82:白き眠りの枝
「――ン、カイン。どうしたのですか?」
「っ……お、ああ」
――果たして、呆けていたのはどれほどの時間だったのか。
白い剣を手にした瞬間、頭の中で弾けた記憶の奔流。それら全てを理解し、カインが現実へと意識を戻した時、彼の背後には追いついてきたリーゼファラスが立っていた。
ゆっくりとカインに近付いてきていたリーゼファラスは、彼が手に持っていた白い剣を目にして、大きく目を見開く。
「それは……『安寧の聖女』ネルの使っていた剣、ですか?」
「リーゼファラス、お前……ネルの事を知っているのか」
「ええ、ある意味では私の前任のような方でしたから。尤も、あの大崩落で亡くなられましたが……どうやら、貴方の方が彼女の事情に詳しいようですね、カイン」
疑念の意志を込めたリーゼファラスの瞳に、カインは若干の苦笑を零す。
ネルの事を知っているかと問われれば、それは確かに肯定する事が出来るだろう。
けれど、カインは彼女の全てを知っていたなどとは言えない。彼女が隠していた事は、終ぞ知る事はなかったのだから。
そもそも、『安寧の聖女』などという称号すら初耳だったのだ。ネルの事情など、確信を持って言える事は殆どない。
――しかし、だからと言って誤魔化すようなつもりも、カインにはまるでなかった。
「一時期、俺はあいつの庇護下で暮らしていた。それだけの事だ。あいつが上層の関係者である事も今日初めて知ったし、そもそも記憶を取り戻したのも今さっきなんでな」
「記憶……貴方は、思い出したのですか、カイン」
「ああ……俺の主観でしかないが、あの日起きた事は思い出せる」
元より地獄のような場所であったテッサリアが、更なる地獄と化したその瞬間を。
カインにとっての全てであった狭い世界が崩壊し、広い世界への扉が開かれた瞬間を。
カインは、全ての記憶を取り戻していた。
「成程……まあ、貴方が貴方の願いを自覚できたのならば良いでしょう。暴走気味だった能力も、多少は制御できるようになるのでは?」
「ん、そうだな……ああ、確かに今までよりも能力の実感が強い感じがする。使い方が分かる、とでも言うべきか」
「本来なら、最初からそうなっている筈なのですがね。ところで、その剣ですが」
軽く首を振り、リーゼファラスは視線を僅かに下へと向ける。
彼女が見つめていたのは、カインが右手に携えている白い直剣だ。
ミラの持つレイピアよりも僅かに幅の広い刀身を持つそれは、確かにネルの使っていた武器である。
彼女が最期を迎えるその時に一度見たきりではあるが、柄から刀身まで全てが白いこの剣を、カインは確かに記憶していた。
「これの事を知っているのか。確かに、コイツはネルの剣だが」
「ええ、まあ……ほんの少し見た事がありますが、これはそれ以前の問題ですよ。少し、見せて頂いてもいいですか?」
「ん、ああ。別に構わないが」
頷き、カインは手に持った剣をくるりと回して、柄をリーゼファラスへ向けて差し出していた。
じっと剣を見つめながらそれを手に取ったリーゼファラスは、その瞬間顔を顰めて小さく呻き声を上げる。
例え戦闘中であっても滅多に澄まし顔を崩さない彼女がそのような様子を見せた事に、カインは小さく驚きつつ声を上げる。
「おい、どうした?」
「いえ……この剣、どうやら能力がしっかりと働いているようですね。私も眠ってしまう所でした」
掴む掌に魔力を込め、力を押さえ込むようにしながら、リーゼファラスは軽く頭を振る。
そうして眠気を飛ばすと、干渉に対する抵抗を保ちながら、カインの顔を見上げながら声を上げた。
「この剣は、《眠りの枝》といいまして、剣で触れた相手を強制的に眠らせる力を持っています」
「今、お前はその能力の干渉を受けたって事か?」
「ええ。幸い、私の持つ《拒絶》は、直接干渉系の能力に対して高い耐性を有しています。回帰なだけあってそれなりに強い干渉力でしたが……まあ、何とかなりました」
リーゼファラスの持つ《拒絶》の力は、あらゆる干渉を防ぐ力を有している。
そのため、触れた者を眠りに就かせる《眠りの枝》の力も、ほぼ完全に防ぐ事ができたのだ。
そして同時に、この剣が未だに力を失っていない事が示された。
「……この形状、そして今の力から鑑みても、確かに本物の《眠りの枝》のようですね。しかし何故、これが未だに形を保っているのか……」
「どういう事だ?」
「何故貴方がそんな事を――っと、そういえば貴方の場合、回帰の最中に意識を失うような事はありませんでしたね」
