86:かつての悪夢
カインの腕の中より現れた、一振りの直剣。
黒き死神には似合わぬ美麗なそれに、リーゼファラスは思わず息を飲んでいた。
しかしそれは、直剣の外観でも、それに込められた力にでもない。
(やはり、カインは他者の力を完璧に操る事ができている)
カインは、それがどれほど特異な事であるか理解していない。
欠片を――この力を持つ者たちにとって、基本的に他者の力など相容れないものだ。
彼らの力と理は、素の力を操る本人の願望を元として生み出されている。
カインの操る大鎌や不死性も、リーゼファラスの持つ結晶化の力も、全ては本人が持つ願いが源泉となっているのだ。
故にこそ、他者の力というものは、基本的に水と油の関係にしかならない。
例外となるのは、支配される側が完全に恭順するか、支配者の持つ理に完全なる賛同をした場合のみだ。
(あの『安寧の聖女』が、死神たるカインの理に賛同する? いえ、そもそもこの街が滅んだ時点で、彼はどの程度力を操れていたのかすら……)
リーゼファラスは、ネルの持っていた願いや理をある程度理解している。
確かに彼女の願いはカインと親和性の高いものであったのは確かだ。
同じ“死”に対する思想を根本としているために、行き着いていた結論も若干近いものではある。
しかし、ひたすらに己と他者の死を振りまくカインと、死の先の安寧を願うネルとでは、根本的な違いがある。
リーゼファラスは、そう考えていたのだ。
(……カインの思想の中には、私が今まで感じていた性質とは異なる何かが眠っている? それを、記憶と共に取り戻した?)
分からない。だが、ネルの力を操る事が出来る時点で、彼の願いが『己の死に辿り着きたい』というものではなくなっているのは確かだろう。
ただ無意味に死ぬような願いを、ネルが肯定するはずがないのだから。
「カイン、貴方は――」
一体、何を考えているのか。何を、願っているのか。
そんな言葉を声に出しそうになり、リーゼファラスは口を噤む。
今は、それを尋ねるべき時ではないのだ。
「……アウル、準備は良いですね?」
「はい、いつでもいけますよ、リーゼ様」
アウルが己の回帰、《肯定創出・刻剣解放》を発動する。
アウルの認識するありとあらゆるものを切断するその力は、距離すらも斬り裂いて移動する事も可能なのだ。
彼女の力があれば、上空まで行く事も難しくは無い。
「では、私達はアレを何とかしてきます。私達が移動したら、アレの直下には入らぬよう退避して下さい」
「ええ、了解よ。気をつけて」
「それは、むしろこちらの台詞ですよ。私達は、生半可な攻撃では傷一つ付きませんから」
「貴方達の基準だと、何処までが『生半可』になるのかさっぱり想像できないのだけど……まあ、お願いするわね」
「承知していますよ」
ミラに対して小さく笑い、リーゼファラスは上空を見上げる。
人数が増えた事により、攻撃の密度を増した《奈落の渦》。
その機械的な反応に若干の違和感を覚えながら、リーゼファラスは隣に立つカインへと声をかけていた。
「さて、行きましょうか」
「ああ。時間かけるだけ面倒だしな……アウル」
「了解です。それでは、ご武運を」
頷き、アウルは手に持つ刃を縦に振り上げる。
瞬間、軋むような音と共に空間の裂け目が生じ、上空の景色を映し出していた。
そこへと向け、カインとリーゼファラスは示し合わせたかのように時間差無く飛び込んでゆく。
そして次の瞬間、二人はテッサリアの遥か上空へと飛び出していた。
位置的には、上空にある巨大な物体の更に上。その巨体へと向けて落下しながら、カインは白い直剣を構える。
「こりゃまた、予想以上にでかいな」
「この足のようなもので身体を支えていたとは言え、大都市であるテッサリアの上層を覆うような物体ですからね。当然と言えば当然でしょう。それより、来ますよ」
