79:追憶・死する者の安寧
白髪の、獣革の外套を纏った少女。
ネルと名乗った彼女がカインを引き連れて足を運んだ場所は、下層の一角に建つ小さな診療所であった。
ほぼスラムと同然であるテッサリアの下層において、比較的マシと呼べる治安の場所に、その診療所は建っていた。
あまり死体が多い訳でもない地帯であるため、カインはあまり近付かない場所であったが、診療所を建てるのであれば順当と言える場所であろう。
ネルは扉に掛かった『巡回中』の札を回収し、診療所の中へと入っていく。
「ほら、入りなさい」
「……ああ」
死体が運ばれて来やすい場所だと言うのであれば、カインとしても否はない。
騙されているのだとしても、盗まれるものなど何もなく、簡単に死ぬ事も出来ない。
特に大きな問題はないと判断し、カインは建物の中へと足を踏み入れていった。
白を基調とした室内は隅々まで掃除が行き届いており、雑多で不潔な印象ばかりの下層では珍しく、清潔感に溢れた部屋となっている。
待合室代わりの長椅子や、カーテンで仕切る事が出来るようになっている診察室と思わしきスペース。
奥にある扉は、生活スペースに繋がっている場所だろう――適当に観察したカインはそう結論付けて、改めてネルへと視線を向けた。
「ま、軽く自己紹介はしたけど……改めて、私はネル。この下層の街で、診療所と巡回医をやってる者よ。よろしくね」
「……俺は、カイン」
「お、きちんと自己紹介してくれるのね。沈黙を返されるかと思ったわ」
「下層には……とりわけ、治安の悪い地域には、それ相応のルールがある。面倒だが、従っていれば余計な問題は起こらない」
ルールと言っても明文化された物ではなく、単なる暗黙の了解のようなものだった。
子供達は自然とそれを学び、下層での生き方を身につけていくのだ。
そしてそれは、死から遠い存在であると言えるカインも例外ではなかった。
別段ルールを破った所で、死ににくいカインが死ぬ事はないだろうが、活動しづらくなる事は間違いないだろう。
ともあれ、名前を名乗り返したのだから、ルールとしては問題ない。
そう判断したカインは、返すように質問の言葉を口に出していた。
「それでは、改めて教えてもらう。死体が運ばれてくるとはどういう事だ」
「んー、正確に言えば死体と出会いやすいって事なんだけどね。私は、午前中は巡回医をして、昼過ぎからはここで診療をするようにしてる。そのどちらでも、手遅れの患者と出会う確率は高いわ。活動範囲を広げたら、余計に出会い易くなったし」
ネルの言葉に、なるほど、とカインは小さく首肯する。
下層において、医者らしい医者など皆無と言っていいだろう。
大抵はヤブか、大金をせしめてくるような悪徳医か、組織のお抱えとなっているような医者ばかりだ。
その為、医者にかかれず命を落とす人間は非常に多い。
逆に言えば、数少ない医者の所には、多くの患者が運ばれてくる事となるのだ。
「お前が治し損ねた死体を、俺が貰うと言う事か」
「ええ。話を聞いた感じ、貴方の力は致命傷となった傷を消し去る事も出来るみたいだしね。遺体は少しでも綺麗にしてあげたいって思う遺族は多いし、こちらにもメリットはあるわ」
「……ふむ」
それに何の意味があるのかは理解できなかったものの、カインはネルの事をある程度信頼できると判断していた。
単純な施しのつもりであれば、決して信用する事はできなかっただろう。
しかし、ネルは己自身にとってのメリットも提示していた。
ギブアンドテイクの関係ならば、ある程度は信用する事が出来る――そう判断し、カインは小さく頷く。
「了解した。それならば、お前に協力するのに否はない」
「そう。それなら、今日からよろしく頼むわね。色々教えなきゃいけない事もあるし、今日はもう巡回は止めにしとくけど」
「……そうか」
若干残念には感じていたものの、協力すると言った手前、それを反故にする事も躊躇われる。
あまりしがらみには縛られないカインではあったが、下層での生き方についてはしっかりと染み付いていたのだ。
故にネルの言葉に反論する事無く、導かれるまま家の奥へと足を踏み入れて行く。
――こうして、奇妙な利害関係から始まった生活が幕を開けたのだった。
* * * * *