カインの持つ能力の特性を思い返し、リーゼファラスは軽く肩を竦める。
基本的に、彼が戦闘中に意識を失うような事はありえないのだ。
それ故、使い手を失った回帰がどうなるのかなど、カインには知りえぬ事柄だった。
「こういった武具を形成する類の回帰の場合、使い手が意識を失えば消失するようになっています。使い手が死亡しているとなれば尚更です。それが、形どころか能力も失わずにこうやって残っているなど、異常としか言いようがありません」
「成程な……使い手が生きてる、って事はありえないか」
「そうですね。この近辺で生きた人間の気配は私達以外にありませんし、生きているにしてもこの場で放置されていた事自体が不可解です」
これだけの力を持つ武器を顕現させている以上、使い手もそれなりの力を行使しているはずなのだ。
だというのに気配が感じられないとなれば、やはりこの近辺にネルは存在しないという事になる。
そして、使い手がそれほどまでに遠くへ離れたならば、《眠りの枝》が形を保っている筈がないのだ。
つまり、通常では起きないはずの状況が、今この場で発生しているのである。
「それに、もう一つ気になる事があります。貴方の事です、カイン」
「例の記憶の話か?」
「無論それもありますが……貴方、この剣を持っても、眠気一つ感じなかったのですか?」
「うん? ああ、そう言えば……確かに、全く眠くはならなかったな」
「超越者である私すら、僅かに力の干渉を感じるほどの強い密度……これを貴方が掴んで、干渉を受けないとは思えません。最低でも、眠気の一つぐらいは感じる筈です。だと言うのに――」
カインは、眠くなるような様子すら見せず、平気な顔をして《眠りの枝》を掴んでいたのだ。
これがアウルだった場合、抵抗する暇すらなく睡眠に落とされていただろう。
――ならば何故、カインにはこの剣の力が通用しなかったのか。
「……貴方は一体、何者ですか」
「何者、ね。と言われても、この街で生まれてネルの奴に保護されたガキだった、としか答えられないのが現実だがな」
カインとネルの繋がりは、テッサリアの滅びた日に消え去ってしまっている。
彼女の死は、カインが確かに見届けたのだ。故にこそ、リーゼファラスが期待するような答えなど、カインは持ち合わせていない。
しかし、ある種の確信がある事も、また事実であった。
「だが、一つだけ言えるのは……そいつにはどうやら、俺の力が干渉しているようだな」
「貴方の力……《永劫》? 成程、それでこれが形を保っていたという事ですか?」
「あの日、ネルがその剣を持っていたのは覚えている。だが、その後にそいつが何処に行ったのかなんぞ、全く気にしてなかったからな……何故この場に残っていたのか、何故俺がそれを握れたのかは分からん。だが、そいつは俺の力によって留められ、俺の制御下にある事だけは分かる」
「何ですって?」
耳を疑うリーゼファラスに、カインは手を差し出して《眠りの枝》を渡すように示していた。
怪訝そうな表情を浮かべるリーゼファラスから白い直剣を受け取ったカインは、それを軽く振るうと、躊躇う事無く自らの左掌へ突き刺していた。
生物を傷つける事は出来ない筈の《眠りの枝》は、しかし何の抵抗もなくカインの掌へと沈み込み――そのまま、体内へゆっくりと飲み込まれていった。
その様は、彼が普段ファルクスを体内へと納める姿と同一であり、《眠りの枝》がカインによって完全に制御されている事を示していた。
それを確認し、リーゼファラスは珍しく驚愕の表情を露にする。
「まさか、他者の能力を制御している? そんな馬鹿な、それは……《魔王》様と同じ」
「おいおい……あの《魔王》ってのは、他者の能力まで使えるのか?」
「え、ええ。《魔王》様は、自らの支配下にある存在の力を全て使用できます。その中でも、固い絆で結ばれた側近の力は、より高い次元で……それこそ、本来の使い手と遜色のないレベルで操る事が出来ると聞きます」
動揺しているリーゼファラスの様子を半ば愉快そうに観察しながらも、カインは若干表情を引き攣らせていた。
一度相対した時から、彼の《魔王》が凄まじい力を有している事は理解していた。
リーゼファラスに対しては手応えを感じる事が出来たが、《魔王》相手には僅かな可能性すら見出す事は出来なかったのだ。
それこそ、逆立ちしても敵わぬ相手であると理解してはいたのだが――
