87:テッサリアの戦い
「あらら、これは面倒な事になりましたね」
「貴方はいつでも余裕そうよね……まあ、気が楽でいいのだけど」
溢れ出して来る魔物達に対してアウルが呟いた言葉に、ミラは小さく嘆息を零していた。
上空の巨大な《渦》が切り離され、攻撃も止んで一段落と言う状態で、しかし戦いが終わっていない事を思い知らされたのはつい先ほどの事だ。
《渦》を切り離した際の歓声も、これだけの数の魔物を前にしては、なりを潜めてしまっている。
状況は、決して良いとは言えないだろう。周囲を包囲するように接近してきている魔物の群れ。
建物があるために周囲の見通しは悪く、距離がある内からの先制攻撃も難しい。
その上、こちらは怪我人まで抱えているのだ。厳しい戦いであると言わざるを得ないだろう。
「ミラさん、どうしますか?」
「そうね……私達だけならば生き残る事も難しくはないと思うけど、これだけの負傷者を抱えているとね……」
「となると、撤退ですかね。動けない人を連れて行くなら、急いだ方が……」
「ええ、分かってる。ケレーリア、指揮官は一応貴方よね。こちらは貴方の指示に従うわ」
「やれやれ、面倒な所を丸投げしてくれるお嬢だね」
呟き、ケレーリアは肩を竦める。この状況下でも、彼女は決して冷静さを失ってはいなかった。
実際の所、彼女にも仕事を投げ出したいと思うようなやけっぱちな思いがあったのも事実だ。
いかに予想外な状況であったといっても、隊の損耗は全てケレーリアの責任となってしまう。
その上で、やるべき仕事はリーゼファラスが持っていってしまったのだ。
作戦自体が貧乏くじだったと、溜息しか出ない状況である。
だが――
「このままで終わるってのも癪だ。そこの、リーゼファラスの侍女さんよ、アンタは他人を遠くまで運べるんだね?」
「はい、そうですね。怪我人の方々を外まで運べ、という事でしょうか?」
「アンタの力をリーゼファラスに断り無く借りちまうのは悪いと思うが、状況が状況なんでね。あいつの手助けをするためにも、ちょいと頼まれて貰いたい」
「ふむ……そうですね。このままではリーゼ様の邪魔になりますし、了解しました。運ぶのは、怪我人の方だけでいいんですね?」
「ああ、後は――アンタ達! 今ここで、退くか残るか決めな! これだけの数を相手に、戦える気概のある奴だけここに残れ!」
その言葉に、聖女達が一斉にざわつき始める。
無理もないだろう。数が多い事もあるが、周囲を囲まれている状況なのだ。
百戦錬磨の聖女と言えど――否、だからこそ、この状況が絶体絶命であると分かってしまうのだ。
けれど、その状況でも、躊躇い無く前に出る者達が存在していた。
「論ずるまでも無い。私は残る……クレヌコスの名に懸けて、この場をリーゼファラス様だけに任せるなど認められん」
「こちらもな。不利な戦況、真に結構。それでこそ、マールス様から加護を賜った甲斐があるというものだ」
まず最初に前に出たのは、ネレーアとユノーの二人。
上位神霊契約者の中でも特に武人としての気質が濃い二人は、不利な状況などまったくと言っていいほど意に介していなかった。
それに対し、上位神霊契約者でも下がる事を選択する者も存在していた。
他でもない、神霊ディアーナの契約者、アルテアである。
「私は一度下がります。怪我人の方々の治療、護衛は私が行いますので……後顧の憂い無く、戦ってください」
医術の技能に優れた彼女は、今の状況で前に出るメリットは少ない。
彼女の能力は植物がある場所で特に力を発揮するものであり、都市の内部では――特に、《奈落の渦》によって侵蝕されたテッサリアの大地では、その力を上手く発揮できないのだ。
弓の技能もあるが、それでも他の上位神霊契約者には譲る事になってしまう。
故にこそ、彼女は後方で負傷者の保護を行う事が適任であると言えるのだ。
「私もー戦うよー」
「っ、わたくし、は……」
影の中から上半身だけを出して手を振るザクロ――しかしその影の主は、顔を俯かせて声を詰まらせていた。
彼女の名はレイクレア・キュロス。上位神霊契約者となって日が浅い、神霊ジュピターの契約者。
