78:追憶・死を遠ざける者
――死こそが、この残酷な世界における唯一の救いである。
カインが手に入れた『価値観』とも呼べるその思い込みは、彼にとって一つの行動指針となっていた。
食事や睡眠を必要としないその性質ゆえに、カインは様々な場所を歩き回って死体を捜していたのだ。
そうして死体を見つけるごとに、“死”はカインの中へと蓄積していく。
その数は、本人であるカインすらも数え切れないほどの膨大な量へと積み重なっていた。
「焼死……少し、暖かいな」
焼け焦げ、一部が炭化していた死体から手を離し、その掌を見つめながらカインは呟く。
契約者による術か、或いはそれ以外の方法か、この地においても珍しい焼死体から死因を抜き出せば、そこには元通りの焼けた後など微塵もない死体が残る。
尤も、これが死した後に焼かれたものであったのならば、カインの力でも元通りにする事はできなかったが。
ともあれ、また一つ増えた“死”に満足しながら、カインはゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
気付けば何日も休まずに動いている事も多く、カインの存在はテッサリアの下層で噂になり始めていた。
何処からか現れ、死体を修復して去っていく少年。それ以外には何もせず、実害も無いために放置されているが、不気味に思われつつあるのは事実であった。
一部、撤去しづらい死体まで修復されるため、死体運びたちにとってはありがたい存在となっていたが。
「次……」
己の中へと沈殿していく“死”の気配。
それを確かに感じ取りながら、カインは次なる死体を求めて歩き始め――ふと、視界の端に白い色が映った事に気がついた。
澱んだ灰色や茶色ばかりを目にするこの地で、煌くばかりの白い髪。
それは、以前街の一角で見かけた少女であった。
以前と同じく獣革のマントを羽織った彼女は、しゃがみ込んで子供へと話しかけていた。
「……あいつは」
見覚えのある光景に、カインは眉根を寄せる。
壁に寄りかかって地面に座り込む子供は、どうやら盗みに失敗して私刑を受けた後のようであった。
しかし、そんな暴力の痕跡は、既に汚れた服程度にしか残っていない。
その様は、彼女の持つ非常に優れた治癒能力を示していた。
通常、このテッサリアの下層において、リンチを受けた子供に待ち受けているのは死だけだ。
基本的に保護者がいない為に盗みに走るのであり、傷ついた彼らを助ける者などありはしない。
たまにストリートチルドレン同士で協力し合っている場合もあるが、リンチを受けて手足を折られてしまえばそれまでだ。
まともな治療も受けられなければ、骨が真っ直ぐと治るとも限らない。
そんな足手まといを養えるほど、ストリートチルドレン同士の繋がりという物は強くないのだ。
故に、倒れている少年は、既に死を待つだけの状態であったはずなのだ。それなのに――
「……何故、治療したんだ?」
「うん?」
小さく、疑問として呟かれたその言葉。
しかしそれはカインの意に反して大きく響き、白髪の少女の耳へと届いていた。
相手に声が届いてしまった事に若干顔を顰めつつも、カインは僅かに嘆息してゆっくりと少女に近付いていた。
治療を受けている子供はまだ幼い少年のようであり、纏う服装からもストリートチルドレンである事が見て取れる。
彼女が手を差し伸べなければ、そのまま死に至っていたであろう事は明白だった。
それ故に、何故治療などをしたのかが理解できず――聞こえてしまったのであれば隠し立てしても意味が無いと、カインは半ば諦めつつも再び声を上げる。
「何故、治療した?」
「何故って、そりゃあ怪我をしてたからよ」
「……何故、他人の怪我など治す?」
「何よ、貴方も無駄だとか言う派なの?」
どこか不機嫌な様子でにらんでくる少女に、カインは若干目を細める。
白い髪と、どこか利発そうな翠の瞳。整えられたその容姿は、彼女が下層の人間ではない事を示しているようでもあった。
人によっては反発を覚えるであろうその姿にも、カインは特に反応する事は無い。
ただ彼にとって疑問であったのは、何故彼女が人を治療して回っているのかという一点だけだった。
「無駄というより……何故助けてやらないのか、それが疑問だ」
「え? いや、だから助けてるんじゃない。こうして、巡回して人を治療して回ってるのよ」
「何を言っている? 折角助かりそうだった奴に、どうして治療などしてしまうんだ」
年上であろう、少女と女性の中間ほどの彼女。
その翠の瞳をじっと見下ろして、カインはただ純粋に疑問を口に出していた。
ただ単に、理解できなかっただけなのだ。“死”こそが救いであると信じるカインにとって、治療という行為そのものが、『再び地獄に突き落とされる』というものにしか感じ取れないのである。
そしてそれ故に、少女も困惑せざるを得なかった。
