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聖女の唄う鎮魂歌  作者: Allen
4章:追憶のセレナーデ
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80:追憶・死に包まれる街の終焉












 ――答えは、見つからない。

ネルと出会った日から数ヶ月、共に暮らしている時間は、カインにとって生まれて初めての平穏な日々であったと言えた。

虐待されるような事も無く、まともな食事と寝床を提供されている。

一般的な尺度で考えれば、楽な生活であるとは言えないだろう。

けれど、それまでのカインの生き方と比べれば、環境は格段に良くなったのは間違いない。



「んじゃ、今日は仕事お休みだから、お留守番よろしくね。勝手に出歩かないでよ?」

「……別に、出歩いた所で問題は無いと思うが」

「そりゃまあ、貴方なら何かあっても対処できるとは思うけど……とにかく、あなたの目標も順調なんだから、たまには休みなさいって」



 ひらひらと手を振るネルは、苦笑気味にそう返す。

時折、ネルはこうして仕事を休み、何処かへと出かける事があった。

ネルは元々、治療に対して殆ど対価を求めていない。

それは生活費としても最低限と言うレベルであり、消耗品を揃えるだけの資金も無いような状態だ。

無論の事、そんな状態で巡回医など続けられるはずが無い。

しかしながら、ネルはある程度資金が減ると、こうして何処かへと出かけ、資金を調達してくるのだ。

これに関し、カインが一度『娼館か何かで稼いでいるのか』と質問したのだが、その時の反応は推して知るべしである。

ただ一つだけ言えるのは、その日、カインの能力が働いたという事だけだ。



「……まあ、了解した」

「よろしい。それじゃ、大人しくね」



 ひらひらと手を振り、ネルは診療所を後にする。

彼女の姿が消えた扉をしばし無表情に見つめてから、カインは小さく嘆息を零していた。



「休み、か」



 別段、ネルの言葉に従わなければならない理由は無い。

しいて言うならば、バレた時に彼女を言いくるめるのが面倒だという程度だ。

“死”を集めると言う目的がある以上、大きな障害とはいえないそれに屈する事などありえない。

けれど――今のカインの足は、ある一つの疑問に縛り付けられていたのだ。



「……“死”は、尊いもの」



 かつて、ネルが告げたその言葉。

カインの持つ考えを肯定した上で待ったをかけた、複雑なようで単純なその言葉。

あれ以来も、カインは“死”の蒐集をやめた訳ではない。

その身の内には、既に幾百もの“死”が存在していた。

確かに蓄積している感覚はあれど、未だに己自身が“死”へと到達するようなことは無い。

そしてそれと共に降り積もる小さな焦りと不安が、胸中で反響するネルの言葉を更に大きくしていたのだ。



「“死”は救い……そう、その通りだ」



 “死”とは、全てのものに等しく訪れる救い。

ネルも肯定していたその言葉は、カインにとっては確たる事実として認識されているものであった。

けれどネルは、『だからこそ安易に享受してはならない』と告げたのだ。

尊いものであるからこそ、懸命に生きた者にこそ相応しいのだと。



「懸命に生きた者……ならば――」



 ――今まで“死”を吸収してきた相手達は、全て懸命に生きた者たちだったのだろうか

カインには、それを認識する事が出来ない。当然と言えば当然だろう、カインは今まで、生きているものに目を向けた事が無かったのだから。

どのようにして生きているのかなど考えた事も無く、ただ相手の“死”にのみ意識を向けていた。

故にこそ、誰よりも自分が一つの信念を貫き生きているにもかかわらず、他者の生というものを実感できなかったのだ。



(俺の中に、“死”はある。つまり、この“死”の持ち主達は生きていた)