「こいつの攻撃能力は高が知れてるんだ。迎撃はそっちに任せるぜ」
「分かりました――回帰」
右手に《眠りの枝》を持っているカインではあるが、元々この剣の殺傷能力は低いため、迎撃は行いにくい。
それを理解しているリーゼファラスも、素直に己の力を解放していた。
「――《肯定創出・戦姫騎行》」
あらゆるものを水晶へと変える、リーゼファラスの魔眼。
その出力が強められれば、並みの魔物など近寄るだけで水晶と化して砕け散る事になるだろう。
しかし、この巨大な物体は、それだけで水晶像になるほど力の無い存在ではなかった。
リーゼファラスの力に抵抗した物体は、そのまま地上に対する攻撃と同じように、鋭い棘を発してカインたちへ攻撃を行う。
しかしその攻撃の群れも、リーゼファラスの蹴りの一閃によってあっという間に粉砕されていた。
水晶の欠片が降り注ぎ、魔物の背中に当たって砕ける中、そのは辺と共にカインとアウルは舞い降りる。
「カイン!」
「応よ!」
そしてカインは、その背中へと向けて、躊躇う事無く白い直剣を振り下ろしていた。
ネルの有する力であった《眠りの枝》。その能力は、あらゆる存在を眠らせるというものだ。
この力によって眠らせられた存在は、よほどのダメージを受けない限りは目を覚ます事は無い。
攻撃力はほぼ無きに等しいが、ある種では強力と言える能力であった。
「よし……とりあえず、動きは止まったな」
「流石は、『安寧の聖女』の回帰と言った所ですか。ともあれ、これで逃がさずに攻撃できますね」
「おう。それじゃあ、半々と行くか」
リーゼファラスの言葉に頷いたカインは、《眠りの枝》を己の腕の中に戻しながら、黒いファルクスをその手に取り出す。
先ほどまでとは打って変わってまがまがしい雰囲気を醸し出すそれに、リーゼファラスは僅かに視線を細める。
「カイン、貴方はあの大鎌を使わないのですか?」
「流石に、アレを使うほどの話じゃねぇさ。地上に妙な影響があっても敵わんしな」
「ふむ。まあ、了解しました」
若干腑に落ちない点はあったものの、あまり追求しすぎても仕方がないと判断し、リーゼファラスは軽く肩を竦める。
周囲を見渡せば、足場にしている巨大な物体を支える足が八本。
これら全てを破壊・分断しなければならないのだ。
先ほどリーゼファラスの回帰の力に抵抗していた事から分かるように、この物体は非常に頑丈である。
普通に結晶化しようとしても、かなりの時間がかかってしまうだろう。
けれど、それもゆっくりと準備をする余裕があるならば話は別だ。
「ふぅ……カイン、同時に行きますよ」
「了解だ。ちょっと準備するぜ」
「ええ、こちらも」
二人は背中を合わせるように立ち、互いに己の力へと意識を集中させる。
この物体が沈黙した事により、周囲に音は全く無い。
静謐な緊張感が満たすこの空間で、二人の力はゆっくりと練り上げられ、高まってゆく。
まず変化があったのはカインの右手だ。
彼の腕は黒く染まると共に刃の群れと化し、流動するように蠢きながら、手の先端へと向けて集束してゆく。
その手に握られているのは、一振りのファルクス。手を伝い流れる黒い刃は、そのファルクスを包み込むように捻じ曲がり、絡み付いてゆく。
しかし、その刃の大きさは変わる事無く、ただただその“死”の気配だけを色濃く変化させていた。
そして、表面上の変化こそ無いが、リーゼファラスの力もまた急速な高まりを見せる。
脱力したように下ろされた手。そんな彼女の右手へと、強大なる力が集束してゆく。
その波動に触れるだけで、並みの魔物ならばあっという間に水晶と化してしまうだろう。
リーゼファラスの力は、既に極まった段階にあると言っても過言ではない。
リーゼファラスの右手より放たれる力は、彼女が不浄と定義する魔物達にとって、これ以上ないほどに強力な毒なのだ。
――そして、二人は同時に右手を構える。
「行きます」