奇妙な女――それが、カインがネルに対して抱いた感想であった。
言葉は辛辣であるが、当然の評価だと言っても過言ではないだろう。
何故なら彼女は、ほぼ謝礼を受けることもなく、巡回医として人々に治療を施していたからだ。
正確に言えば謝礼は受け取っているのだが、それを求める時の台詞は決まって――
『貴方が、この治療の対価として相応しいと思うものを下さい。金額は問いませんし、お金でなくても構いません』
――というものだったのだ。
決して、無償で治療を行う事はない。
けれど、それによって支払われる対価が治療の代金として見合っているかと問われれば、それは否としか答えようがないだろう。
そもそも、術を使った治療は非常に高価であり、下層どころか上層の人間ですら受けられない場合もあるのだ。
当然、下層の人間が払える程度の対価では、到底足りるものではないだろう。
それどころか、人によっては平然と踏み倒すようような事もあり、ネルの医者としての活動は到底採算の合うものとは言えない状態であった。
しかしながら、ネル自信は平然と笑いながら、問いかけるカインの言葉を否定していたのだ。
『私の医者としての活動は、貴方が“死”を集めるのと同じようなものよ。別に、元から対価なんて求めてないもの』
曰く、対価を求めるのは下層の人間に合わせての事らしい。
下層の人間は、人に対して借りを作ることを極端に嫌う傾向にある。
弱みを見せればあっという間に喰い潰されてしまう可能性があるため、基本的に無償では信用されないのだ。
しかしながら、治療はネルにとって半ば生き甲斐とも呼べるものであり、治療費そのものに対して元から興味を持っていない。
そのため、下層に合わせて最低限度の対価を手に入れるための方便が、あの台詞だったのだ。
(……妙な女だ)
巡回医師として下層を練り歩くネルの背中を見ながら、カインは胸中でそう呟く。
己にとっての“死”を集める行動であると言われれば納得せざるを得なかったものの、その行動自体の不可解さが消える訳ではない。
何故彼女がそのような事をしているのかは分からぬまま、カインは彼女の行動に同行していた。
実際、死体と出会いやすい事は事実だったためだ。
巡回で診断する場合にしろ、運ばれてくる場合にしろ、手遅れとなった患者の数は少なくはない。
元より医療知識など無いに等しい一般人の間では、重大な症状も放置されている場合が多いのだ。
生活の質が悪い人々の間では病死や餓死、良い人々の間では殺人や中毒死などが良く見られる。
そしてネルは、そうした死を迎えやすい人々がいる場所をしっかりと把握していたのだ。
その為、カインが“死”を集めるペースは、以前よりも幾分か向上していた。
(この女が治療しなければ、もっと多くの“死”を集められるんだがな……わざわざ治したりせず、救ってやればいいものを)
相変わらずながら、カインの判断基準では、ネルの行動は不可解なものでしかない。
救うと言っておきながら、何故治療などを行ってしまうのか。
その理由だけは、全く分からなかったのだ。
「――っと、怪我人発見! カイン、手伝って!」
「……ああ」
ぼんやりと見つめていた背中が急に動き出し、前方に倒れていた人影の元へと駆け寄っていく。
スリの手口の一つであったらどうするつもりなのか、と若干考えないではなかったが、同じ手口の相手を幾度か見抜いている事も事実であった。
更に、今回は遠目に見ても怪我を負っている事が分かる状況である。
それほど危険はないだろうと判断し、カインもまたネルの背中を追っていた。
「傷は結構酷いわね……でも、これならギリギリ何とかなるか。運が良いのか悪いのか……貴方、私達がここを通りかからなかったら死んでたわよ」
「ぅ、ぁ……」
うわ言しか発せられない男に素早く治癒術を施しながら、ネルは真剣な表情でそう呟く。
声音こそは明るいものの、その奥に秘められたものは鉄よりも遥かに堅い意志だ。
決して揺らぐ事のない巌の如きそれは、信念だと言われれば簡単に納得できてしまうほどに強いもの。
治療を行う理由こそ分からないが、ネルがどのような人物であるかと言う点については、カインも薄々掴み始めていた。
(俺が“死”を集めるのは、死に辿り着きたいから。なら、ネルは……?)