 ――価値のある“死”を迎える者がいる。

 ――“死”そのものにも価値が存在する。

 ――“死”は救いであるが故に、安易な享受は許されない。


 ――懸命に生きた者こそ、死して世界の呪縛から解き放たれる事が許される。



「――ならば、懸命に生きた者とは、誰だ」



 生きる事に目を向けないがために、生き方というもの自体を認識できない。

たった一つ、他人の生き方を認識しているとすれば、それはカイン自身と同じように信念を貫いているネルの在り方だけであろう。

けれど、彼女ほど強く信念を抱き生きている人間など、カインはこれまで目にした事は無かったのだ。



「あれほど必死に戦わなければ、死ぬ事は許されないのか?」



 己が信念のためだけに下層の片隅で生活し、自らの身銭を切り詰めながら多くの人々を治療して回る。

元より生きた人間になど目を向けていなかったが、それでも彼女ほど懸命に生きている人間などまずいないと、カインはそう確信していた。

あまりにも参考にならない例しか己の回りに存在せず、カインは困惑を隠すように視線を窓の外へと向ける。

診療所には『臨時休業』と『外出中』の看板が掛かっており、中に入ってくる者など盗人以外にありはしない。

尤も、盗む価値のある金すらないと認識されている訳だが。

だが――カインはふと、診療所の外が妙に騒がしい事に気がついていた。



「……何だ?」



 正確に言えば、診療所の傍だけではない。

窓の外は慌しく走り回る人々の姿が見え、普段の賑やかさとはまた異なる、殺伐とした空気が流れ込んでくる。

外を走る彼らは――皆一様に、上層の方へと逃げているように見えた。


 ――これが逃亡であるとするならば、彼らは一体何から逃げていると言うのか。


 多少の事件があったとしても、下層の人間はそう極端な行動を取る事は無い。

余計に首を突っ込むような真似をする者も無く、殺人事件が起きようと遠巻きに巻き込まれぬよう様子を見るだけだ。

無差別に人に襲い掛かるような快楽殺人者が現れたと言うならばともかく、ああして大勢の人間が逃げ回るような事などまずありえない。

しかしながら現実として、彼らは一斉に何処かへと逃げているのであった。

と――その時、閉ざされている扉から乱暴なノックの音が響く。

カインは一瞬、ネルが帰って来たのかと考えたものの、扉の外から聞こえてきたのは男の声であった。



『先生! おい、ネル先生! いないのか!?』

「……何だ、一体」



 名前は覚えていないものの、一応聞き覚えのある馴染みの声に、カインは眉根を寄せながら扉を開く。

その先から顔を出したのは、幾度か診療所に訪れた事のある若い男の姿だった。

街でもネルを見かけると頻繁に声をかけてくる人物であり、カインは『よく分からん男』と言うふうに認識している。

そんな青年は、カインの姿を見るなり肩を掴んで叫び声を上げていた。



「ッ、お前か! ネル先生は何処だ!?」

「知らん。いつも通り消耗品と資金の調達だ。何処に行っているかなど聞いていない」

「クソッ、こういう時に限って……!」



 舌打ちする青年の姿に、カインは思わず疑問符を浮かべる。

酷く焦った様子の青年。彼は一体何をそこまで慌てているのか――否、一体どのような異変が起こったと言うのか。



「……街の様子がおかしい。何が起こっている?」

「襲撃だよ、襲撃! 魔物の襲撃だ!」

「魔物……?」



 魔物と言うのは、人間に対して敵対的な行動を取る獣の総称である。

ただの野犬から、高度な術を操る魔獣まで。契約の力こそ持つ事は出来ないが、人間にとって脅威となる存在である事は確かだ。

しかしながら、どのような魔物であっても、多くの人間が住んでいるような場所に近付く事は決して無い。

魔物が襲うとすれば人口の少ない村落などが対象であり、治安が悪いとは言え大都市であるテッサリアを襲うはずがないのだ。

しかしながら、焦った様子を崩さぬまま青年は叫び声を上げていた。



「それが来てるんだよ! じゃなきゃ、ここまで大騒ぎになる筈がないだろう! あんな魔物、見た事も聞いた事も無い!」

「……だが、迎撃に出ている奴がいるんだろう。倒せないほどの相手か」

「そういう訳じゃないんだが……ああクソ、ここで話してても埒が明かない! お前も逃げるぞ、早く来い!」



 言うが早いか、青年はカインの手を掴んで駆け出していた。

やろうと思えば振り払う事も出来たが、あえてそれをせずにカインも彼に続いて走り出す。

要領を得ない話ではあったが、現在何かしらの異常が発生している事は間違いないのだ。

それを把握しておく事に損はないと判断し、カインはこの青年に同行していた。



(しかし……本当に、何が起こっている?)