そんな彼女に対し、あまり間を置かずに声をかけたのは、他でもないミラであった。
「貴方は、負傷者の護衛を頼めるかしら? アルテア様だけでは、手が回らなくなる事もあるでしょうし」
彼女は上位神霊契約者、それもその最上位たるジュピターの契約者だ。
その名には、それだけの重みがある。少なくとも、その肩書きを持つ者が無様を晒す事は許されない。
それが例え、僅かな時間の逡巡であろうとも――踏み出す事を恐れている姿が、他の者達にどう映るかなど、答えは分かりきっているのだ。
故にこそ、ミラは先手を打って彼女にそう打診した。
それは一つの逃げ道。後方に下がる為の正当な理由。ミラからの要請であるならば、それを受け取ったとしても無様を晒す事にはならないだろう。
けれど、それは同時に――
「ッ……いい、え! わたくしも、戦いますわ。前に出て、この戦場で! わたくしはジュピター様と契約を交わした者……後ろで見ているだけなど、わたくし自身が赦せません!」
「……そう。なら、期待しているわ」
――それを拒否すると言う道も、残されている問い方であった。
そうして吐き出された言葉に、ミラは満足そうに小さな笑みを浮かべる。
それでこそ、神霊ジュピターの契約者である、と。
他にも立ち上がった聖女達の数を確認し、ミラは小さく頷いてケレーリアへと視線を向ける。
この場には、己の力量を悟れぬ愚か者はいない。今立ち上がった者達は全員、戦力差を理解している者ばかりだ。
ならば、やってやれない事はないだろう――そんな意思を受けて、ケレーリアは小さく笑う。
「よし。それならまぁ、一丁やってみるとするかい」
「異論は無いわ。アウル、その子達の後退をお願いするわ。私達は――」
迫り来る、轟音。
建物の間を縫い、或いは踏み潰しながら、無数の魔物達の気配が近付く。
それらを前にして、ミラはただ不敵な笑みを浮かべていた。
「まずは、撤退までの時間稼ぎ、って所かね」
「うむ。各員、方陣展開。まずはこの一帯に魔物共を近寄らせぬよう、防衛線を敷け」
ユノーの指揮に、全員が頷く。
まずは、撤退組みがいなくならない事には、自由に動く事もままならない。
その間、アウルが戦線から下がらなければならない事は少々痛手であったが、あまり贅沢は言っていられないと、ミラとウルカは気を引き締める。
出来ればリーゼファラスたちの援護をしたい所ではあるのだが、生憎とこの退避が終わるまではこの場を離れられないのだ。
「ウルカ、節約気味で行くわよ」
「はい。まあ、《将軍》級でもない限りは全力を出したりはしませんよ」
「ま、厄介なのはあっちに行くでしょうしね」
既に馴染み始めた“死”の気配を感じ取り、ミラは軽く息を吐き出す。
慣れたとは言いがたいが、それでも前よりは多少耐性もできてきている。
果たして、彼らにとって今回の敵はどの程度の相手なのか――
「……早めに終わらせてよ、リーゼ。そっちが終わらないと、こっちも無尽蔵に湧いて来るのだから」
離れた場所で戦う仲間に対し、ミラはそう、小さく呟いていた。
* * * * *
敵は一体。しかし、同時に感じるのは無数の気配。
周囲から集まってくる魔物達の気配ではなく、その巨体の内側から多くの気配を感じているのだ。
それはまるで群体――無数の魔物が折り重なってできた、一つの《渦》。
柔軟に形を変え、まるで蜘蛛のような姿をとったそれに、カインは僅かに視線を細めていた。
「どうやら、逃げる気は無いらしいな」
「先ほどまでは随分と淡白な……と言うより、機械的な反応を見せていた気がしたのですが、今はきっちりと意志を感じますね」
「ああ。俺達をぶち殺してやるっていう殺意がな。ま、この方が分かりやすくていいんじゃねぇのか?」
「意志が、感情があればその分読みやすい、ですか……そうですね、確かにこの方が戦いやすいかもしれません」
無論、どちらにした所でやる事に変わりはないのだが。
目の前に存在しているのが《奈落の渦》である以上、滅ぼす以外の選択肢など存在するはずが無い。
