この瞬間にも高まり続けていたからだ。
先ほどまでよりも速く、鋭く、彼女達の纏う雷のような鮮烈さで。
「そう、私達は……誇り高き、ジュピター様の契約者。ならば――」
「ならば……わたくし達に、失敗など赦されない。大いなるジュピター様の名を、穢す事などあってはならない!」
「ジュピター様の名を背負う者として、今この戦場に立つ一人として! 膝を折る事など、ありえない!」
ミラは、レイクレアの姿にかつての己を見ていた。
リーゼファラスに憧れ、劣等感を抱いていたかつての己の姿を。
目の前にある背中ばかりを気にして、本当に己自身がすべき事を、見逃してしまっていた時の事を。
だからこそ、ミラはレイクレアを追い立てるように言葉を重ねていたのだ。
上位神霊は、己の好みで契約者を選ぶ。
それは単なる好き嫌いの問題ではなく、その神霊自身と波長の合う人間であるかどうかが重要なのだ。
そのため、同じ上位神霊に選ばれた人間は、どこか似通った性格や気質を持っている場合が多い。
ジュピターの場合は――強い責任感と、向上心。
だからこそ、どれほど追い詰められたとしても、一度立ち上がったレイクレアが膝を折る事はない。
ミラは、誰よりもそれを理解していたのだ。
「とはいえ……!」
殺到する魔物の数は、レイクレアの魔力が高まると共に多くなってきている。
その魔力と魂に、魔物達が反応しているのだ。じりじりと押され始めている戦場に、ウルカは思わず歯を食いしばる。
加速する魔力の高まりは、しかし未だ臨界点には届いていない。
先ほどまでよりも要する時間が短くなったのは確かであるが、そのあと少しがもどかしいのだ。
切り札を切るか――己のプラーナを燃やす覚悟を決め始めたその瞬間。
ウルカの視界の端に、突如として現れた人陰があった。
「少し、時間をかけすぎてしまいましたね」
黒い侍女服を纏う影は、両の手に持った刃を振るい、躊躇う事無く魔物の群れの中へと飛び込んでゆく。
一見すれば自殺行為にしか見えないその姿であるが、ウルカはそれに一分の心配も抱いてはいなかった。
そしてその期待を違える事無く、魔物達はバラバラに解体されてその場に崩れ落ちる。
しかし、その場には既にメイドの姿は存在していなかった。
目で追っていては追いつけない。彼女は、そういう存在なのだから。
メイド――アウルが戦場に戻ってきた事を察知し、後ろに下がっていたミラは小さく笑みを浮かべていた。
上位神霊契約者以上の働きをしてくれる彼女がいるのならば、時間稼ぎには十分すぎる。
ならば後は、高まったレイクレアの魔力を、自分達の主へと捧げるだけだ。
「貴方が使おうとしているのは、神域言語を用いた術の中でも最高位に近いもの。正直な所、完全な制御を期待してはいないわ」
「言って、くれますわね……」
「私が五年以上を費やして、ようやく精密な制御が出来るようになった術なのよ? ぶっつけ本番の貴方に、制御しきれるはずがないでしょう」
魔力量は後一歩。程なくして準備は完了するだろう。
しかし、魔力を捧げただけで術が完成するわけではない。神域言語による術は、あくまでも上位神霊の力を直接借り受けるものに過ぎないのだ。
その制御は術者本人に依存しており、術の威力とその制御の難しさは比例している。
レイクレアが使おうとしている術は、初心者が使うようなものではないのだ。
しかし、この術でなければ現状を打破することが難しいのもまた事実。
だからこそ、ミラは彼女のサポートに回っていたのだ。
「細かな制御までは求めない。精々、自分達の頭上に雷を落とさないようにするだけで十分よ。後は、他の面々が何とかしてくれるわ」
「ふん、勝手な事を言ってくれるな、ロズィーア」
「あら、その程度も出来なかったかしら、クレヌコス?」
「舐めるな、お前が期待している事が何なのかぐらいは理解している」
槍を振るうネレーアは、憎まれ口を叩きながらも僅かな笑みを口元に浮かべる。
その背には、確かにミラに対する信頼が込められていた。
