89:“死”の化身
「足止め、か。あんまり意識してやった事のない戦いだな」
カインは、襲い掛かる魔物達の群れから傭兵部隊を逃がすために、自ら囮を買って出た事がある。
しかしそれは、あくまでも己が戦いを望んでいたためであり、敵の足止めそのものを意識して戦っていた訳ではなかった。
それは、カインが何処まで行っても己は戦闘技能者であり、“死”に触れえる戦場こそが求めるものだと認識していたからだ。
しかし、今のカインは少々違う。かつての記憶を取り戻した彼にとって、己が“死”に辿り着く事は目的そのものとは言えなくなっていたのだ。
「ま、やるだけやってみますかね」
軽く呟き、カインは駆ける。
緊張感などまるで無い声音ではあったが、その動きは非常に鋭いものであった。
しかし、黒蜘蛛もそれを黙って見ているほど愚鈍ではない。
一直線に向かってくる黒い影へと向けて、蜘蛛はその鋭い足を一直線に振り下ろしていた。
振り下ろされた左前足――それを、カインは右側、蜘蛛の側面へと回るようにしながら躱す。
左に避けていれば、もう一方の足による追撃を受ける事が目に見えていたからだ。
しかし、左側とて残る足はまだ三本あるのだ。油断できる相手ではない。
とは言え――
『シャアアアッ!』
「おっと」
二本目の足による攻撃を、カインは跳躍する事で回避する。
いかに足が四対あると言っても、その全てを攻撃に使える訳ではない。
二本も足を上げてしまえば、それ以上はバランスを崩す結果にしかならない事など自明だろう。
そして一つ一つ放たれる程度の攻撃など、カインにとって容易く回避できるものでしかなかった。
「喰らいな」
跳躍し、蜘蛛の真上に陣取ったカインは、その手に黒い刃を発生させる。
《永劫》の力によって留められた無数の“死”は、その刃に触れただけで生物を死に至らしめる。
それは魔物とて例外ではなく、完全に防ぎきれる《将軍》を除けば一撃で倒せるだけの力を有しているのだ。
しかし、この蜘蛛にはそれが効かない。何故なら、この蜘蛛は生物ではないからだ。
蜘蛛の姿をしているが、これはあくまでも現実へと溢れ出した《奈落の渦》そのものである。
生きていないものを、殺す事は出来ないのだ。
故に、カインは“死”を束ねる。
逆巻くようにして生まれたのは、一本の長大な杭だ。
以前戦ったクリュサオルの放つそれとよく似た杭は、光沢の無い黒に彩られてカインの手の中に納まる。
そして、カインはそれを蜘蛛の背へと向けて一気に投げ放っていた。
足を二本動かしていたのだ、咄嗟の回避行動など取れる筈が無い。
杭は狙いを違える事無く、蜘蛛の背へと突き刺さっていた。
『ギィ……ッ!』
小さな悲鳴があった事に若干驚きながらも、カインは杭へと意識を集中させる。
形状こそ杭ではあるが、その実体は“死”の刃の塊だ。形状など、如何様にでも姿を変える。
蜘蛛を貫通して地面まで突き刺さっていた刃は、枝を広げるように刃を放ち、蜘蛛の体を内側から蹂躙する。
内側から縫い止められてしまえば、《奈落の渦》とて動けるはずも無い。
あわよくばそのまま《渦》の核を貫いてしまえれば良いとカインは考えていたが、そこまで容易い相手ではなかった。
磔にされたままもがく蜘蛛へと、一人の影が跳躍する。着地する途中であったカインを追い抜くように駆け抜けたのは、その身に力を滾らせるリーゼファラスだ。
「砕け散りなさい」
既に回帰を発動させているその身は、視線一つであらゆるものを結晶化させるほどの力を有している。
そんな彼女の視線に晒されて尚、漆黒の体躯を保っていた蜘蛛。そこへ、リーゼファラスの鋭い蹴撃が放たれていた。
あらゆる不浄を打ち砕く聖女の一撃。《奈落の渦》を絶対の敵と定める彼女の意志は、蜘蛛にとっては猛毒の攻撃と化す。
それは、カインの放った杭の横から蜘蛛の背へと突き刺さり、その身体を打ち砕いていた。
「――いや、これは!?」
刹那、あまりの手応えの無さに、リーゼファラスは驚愕の声を上げていた。
水晶と化しながら砕け散った蜘蛛の体。それは確かであるのだが、砕ける際にあまりにも抵抗が無かったのだ。
――まるで、自分からバラバラに飛び散ったかのように。
「ちッ、そういう芸当も出来る訳か!」
上空にいたカインは、その状況をいち早く把握していた。
巨大な蜘蛛は、その身を無数の小さな蜘蛛に分裂させてリーゼファラスの攻撃による被害を最小限に抑えていたのだ。
彼女の攻撃が触れた場所が水晶と化すのを防ぐ事は出来なかったが、水晶による侵蝕が広がるのはあくまでも繋がっている部分だけだ。
分裂してしまえば、水晶化によるダメージは大きく減らす事が出来るのである。
そんな狙い澄ましたかのような対応に、カインは僅かに目を細めていた。
(何だ、コイツは。何故拘束された時点でそれを使わなかった? それに、まるでリーゼファラスの攻撃を読んでいたかのような対応をしてなかったか?)