「ああ」
言葉は短く、行動は素早く。
その宣言とほぼ同時――二人は、その右手を全力で振り抜いていた。
ファルクスと、手刀。その二つに込められた強大なる力は、その一閃と同時に解放される。
迸る黒と白の閃光。刹那の内に駆け抜けたそれは、黒い足を各々四つずつ巻き込んでゆく。
一瞬の静寂が、周囲を満たし――八つの足は、二人の攻撃の延長線上にあった地面と共に、根元から粉砕されていた。
『――――――――――ォッ!!』
巨大な、悲鳴とも聞こえる鳴動音。
それと共に落下を始める巨体の上から、二人は跳躍して退避する。
破壊する事に変わりはないのだが、流石にいつ攻撃してくるかも分からない足場で戦闘を行う気は無かったのだ。
意識を研ぎ澄ませたまま、近くにあった建物の屋根を足場とし、落下した巨体へ追撃を加える為に力を集中させる。
動き出した以上、何らかの動きを見せるのは確実なのだ。それならば、逃がす前に倒しきらなければならない。
そう考え、二人は追撃を加えようと地を蹴って跳躍し――その二人へと向けて、無数の砲弾が打ち込まれていた。
「ッ!?」
「何だと!?」
驚愕しながらも咄嗟に放たれたリーゼファラスの力と、カインの身より翻った黒い刃が迎撃し、砲弾が直撃する事はなかった。
しかし、その爆風に圧され、二人は本来意図していた場所とは異なる場所まで移動させられていた。
侵蝕された石畳の地面へと着地し、カインは周囲を見渡す。
先ほど撃ち込まれた砲弾――それは、様々な場所から同時に放たれた物だったのだ。
そしてそれは間違いなく、《渦》の魔物の一種である《砲兵》の砲弾であった。
「いきなり何処から現れやがった……!」
「カイン、千切れた足です。見てみてください」
苦い声で呻くカインに、リーゼファラスは敵から視線を外さぬまま声を上げる。
それに従い、カインは監視を彼女に任せたまま、先ほど切断し上空に残ったままの枝のような足へと視線を向けていた。
カインとリーゼファラスの攻撃によって、一部が消し飛んだ黒い物体。
その表面から、いくつもの砲門が口を開けていたのだ。
「あの塊から、《砲兵》の大砲だけを呼び出したのか?」
「いえ、恐らく――アレは全て、魔物の塊です」
――そう、リーゼファラスが呟いた瞬間であった。
巨大な外壁に、突き刺さるように存在していた八つの足。それらが全て、崩れるように小さな塊となって零れ落ちていったのだ。
その様子に、カインは思わず目を見開く。
「アレが……全部、魔物だと?」
遠目で見たからこそ小さい粒程度にしか見えなかったが、あの八つの足より表れているのは全て《渦》の魔物達だ。
《兵士》、《重装兵》、《砲兵》、《操縦士》、《指揮官》――およそ《将軍》を除く全ての魔物達が、街の全方位に溢れ出したのだ。
――それはまるで、この街が崩壊したその日と、かつての悪夢と同じように。
「あの巨大な物体は、《奈落の渦》そのもの。世界を侵蝕するため現世に溢れ出した不浄の毒。千切れても、魔物を作り出す程度は出来たという訳ですか……そして」
そう呟き、リーゼファラスは視線を細める。
その先に転がった、巨大な物体。《渦》の核が含まれていると思われる、本体部分。
或いは、それを《奈落の渦》と呼ぶべきか。千切れた足よりも更に多くの堆積を持つそれは――蠢きながら、その形を変化させていた。
「あちらはどうやら、随分とやる気のようですね」
「……成程、そのまま来るって訳か」
リーゼファラスの隣に並び、ファルクスをその手に握りながら、カインは獰猛に笑みつつそう呟く。
巨大な黒い物体。《奈落の渦》。八本の足の切断部分から、更に新たな鋭い足を生やした《渦》は、その身体を起き上がらせつつ形を変える。
その形は、まるで蜘蛛。形を変化させ続けるおぞましい怪物は、《渦》そのものの身体を震わせてカインたちへと牙を剥いていた。