そんな仲間の姿に淡く笑み、ミラはレイクレアの方へと向き直る。
「敵に当てる事より、私たちに当てない事を考えなさい。万が一の時は、私が何とかするわ」
「……了解しましたわ。お任せします」
ミラの浮かべた笑みを受け、レイクレアは小さく嘆息すると共に、彼女に対する対抗意識を封じ込める。
今はそれよりも、集中しなければならない事がある。自らのちっぽけな意地よりも、優先しなければならない仲間達が。
レイクレアは静かに意識を集中し――そして、自らの主の名を発していた。
「――契約行使、《ジュピター》」
刹那、膨大な量の魔力が、レイクレアの身より天へと向けて捧げられる。
強い虚脱感と共にもたらされるのは、天を焦がさんばかりに荒れ狂う強烈な雷の力。
その全てを身に宿し、肉体を灼かれるような錯覚に晒されながら、それでもレイクレアはこの世にあらざる言葉を紡いでいた。
「『Ερχόμενοι, της καταστροφής Θάντερ』」
それは神域言語と呼ばれる、上位神霊たちの領域で紡がれる言葉。
その言葉自体に強大な力が宿り、力ある言葉は上位神霊の力をそのまま操る事を可能にする。
レイクレアの望んだ力は、かつてミラが幾度か使った事のある、強大極まりない神の術であった。
このテッサリアへと向かう前の駐屯地で、ファルティオンの部隊に合流する際にミラが放った、圧倒的な雷の雨。
広く広く、果てまでを打ち砕く神の鉄槌。その光景を思い返して、レイクレアは密かに自覚する。
(ああ、そう、その通り。わたくしは憧れた。あの、圧倒的な力に)
雷を纏い、凛として立つ聖女の姿に。彼女の放った雷の、呼吸すら忘れるほどの力強さに。
レイクレアは、己が心底敬意を覚えていた事を、今になって自覚したのだ。
そして、だからこそ思う。そんなミラの姿に、一歩でも近付きたいと。
だからこそ――
「『Σφυρί του Θεού』――――ッ!!」
――レイクレアは、その力を全力で解き放っていた。
体の内側から溢れる雷、自らの体が弾け飛びそうになる感覚を必死に耐え、レイクレアはその力を天へと向けて解き放っていた。
一条の光となって駆け上る雷は、天空高く飛び上がると、広範囲にジュピターの力を描き出す。
広く、速く、圧倒的に、何者も逃れ得ぬような破壊の力を広げてゆく。
それを察知し、不敵な笑みを浮かべたのはネレーアであった。
「良くやった! デーメテール、こちらの援護を!」
「あいよ、存分にやりな」
「感謝する――『Δίνη κυματώδης』!」
瞬時に練り上げた魔力量は、先ほどのレイクレアには及ばないものの、十分に強大なものだ。
上位神霊エノシガイオスへと捧げられた魔力はネレーアの槍に宿り、逆巻く渦を作り上げる。
掲げられた槍より放たれた渦は周囲へと広がり、迫る魔物達を押し返しながら流れの中に飲み込んでゆく。
そしてその流れの中へと向けて、天空に広がったレイクレアの術式が放たれていた。
大地を焼きつくさんがばかりの強大な雷の雨。それが降り注ぐ先は、ネレーアによって放たれた通電性の高い水の中だ。
僅かな隙間があったはずのレイクレアの術は、ネレーアの水流と組み合わさる事によってその弱点を克服し、全ての敵を余す事無く飲み込んでゆく。
――だが、それだけでは満足しない者が、この場には存在していた。
「ダメ押しー。『Φανγκ κρύβονται στις σκιές』」
珍しく影の中から全身を現したのは、上位神霊プロセルピナの契約者、ザクロである。
影の中から飛び出した彼女は、己の影へとその小さな両手を押し上げ、強大な魔力をその内側へと込める。
瞬間、ザクロの影は歪み、形を変えて周囲の影を接続するように伸びて行き、この都市のありとあらゆる影を繋いでいた。
そして――街中のありとあらゆる場所から、黒く染まった鋭い牙が伸び、水に飲み込まれ雷を浴びて動けなくなった魔物達を貫いていく。
強大極まりない、三つの術式。その連携によって、テッサリアを侵蝕していた魔物達は、逃れる術もなく打ち砕かれていたのだった。