明日も知れぬ人間を癒し続ける彼女には、一体どんな目的があるのか。
彼女がただ己の信念に従って戦い続けている事は容易く理解できるが、その目的は直接聞かねば分からない事だろう。
そして同時に、彼女がそれを口に出す事はないであろうという事も、簡単に察する事の出来る事柄であった。
「よし、とりあえずはこんなもんね……持続回復もかけておいたから、しばらく休めば動けるようにはなると思うけど……あんまり、無茶はしちゃ駄目よ。報酬を払う気があるなら、表に近い場所にある診療所まで来てね。それじゃ、お大事に」
手早く傷を癒したネルは、それだけ告げて立ち上がる。
相変わらずまともな報酬を受け取る気すらない彼女に軽く半眼を向けてから、カインは彼女を追うように立ち上がっていた。
そのまま歩き出そうとして――ふと、倒れていた男のほうへと視線を向ける。
壁にもたれたまま俯いている男。一体どのような経緯であれだけの傷を受けたのか、それはカインにとって興味を持てぬ事柄だ。
カインにとって気にするべき事柄は、男の“死”以外には何もない。
あのまま放置していれば死ぬ事が出来たはずなのに、こうして生き長らえてしまった――それを、哀れむ。
「カイン、行こう」
「……ああ」
カインからしてみれば、ネルの行為は残酷なものでしかない。
けれど、その行為を否定するような事もなかった。
彼女の行為を否定する事は、同時に己の行動すらも否定する事につながりかねないが故に。
――だからこそ、ただ哀れむ。死ねなかった男を、死から遠ざかってしまった彼の生を。
「ねえ、カイン。貴方、私がやってる事、酷い事だと思う?」
「ああ。何故救われそうだった奴を癒してしまうのか、理解できない」
そう返しながら感情を映さぬ瞳で見つめるカインに、ネルは小さく苦笑を零していた。
そんな彼女の様子に、カインはわずかに視線を細める。
理解できない――結論はただそれだけだ。
ネルという女は、理解の外の存在であると――そう、カインが胸中で呟いた瞬間。
「私もね、貴方の言う事は一理あると思うわ」
「……え?」
――初めて聞いた言葉に、カインは一瞬、素っ頓狂な声を発していた。
カインは、己の思想は彼女とは徹底的に噛み合わないと考えていたのだ。
そんなネルが、いとも容易く理解を示したこと。それ自体が、カインにとって驚愕すべき事態だったのだ。
珍しく顔に感情を表したカインの様子に小さく笑いながら、ネルはぽつぽつと語り始める。
「こんな世界、こんな国だもの。実際に身を置いてみれば分かる……ここは、死すらも救いとなってしまう場所だわ。貴方の考えも、一理あると思うもの」
「……なら、何故人を癒す? 理解出来るなら、死なせてやったほうが幸せだと分かるだろう」
「幸せ、ね。まあ、貴方はずっと一人で生きてきたのだし、そういう考え方なのも分からなくはないわ。死ぬ事で救われる事もあるのは、事実だしね」
でも、と、ネルは呟く。
カインから視線を外し、空を見上げながら――その先にいる何かを、見つめるようにしながら。
「必死に生き抜いた人だからこそ、“死”という安寧に身を委ねる事が出来るのだと、私はそう思うのよ」
「安、寧……?」
「“死”は、いかなるものにも訪れる、平等な救い。この世にあるものはいずれ終わる……どんな場所に生きていたとしても。ただ、それだけは変わらないのよ。“死”に到達する事で、人は安寧の眠りを得る事が出来る。でもね……ううん、だからこそ」
視線を下ろしたネルが見つめるのは、雑然とした下層の街並みだ。
果たしてこの中に、どれだけの“死”が存在しているのか。
全知ではない彼女には、知る由もない事ではあるが――
「だからこそ、必死に生きなければならない。貴方の言うとおり、“死”は神聖なものよ。尊いからこそ、安易に縋るのは認められないの」
「……俺は、間違っているのか」
「それは貴方が決める事よ、カイン。私の言った事は、私の考え。貴方の価値観は、貴方が決めるべきもの。でも、これは貴方に覚えていて欲しいと、私はそう思う」
告げて、ネルは息を吸う。
ずっと命あるものを映そうとしなかった、カインの瞳を真っ直ぐと見つめて――告げる。
「――“死”は安寧。《永劫》の安寧なの。貴方の言うとおり、“死”とは生物にとって最後の救い。でもね、だからこそ……人は、安易にそれに縋る訳には行かないのよ。貴方が“死”を神聖だと思うなら、忘れないで」
その言葉は――生あるものを拒絶していたカインの魂に、楔となって打ち込まれていたのだった。