ましてや、現実世界を侵蝕し始めるほどの巨大なそれだ。リーゼファラスにとって、非常に度し難い存在であると言える。
その激情はすでに周囲に影響を及ぼし始めており、彼女の足元は水晶の地面と化していた。
「……行きますよ、カイン。あの塵は、この地上に芥の一つとして残さない」
「へいへい、了解だよ聖女様。そんじゃ――」
ファルクスを構え、駆ける。その、一瞬だけ前。
――漆黒の巨体は、カインの眼前に迫っていた。
「ッ!?」
油断をしていた訳ではない。気配には常に気を配っていたし、動きがあればすぐにでも対処できる姿勢をとっていた。
だが――そんなカインの認識よりも速く、黒い蜘蛛は動いていたのだ。
その《重装兵》と比較しても遜色ない巨体に似合わぬ、素早すぎる動作。
そこから振り下ろされた巨大な足の一撃を、カインは近くの建物の壁に突き刺した黒い刃で身体を引き寄せる事によって回避していた。
「おいおい、コイツは……」
『シャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
巨大な咆哮と共に、蜘蛛の足が横薙ぎに振るわれる。
その速度も驚異的であり、カインは無駄口を叩く暇も無く跳躍する事で何とか回避していた。
蜘蛛の足は凄まじい衝撃と共に振り抜かれ、カインが背にしていた建物を根元から吹き飛ばす。
その建物を足場に跳躍し、蜘蛛から距離を取りながら、カインは鋭い視線を蜘蛛へと向けていた。
――その力が、あまりにも強大すぎたのだ。
(特殊な能力は今のところ見せていない。だが、これまでの《将軍》のように油断や遊びが一切ねぇ……その上、どでかい図体してやがるくせに、スピードはほぼ俺と同じくらいか)
単純に力強く、単純に素早い。それを、これだけの巨体で行っているのだ。
厄介以外の何物でもないと、カインは思わず舌打ちする。
もしもこの蜘蛛と相対していたのが己とリーゼファラスでなければ、抵抗の間もなく殺されていた事だろう。
そう判断し、カインは再びファルクスを構えていた。
「ま、やってやれない事はないだろ――」
呟き、地を蹴る。
今度はこちらが先だと言わんばかりに跳躍し、蜘蛛のスピードに勝るとも劣らぬ速さで肉薄する。
『シャアアッ!』
「っと!」
振り下ろされるのは、丸太のように巨大な蜘蛛の足。
カインはそれを跳躍して躱すと、手に持つファルクスを思い切り蜘蛛の背中へと突き立てていた。
生物を死へと至らしめる黒い刃が蜘蛛を貫き――その手応えの無さに、カインは目を見開いていた。
そして舌打ちし、刃を突き刺したまま跳び離れる。
「……なるほど、群体か。多少殺した程度じゃ意味が無いって訳だ」
「となると、私の方が攻撃役には適していますでしょうか?」
「ああ、確かにそうだろうな」
背後から掛かった声に、カインは振り返る事無くそう返す。
初撃を躱したリーゼファラスは、ひたすら敵の観察に力を注いでいたのだ。
攻撃をしていたカインと、観察をしていたリーゼファラス。その二人の結論は、どちらも同じものであった。
「単体を殺す力じゃ意味が無い。《刻限告げる処刑人》でも、数が足りるか分からん」
「しかし私の浄化の力ならば、あれを構成する《渦》にまとめてダメージを与えられる」
威嚇する蜘蛛の姿を見つめ、二人は頷く。
しかし、リーゼファラスには一つだけ気がかりな事があった。
「けれど、少し様子がおかしいですね、カイン。何か、心境の変化でもありましたか?」
「何? 何言ってやがる?」
「いえ、強い敵を前にいつも楽しそうにしていた貴方が、今日はあまり高揚していないように見えましたから」
己の“死”を望むカインにとって、強敵との戦いは望むべきものだ。
しかし、今回に限って、強敵を前に哄笑するような様子が見られない。
そんなリーゼファラスの疑問に対し、カインは小さく笑みを浮かべていた。
「そいつは、この戦いで見ていってくれよ」
「……そうですか。では、行くとしましょう」
無駄口を叩ける時間は多くない。多少気にはなったものの、深く追求する事はせず、カインはそのまま警戒した様子の蜘蛛へと向けて突撃して行った。