(まさか、そんな無茶苦茶な力まで持っていたとはな。とは言え、俺も似たような事が出来るって分かったのは僥倖だったか)
胸中で呟き、カインは己の掌を見下ろした。
そこで無数に渦巻く“死”の気配の中、確かにあの白い直剣の存在を感じていたのだ。
使おうと思えば、自らの力である《刻限告げる処刑人》と同じように操る事が出来るだろう。
使い方から有する能力まで、これまで振るった事が無いにもかかわらず、理解する事が出来るのだ。
これがリーゼファラスの言う《魔王》と同じ力なのかは分からないが、己の中にある《安寧》の気配を、カインは決して嫌ってはいなかった。
「どうして操れるのかは分からんが……ま、使える手札が増えたと考えておくべきか。俺には、ネルの力は似合わんかもしれんがな」
「……はぁ。そうでしょうかね。あなた自身、分かっているのではないですか?」
皮肉ったカインの言葉に対し、リーゼファラスが溜め息混じりに返したのは、そんな否定の台詞であった。
そんな彼女の言葉に、カインは僅かに目を見開く。
実際の所、ネルの力は、カインにとって親和性の高いものであると言っても過言ではない。
どちらも“死”に対する意識から能力を組み立てており、今のカインはネルの思想を受け入れられるだけの経験を積んでいる。
もしも本人以外に操るべき人間を探すとしたら、それはカイン以外に存在しなかっただろう。
――そのように、両者の本質的な部分を言い当ててしまったリーゼファラスは、失言をしたとばかりに顔を顰めていた。
「くはは、ちょっと人間観察のし過ぎじゃあないのか?」
「ええ、全く。その通りかもしれませんね……ですが、必要な事でしたので」
「お前さんも相変わらず、か。さて、思い出した事について話しておいた方がいいんだろう? この場で聞くか?」
「そうですね……聞かせて貰いたい所です」
「そうかい。それじゃあ――」
何から話そうか、と――カインがそう呟こうとした瞬間。
魔力の高まりと共に、落雷の轟音が周囲へと響き渡っていた。
それに対して瞬時に反応した二人は、互いに確認を取る事も無く、外へと向かって飛び出していく。
「あの姫さんか?」
「いえ、魔力の質が違ったように思えます。それに、場所も離れていますし……」
二人が診療所から外へと飛び出せば、廃墟の街並みと化した景色の中に、三人の姿を発見した。
一応付いて来てはいたのだが、リーゼファラスは彼女達を一度外で待たせていたのだ。
カインに異常があった場合、すぐ近くにいては危険が及ぶかもしれないと考えた為であるが、そのおかげで彼女達は発生した状況についてある程度把握している様子であった。
「アウル、状況は!」
「はい、リーゼ様。恐らく、部隊の方々が到着したのでしょう。正面から乗り込んで戦闘を開始したようです」
「……まあ、テッサリアの形状からしても、正面以外は侵入しづらいのは事実だが……」
「出来たとしても威力偵察程度なのは確かですが、随分と急ですね」
「相手の戦力を侮っていなければいいのだけど……リーゼ、あちらに合流しましょう。あの外壁の内部がどうなっているのかは分からないけれど、少なくとも一筋縄ではいかないのは確かでしょう?」
《奈落の渦》によって支配された魔の都が、果たしてどのように様変わりしているのか――それは、この場の誰にも想像は出来ない。
だが、規模から言っても、下手をすれば《将軍》クラスの魔物が存在する可能性は否定できないのだ。
もしも《将軍》が存在する場合、それらと一対一で戦えるのはリーゼファラスとカイン、後はアウル程度だろう。
最悪の状況を考えた場合、さっさと合流するのが最善なのだ。
カインの事を後回しにするのは若干不安が残ったものの、この状況を無視できないのは確かであり、リーゼファラスは小さく息を吐き出してから頷いていた。
「そうですね。あちらの部隊を追うとしましょう」
「良し、分かりました! 行きましょう!」
「上層の連中の前で活躍できるからって急き過ぎるなよ、小僧」
「わ、分かってますよ!」
駆け出してゆくウルカとミラ、そしてそれを追うカインの姿を見つめ、リーゼファラスは嘆息する。
現状では、カインの謎が増えただけに過ぎない。彼の本質を理解せねば、彼が危険な存在であるかどうかも判断が難しい。
しかし――
(変化があった事は事実。ならば、この戦いで多少は見えてくるでしょうね)
記憶を取り戻した彼が、この戦場で何を成すのか。
それを見逃さぬよう、リーゼファラスは視線を細め、覚悟を新たにしていたのだった。