 異常としか言いようの無い状況に、カインは青年に手を引かれながら周囲に視線を走らせる。

逃げ惑う人々は、診療所の中から見た時と同じように、上層のほうへと向かっている。

即ち、青年の言う『魔物』とやらが、街の外から襲ってきている形になる事は間違いないだろう。

しかし、一体どのような魔物が襲ってきていると言うのか――それを問おうとして、カインは思わず目を剥いていた。



「……何だ、あれは」



 通りの向こう、まだある程度距離の開いた場所――その先で、蠢く黒い影があった。

見上げるほどに巨大な体躯、その平べったい胴体は、どこか昆虫を思わせるような姿をしている。

生える足先は刃のように鋭く、その鎌のような切っ先で、人を貫き捕食する黒い魔物――それが、数え切れぬほど沢山。

大通りを抜けた遥か遠く、東の大都市コーカサスへと続く街道は、黒い魔物の影で埋め尽くされていた。

同時、カインは青年の言っていた言葉を理解する。どれだけ強い戦士がいたところで、勝てる訳がない。

圧倒的としか言いようのない、数の暴力。

それを目にして――尚も、カインの思考は冷静なままであった。



「……上層へ、逃げるのか」

「ああ、あの外壁の中なら、きっと……!」

「俺は、無理だと思う。上層の人間が、俺達を外壁の中へと入れる筈がない。それに……門を破られれば、逃げ場はない」

「っ、ならどうしろって!?」

「街の反対側へ抜けて逃げればまだ可能性はあるかもしれないが……あれの方が足が速い。追いかけてこられたら、逃げ切れないだろうな」



 詰まる所、どうしようもない。

何かしらの力であの魔物たちを殲滅できればまだ可能性はあるだろうが、あれだけの数をどうこうできるような存在など、カインが知る由もなかった。

自身の死を恐れぬカインであるからこそ冷静にそう判断し、軽く息を吐き出す。

数は圧倒的。力も強く、太刀打ちできるものは少ない。

そして今尚、上層の契約者達が姿を見せていない以上、彼女らは篭城を選んだ可能性が高い。

ならば最早、下層に生き残る道などない。



(ならば死ぬだけだ。死して、この塵溜めのような世界から解放される。この地獄のような下層の街の、全てが)