分裂を使えば拘束を逃れられたはずなのに、何故か分裂を使おうとはしなかった点。
そして、リーゼファラスの攻撃の性質を知らなければ出来ないような対応。
知性が無ければ不可能であり、かといって知性があるにしても疑問が残るような対応。
その事実が、大きな違和感として残っていたのだ。
「逃がしません」
一方、地上にいるリーゼファラスは即座に次なる攻撃へと移っていた。
相手の数は増えたものの、その大きさは非常に小さく変化している。一つ一つを結晶化させるために必要な力は、かなり少なくなっているのだ。
能力を強化している今のリーゼファラスならば、小さな蜘蛛を水晶に変える事など、その視線の一瞥で済むほどだ。
リーゼファラスはその視線に力を込め、周囲をぐるりと睥睨する。
ただそれだけの行動で、無数の蜘蛛達は水晶へと変化して砕け散っていた。
だが、数が多い。周囲の地面を埋め尽くすほどの蜘蛛の群れが、一斉にその場から離れていっているのだ。
例え視線で済むといっても、一瞬程度は注視しなければならない以上、全てに対応するのは不可能だった。
「……っ」
苛立ち交じりの吐息と共に、リーゼファラスもまた事態の違和感を感じ取る。
明文化は出来ないが、何かがおかしいのだ。理解が出来ない、と言ってもいいだろう。
奇妙な意志の介在を、二人は直感的に感じ取っていた。
一方で、蜘蛛はリーゼファラスから離れると共に、また一つの形を取り戻そうとしていた。
地面を汚染する黒を吸い上げ、減らされた傍から数を補い、再び一つの巨体を作り上げる。
周囲の地面を染めていた黒の量は減ったものの、結果的に蜘蛛の巨大さに変化は無い。
厄介な相手に眉根を寄せながらも、リーゼファラスは隣に着地してきたカインへと向けて問いを投げていた。
「どう見ますか?」
「よく分からんが、俺としてはお前さんの事を知り尽くした相手のように思えるぞ?」
「……となると、可能性は限られますね」
「ついでに、倒せる方法もな。どうする?」
先の二つの攻撃を受けても、巨大な蜘蛛が倒れる事は無かった。
つまり、先ほどの攻撃では《渦》の核を傷つけられなかったという事だ。
偶然当たらなかっただけか、はたまた、最初からそこには存在していなかったのか。
どちらにしろ厄介な事だと、リーゼファラスは視線を細める。
「攻撃が効いていない訳ではありませんので、畳み掛けます。そちらも、良いですか?」
「お前の本気が見られるかとも思ったが、まあそこまで甘くはないか。了解、やってやるよ」
小さく笑い、カインはその腕を掲げる。
“死”で包まれたその身は、既に全身が凶器である。
相手が無数にいるならば、無数の刃で相対する。だが、カインにはもう一つ、目の前の相手に使える武器が存在していた。
「力を貸してくれ、ネル」
彼女を呼ぶ言葉は、既に口に出している。
故に、彼女の力である《眠りの枝》は既にカインの支配下にあった。
とは言え、力の性質は元来異なるものであり、カインが操るには少々負担の大きい能力でもある。
あまり長くは操れない事を自覚しながらも、カインはその白い刃を準備状態に整える。
いつでもそれを呼び出せるようにしながら、カインは右腕に力を充足させ、地を蹴っていた。
「こちらが貴方に合わせます」
「その方がいいだろうな、了解だ」
他人に合わせる事が得意ではない事を自覚しつつ、カインは苦笑と共に腕を振るう。
それと共に腕は黒い靄となって解け、無数の刃の奔流へと変化していた。