悪意や嘲りを含んで、彼女に声をかけてくる者はいた。もしもそういった感情が相手であれば、容易くあしらう事が出来るという自負を彼女は持っている。
しかし、カインのように純粋に疑問として問いかけてくるものは、これまで皆無であった。
「……どういう、意味なの?」
「ん? 言っているだろう、折角死ねそうだったのに、なぜ治療してしまうのか……それが理解できないんだと」
表情を変える事も無く言い放たれたその言葉に、少女は思わず息を飲んでいた。
カインの言葉の中には、微塵も澱みが存在しない。
まるで子供のような純粋さで、彼は問いかけていたのだ。
或いはそれこそが、狂気とでも呼ぶべきものなのか――決定的なまでの価値観の相違を感じ取り、少女は視線を細める。
「貴方は、死ねば助かるって思ってるの?」
「当然だろう? 死ねば救われる……二度と、苦しむ事はなくなる」
カインの発する言葉の中に、感情らしい感情は無い。
ただ事実を淡々と述べているだけであり、疑うまでも無い常識として口に出している。
目の前に立っているにもかかわらず、まるで違う世界に存在しているかのような感覚を覚え、少女は小さく嘆息していた。
そして傍らの傷を負っていた少年の治療を完了させて、ゆっくりと立ち上がる。
身長はカインと同じか、僅かに高いという程度。そんな彼女の姿を見つめ、カインは再度疑問を発する。
「なあ……何故だ? 何故助けてやらなかったんだ?」
「……はぁ。まあ、根本的な所を言っても平行線にしかならないというか、全く納得しないでしょうね、貴方」
死こそが救いであるという考え方が根本にある以上、それを否定する言葉を聞いた所で、カインが納得する事は無い。
確証は無いまでも、カインの歪みの一部を感じ取っていた少女は、ただじっとカインの事を見つめながらそう告げていた。
テッサリアの下層らしいといえばそれまでの、痩せぎすの少年――その深く暗い深淵のような瞳に、少女は思わず息を飲む。
何をどうすればこのような瞳ができるのか、彼女には理解できなかったのだ。
「っ……彼は死にたくないと、そう言ったの。だから私は、それに応えた。ただ、それだけよ」
「……そうか。死を拒む奴は、いるのだな」
無感情な声の中に、僅かに同情の色を浮かべて、カインはそう口にする。
自分自身も、かつて死を拒んでいた存在であったからこそ、その思い自体を理解する事はできたのだ。
そして同時に、死という救いを受け入れられない少年に対し、本気で憐憫の念を覚えていた。
――人としての本能に背いたその歪みを、全く自覚する事無く。
「……まあ、いい。邪魔をした」
軽く息を吐き出してそう告げると、カインはそのまま踵を返して立ち去ろうとしていた。
そんな彼の背中に、少し慌てた様子で白髪の少女が声をかける。
「待って、ちょっと待って。貴方もしかして、あの死体を直して回っているっていう子?」
「……死体を直しているつもりは無い。結果としてそうなっているだけだ」
“死”を集める事はカインにとって神聖な行為であり、それを勘違いされたくはないと、珍しく憮然とした表情を見せながらカインはそう返す。
死体の状態になど、カインは頓着していないのだ。
もしも死んだ後に損壊を受けた死体であれば元には戻らないし、例えそうだとしても、それを気にする事などない。
重要な事は死体から“死”を抽出する事であり、それ以外は全て些事に過ぎないのだ。
対する白髪の少女は、そんなカインの言葉に大きく反応を示していた。
「貴方が死体に何かをしているのは事実なのね?」
「……ああ」
質問の意図は分からないものの、間違ってもいない。
怪訝そうな表情のまま少女の姿を見つめ、カインは小さく首肯していた。
それを見て、少女は僅かながらに目を細める。睨むような視線となったその表情は、どこか探るようにカインの事を観察していた。
ボロボロの、どこにでもいるような下層の子供。
幼くはあるが長身であるため、見ようによってはそれなりの年齢にも見えなくはない。
けれど、白髪の少女が見ているのは、そんな上辺だけではないのだと、カインは直感的に感じ取っていた。
どこか、体の内側を覗き見られているような不快感に、カインは眉根を寄せる。
「……これ以上の質問が無いなら、俺は行く」
「あ、ごめん。一ついいかな?」
立ち去ろうとしたカインを、少女は再び呼び止めていた。
いよいよ不機嫌になって、元々悪い目つきをさらに険悪に歪めるカインに対し、彼女は苦笑を零しながら声を上げる。
「付いていってもいいかな? 貴方がその活動をしている所を見てみたいの」
「……何故、そんな事を気にする」
「貴方の力に興味があるの。邪魔はしないから、ね?」
「…………」
手を合わせて頼み込んでくる少女の姿に、カインは細めた視線を向けていた。