 故に、カインは黒い魔物達の事を受け入れつつあった。

あの魔物達は一つの救いの形なのだと、そう認識していたのだ。

――けれど。



『――“死”は安寧。《永劫》の安寧なの。貴方の言うとおり、“死”とは生物にとって最後の救い。でもね、だからこそ……人は、安易にそれに縋る訳には行かないのよ』



 かつて聞いたネルの言葉が、カインの脳裏に反響した。

懸命に生きた者こそが“死”の救いに相応しいという、ネルの言葉。

生者に意識を向けなかったカインには、全く理解する事が出来なかった概念。

それを思い起こしながら視線を上げて――カインは、目を見開いた。


 ――逃げる少年がいる。

 ――子供を庇い戦う戦士がいる。

 ――地面に蹲る少女がいる。

 ――子供を抱きしめて叫ぶ母親がいる。

 ――天に祈りを捧げる老人がいる。

 ――混乱に乗じて盗みを働く女がいる。

 ――落ちているものをかき集めて逃げ出す男がいる。


 ――――数え切れないほどの人々が、生きて、いる。



「は、はは」



 まるで視野が広がったかのような、視界が急に明るくなったかのような錯覚を覚え、カインは口元を笑みに歪める。

そう、彼らは生きているのだ。それぞれが、それぞれの形で必死に戦いながら。

戦場など人それぞれだ。魔物と斬り結ぶ者も、この場から逃げ出す者も、必死に利益を得ようとする者も。

それぞれが自分自身の戦場に立ち、生き抜こうと必死に戦っている。

――ただただ、懸命に。



「そう、そうか」



 理解する。

かつて満足げに死んでいた男が、何故死の間際にあのような表情を浮かべられたのかを。

彼は戦いぬいたのだ。そして勝利を得て、その果てに命を落としたのだ。

必死に戦い、懸命に生きて、求めていた結果を出した。

己の命と引き換えにしてでも叶えたい願いへ、あの男は到達していたのだ。


 ならば――生きる意味とは、ただ一つ。



「は、はははっ、はははははははははははははは――――ッ!!」

「な、何だ!? おい、気でも狂ったのか!?」



 それを理解した瞬間、カインは歓喜の咆哮を発していた。

ようやく理解したのだ。ネルの言っていた言葉を、懸命に生きるという言葉の意味を。

青年の手を振り払い、滅び行く街へと振り返って、ひたすら愉快そうに笑いながら。



「そうだ、これだ! 戦い・・だ! 戦う者が、懸命に生きている者だ! 戦う者にこそ、安寧の“死”は相応しい!」



 戦いの目的はそれぞれ異なる。たった一つの答えになるはずもない。

けれど、この極限の状況下で、テッサリアの住人たちは必死に『戦って』いた。

ただただ己の中の激情に従って、己が目的を果たすために。それぞれの勝利を得るために。



「ああそうだ、安易な享受など赦されない! だって、こんなにも輝いている! 必死に戦って、必死に生きようとしている! 諦めて“死”に逃げるなど、“死”への冒涜だ!」

「おい、小僧! 何訳の分からん事を叫んでやがる! さっさと逃げ――ひっ!?」



 青年は必至に叫び、カインの肩を掴んで逃げようとする。

しかしそんな騒ぎを聞きつけたのか、二人の方へと向かって黒い魔物が足を進めてきていた。

それを正面から見上げながら、カインは自問する。



 ――ならば、己にとっての『戦い』とは何か。



 必死にカインを引きずって逃げようとする青年。

彼もまた、戦っているのだ。カインの事を助けようと、ネルの事を助けようと。

けれど、カインがそれに応える事はない。



 ――己が目的は、“死”へと辿り着く事ただ一つ。



 魔物はあっという間に距離を詰める。

移動速度で言えば、人間が走る速さよりも圧倒的に速い。

逃げようと思って逃げられるものではないだろう。



 ――しかし、安易に享受する事は許されない。



 魔物はその刃のような足を振り上げる。

青年は舌打ちし、カインを助けられぬと悟ってその場から離れる。

魔物はそんな青年など気にも留めず、その刃を振り下ろして――



 ――ならば。



 カインは嗤う。

己が胸を貫いた刃を見つめ、ただただ嬉しそうに。



 ――戦いの果てに、辿り着こう。



 刹那――カインの内側より、漆黒の闇が吹き上がった。

闇は瞬時に胸を貫く刃を包み込み、魔物の胴体から切断する。

驚愕したかのような鳴き声を上げ、数歩ほど後ずさる魔物――そんな姿を尻目に、カインはただ笑みを浮かべていた。

己が胸を貫く刃を、内側に向けて反った鎌のような刃を、抜き取りながら。



「安易に死ぬ訳には行かない。元々、簡単には死ねない。ならば、俺が死ぬ戦場に辿り着くまで」



 戦いなど文字通りの意味しか知らない。

故にカインには、『戦う』と言う言葉の実行法が、今この戦場に身を投じる以外には思いつかなかった。

己を死へと至らしめる何かを求め、この戦場を邁進する以外に、カインには道など見当たらなかったのだ。


 胸から引き抜いた刃は黒い闇を纏い、徐々にその形を変えてゆく。

それは、内側に向けて反った片手剣――ファルクスと呼ばれる形状の武器へと変貌していた。

手にした武器を片手に、長い髪を風で巻き上げながら、カインは戦場を前に哄笑する。



「――これが俺の、『戦い』だ」





















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