ギチギチと軋み、絡み合う刃の流れは、飲み込まれれば肉片一つ残さない掘削機のような破壊力を以って蜘蛛へと殺到する。
対し、蜘蛛もそれを黙って見ている訳ではない。
身体を構成し直した蜘蛛は、その臀部を持ち上げると、先端から黒い糸を勢いよく噴き出していたのだ。
糸と言っても元の大きさがかなりあるため、糸自体の太さも10cm以上は存在している。
そんな糸が、何本も同時に射出され、黒い刃の群れへと正面から激突していたのだ。
「ぬ……!?」
カインは、絡み合うように進んでいた黒い刃が、その動きを僅かに鈍らせた事を自覚する。
粘着性、強度共に高い蜘蛛の糸が、刃の群れに絡み付いてその動きを阻害していたのだ。
そしてその僅かな隙の間に、蜘蛛は大きく跳躍して刃の群れから逃れていた。
――だが、それを黙って見逃すリーゼファラスではない。
「逃がしはしません!」
地を蹴り、建物の外壁を蹴って跳躍していたリーゼファラスは、一息に蜘蛛に接近してその手の武器を振るっていた。
それは、彼女の力によって結晶化したカインの杭。先ほど蜘蛛の身を拘束していたそれは、リーゼファラスの力によって《渦》を侵蝕する毒の棒と化していた。
空中で踏ん張る地面が無いにもかかわらず、リーゼファラスはそれを勢いよく振り下ろす。
跳躍して足を伸ばしたままであった蜘蛛には、その攻撃を回避する事など不可能であった。
「カイン!」
「あいよ」
振り下ろされた杭は、蜘蛛の体を地面へと向けて叩き落す。
その先の地上では、カインがその手を伸ばして待ち構えていた。
黒い糸の絡んだ右腕は未だ元の形状に戻ってはいなかったが、その左手には白い直剣が握られている。
《眠りの枝》は、上空にあったこの蜘蛛を眠らせる事に成功していたのだ。
その時よりも体積の少なくなった蜘蛛を相手に、眠らせられないとは到底思えない。
そして蜘蛛もまた、その事をしっかりと理解していたようであった。
『シャアアアアアアッ!!』
がむしゃらに足を振り、《眠りの枝》を弾き返そうと空中でもがく。
だが、元よりカインはダメージなど無視して行動する事が可能な存在だ。
ただ暴れまわるだけの攻撃など恐るるに足りないと、カインは口の端を笑みに歪めて肉薄する。
振るわれた足が、未だ糸を振り払い切っていない右腕を切断していたが、むしろ好都合だとばかりにカインは地を蹴る。
その身は、完全に蜘蛛の懐へと潜り込んでいた。
「たっぷり料理してやる、今は眠りな」
白い直剣が、蜘蛛の腹を衝く。
切れ味などまるで無い、武器としては使用できない白の直剣。
その一撃は、巨大な黒蜘蛛を確かに眠りの淵へと落としていたのだった。
倒れてくる蜘蛛の下から抜け出しつつ、カインは軽く息を吐き出す。
眠らせる事には成功したものの、まとめて倒すとなると面倒な相手である事に変わりは無い。
おまけに、《眠りの枝》を二度も使用してしまったのだ。
本来カインの能力ではない《眠りの枝》は、カインの力を大幅に消費してしまっていた。
(能力を使った事による疲労なんぞ、久しく感じていない感覚だったが……高い効果にはそれなりの対価が必要って事か)
自らの体の内へと沈み込んでゆく剣を見つめながら、カインは小さく嘆息する。
自らの体を維持できないほどに疲労している訳ではないが、全力戦闘を行えるかと問われれば疑問が残る。
今後は使い方にも気を使わなければ、と肩を竦めつつ、カインは眠った蜘蛛へと視線を戻していた。
――感じていた違和感を、確かめるかのように。