意図は分からないが、少なくとも言葉の中に嘘と悪意は存在しない。
長い間テッサリアの下層で暮らしてきたからこそ身についたその感覚から、少なくとも危害を加えるつもりはないだろうとカインは判断していた。
「……どうでもいい、勝手にしろ」
けれど、懇切丁寧に案内するようなメリットもない。
結果的にカインは、彼女の存在を無視する形で活動を再開していた。
別段、“死”の蒐集を見られた所で特に問題はないとカインは考えていたのだ。
そんなカインの背中に、どこか苦笑するような色の篭った声が届く。
「ええ、分かった。勝手にさせて貰うわ」
そのことばに、カインは軽く肩を竦め、そのまま彼女の存在を無視していつも通りの死体探しへと戻っていた。
表通りにはまず死体は転がっていない。あるとすれば裏通りの、もっと人目につかない場所だ。
そういった場所では、傭兵同士や組織間での抗争の末の死者、または余計な事を知りすぎてしまった娼婦の死体などが良く転がっている。
例え治安の悪い下層とはいえ、殺人鬼などはそうそう存在しないのだ。故に、変わった死因などはそうそうない。
「……無い」
娼館の裏手などはよく死体が転がっている場所であるが、それでも確率が高いという程度だ。
必ず死体が転がっている場所など、死体処理場以外には存在しないだろう。
軽く嘆息したカインは、そのまま建物の裏手を抜けて更に下層の奥深くまで進んでいく。
――そこに、若干慌てた様子で少女の声が掛かった。
「ちょ、ちょっと! あんまり奥に行くのは危ないんじゃないの?」
「……嫌なら、引き返せばいい」
「私は別に、自分の身は自分で護れるけど……貴方もしかして、普段からこんな所に足を踏み入れてるの?」
「ああ……そうだな。あまり気にした事も無いが」
どうせ外傷では死ぬ事などできないのだと、カインはそう理解している。
その身に宿る特異な力は今なお力を増してきており、多少の傷ならば数秒程度で治ってしまうほどに強化されていたのだ。
“死”の蒐集を始めてから、トラブルに遭遇した事は幾度かある。
その内、何度かは死に直結するような傷を受けた事もあったのだ。
にもかかわらず、日も変わらぬ内から元通りに再生してしまった事に、カインが落胆を覚えなかったと言えば嘘になってしまうだろう。
“死”の蒐集を始め、“死”からは遠ざかりつつあるが、着実に“死”は蓄積してきている。
その果てにあるものが唯一の救いであると――そう信じる事しか、カインには出来なかったのだ。
――けれど、少女が納得できるかどうかとなれば、それはまた別の話であった。
「貴方、いつもそんな危ない事をしてるの?」
「ああ」
「どうして――いや、理由は聞いても仕方ないか。でも、これはあまりにも危険すぎるでしょ。いつからこんな事してるのよ?」
「さあ……忘れた。ここ二、三日はぶっ続けで歩き回ってるし、時間など覚えてない」
「……は?」
その言葉に、少女は今度こそ目を点にしていた。
カインの言葉のニュアンスから、ただ単にこの行動を毎日しているという意味ではなく、不眠不休で動き続けている事を察してしまったのだ。
そんな人間には到底不可能な行動でさえ、カインにとっては当然の事象となってしまっている。
「貴方……家は?」
「拠点は無い。適当にその辺で休んでいる」
「そんな事をしたら盗みに――」
「盗まれるような物など持っていない。体と服だけだ」
無論、奴隷として売られる可能性は無きにしも非ずである。
だが、カインは不眠不休で活動する事が可能なのだ。例え不審者が近付いてきても、さっさと逃げれば済む話である。
しかしそんなカインの言葉に、少女は深々と溜息を吐き出して、がりがりと頭を掻きながら呻き声を上げていた。
「あー……もう! 駄目だ、見てられない! ねえ貴方、この活動はどれぐらいで区切るの?」
「ん……? 死体がしばらく見つからなければ、休む」
「なら貴方、私の拠点に来ない? 死体なら、割と集まってくるわよ」
その言葉に、カインは目を見開いて振り返っていた。
ようやく大きな反応を示した彼に対し、少女は半ば呆れた表情を浮かべながら声を上げる。
「こんな所で巡回医まがいの行動をしてるんだから、死体なんて日常茶飯事よ。それに、私の噂を聞きつけて、怪我人や病人が運び込まれてくることもある。こうして当ても無く彷徨うよりは、よほど効率的だと思わない?」
「……本当か?」
「ええ、嘘は吐かないわ。だから、私の所に来なさい」
命令口調で、けれどどこか懇願するような色を瞳に込めて、少女は真っ直ぐに言い放つ。
そんな彼女の表情に言い知れぬ感情を覚えながら、カインは小さく首肯していた。
「……分かった」
「よし! じゃあ来なさい、こっちよ!」
先ほどとは逆に、少女が先行して歩き出す。
その背中を追いながら、カインは僅かに、己の感情が揺れている事を感じ取っていたのだった。