76:追憶・死の価値とは
意味のある死とは何か――カインにとって、その疑問は忘れられぬ事柄と化していた。
帰る家は既に無く、例え呑まず喰わずであったとしても生存し続ける事ができる。
自分自身に対して極限まで無頓着であったカインは、その日以来、ただその疑問を解消するためだけに行動を開始していた。
「……はぁ。また来たのか、小僧」
死体処理場の入り口付近。その場にただ立ち尽くして、運ばれてくる死体を一つ一つ眺めていたカインに、声をかけてくる男がいた。
先日、カインが死体を運んだ際に対応した男。彼は、一日中死体を眺めているカインに、時折話しかけてきていたのだ。
「一日中呑まず喰わずで、ずっと死体を眺めてばかり。お前は一体何のつもりなんだ? この近辺のガキなら、盗みに行くなりたかりに行くなり、何なりすればいいだろうが」
「必要ない。俺には、目的がある」
「やれやれ……ったく、テメェがあの死体の中に運ばれないようにはしとけよ」
山積みにされた死体を示し、男は軽く嘆息する。
言葉で言っても無駄だと確信できてしまうほど、カインの言葉の中には揺らぎと言うものが無かったのだ。
ただじっと、運ばれてくる死体から視線を離さないまま、男の言葉に対応する。
その姿に、取り付く島など皆無であった。
厄介なものを呼び込んでしまったと、男はもう一度嘆息し、カインの横に腰を下ろしていた。
「なあおい、小僧。お前、そんな事して何の意味があるんだ?」
「知らん。俺はただ、知りたいだけだ」
「何を知りたい」
「意味のある死とは何なのか」
「だから……」
ここ数日、既に難度か繰り返した問答だ。
けれど、カインの言葉は全く変わる事無く、ただ同じ答えが繰り返されるのみ。
そしてそれを説得しようとする男の言葉も、変わることは無かった。
「言っただろう。そんなモンは人それぞれだ。死ぬまでに果たしたいと思っていた事かも知れねぇし、死んでも護りたいと思っていた奴かも知れねぇ。それが、そいつにとっての意味のある死だろうよ」
「なら……俺にとっての意味のある死とは何だ」
「だから、人それぞれだって言っただろう。お前、そういうのはねぇのかよ。やりたい事とか、護りたいものとか」
「……ない。俺には、何も」
カインには、何もないのだ。
何もせずとも生きていけるからこそ、執着するものすら存在しない。
唯一執着しているものと言えば、あの男の満足そうな死に顔だけだ。
満足して死んだ男。意味のある死を迎える事ができた男。その命を、無駄に使う事の無かった男。
その姿に輝きを見出していたからこそ、カインは疑問を抱き続けていたのだ。
(俺の、やりたい事。護りたいもの。それがあれば、あの輝きを得る事が出来るのか)
胸中で呟き、カインは目を細める。
運ばれてくる死体の表情を一つ一つ確かめながら、その中の輝きを探し続ける。
けれど、あの男のように己が死に満足しているような死に顔など、殆ど存在していなかった。
どんな死体も、死への恐怖と絶望に歪み、この世界への怨嗟を零すようなものばかり。
穏やかな死など一つもなく、どれもこれも何かの傷を受けて殺された死体ばかりなのだ。
――酒瓶で殴り殺されたのか、頭が陥没して周囲にガラスが刺さっている死体。
――素っ裸に剥かれ、全身に青痣と汚れた体液をつけた女の死体。
――私刑に遭った末に力尽きたのか、全身がボロボロになった子供の死体。
――麻袋から取り出された、バラバラに切断された死体。
特に感慨を抱くでもなく、カインはそんな死体たちを見送ってゆく。
意味など無い。価値など無い。このテッサリアの下層において、死とはそういうものであるはずだ。
誰もに理不尽に訪れ、全てを奪い去っていくもの。誰もが逃れようとしながら、結局は逃れきれず飲み込まれるもの。
そこに意味を見出す事などあるはずが無いのに、何故あの男は、その最果てを見る事が出来たのか。
カインは、疑問を反芻しながら視線を動かし――そこに、隣の男の声が掛かった。
「なあ、ガキ――お前、死にたいのか?」
「……」
ぴたりと、カインの視線が止まる。
その言葉に、カインは初めて死体から視線を外し、男の方へと顔を向けていた。
どこか呆れたような、けれど同時に真剣な色を宿した瞳で、男はカインの事を見つめている。
「確かに、何も無いってのも分からない訳じゃない。生きる事が難しくただ辛いだけって奴も、ここにはいくらでもいるだろう。そうして生きる事を諦めちまう奴もいる訳だ……お前も、そのクチか?」
「……」
男の視線を見つめ返しながら、カインは沈黙する。
生きる事が辛いなど、思った事は一度も無い。何もしなくても生きていく事が出来るのだ、生きる事などあまりにも容易い。
けれど、満たされた事は一度も無い。己の生に価値を見出した事など一度として無いのだ。
だからこそ――カインは、死に魅せられたのだろう。
「……そうかも、しれないな」
故に、カインはそれだけ呟いて、再び死体の方へと視線を戻していた。
そんなカインの様子に、男は深々と溜息を吐き出す。その仕草の中には、強い諦観が込められていた。
そのまま男は立ち上がって踵を返し、カインの傍から去ってゆく。
「そうかい……ま、ほどほどにしておけよ」
男はその言葉だけをかけ――それきり、二度とカインの前に現れる事は無かった。
* * * * *
死の意味を、死の価値を探る日々の中、話しかけてくる男の存在は、カインにとってさほど意味のあるものではなかった。
カインにとって、他者とは等しく価値のないものだったのだ。
否、カインにとっては、己すらも価値のあるものであるとは認識できていなかった。
カインにあるのは、己が生きているという認識のみ。
そんな中で、僅かながらに熱を感じさせたものが、意味のある死という概念だけだったのだ。
「……」
カインは今日も、無言で死体を観察し続ける。
死体を運ぶ者たちを呼び止めるような真似はしない。
余計な反感を買うだけの行為であるし、例え傷が残らない体であると言っても、痛みを感じない訳ではないのだ。
無駄なダメージを負うことに意味などない。だからこそ、カインは遠巻きに死体を眺め続けるだけであった。
幸い、視力に関しては十分すぎる能力を持っていたため、ある程度距離が離れていても問題は無い。
カインは、ただ表情を変える事も無く、じっと死体を運ぶ人々を眺め続けていた。
「……」
己の行為が異常である事は、既に事実として認識できていた。
誰も同じ事をするような人間はいない。当然と言えば当然だろう、死体を観察した所で、僅かな小銭にすらならないのだから。
明日どころかその日を生き抜く金すら得る事は難しい。
そんな中で、このような無駄な行動をしている人間が多いはずが無いのだ。
――故に、自分は見限られたのだろうと、カインはそう認識していた。
(俺は、死にたいのかどうか、か)
生きる事を諦めているのかどうか――そう問われれば、カインも首を傾げざるを得ない。
カインにとって、生きる事は諦める事ではないのだ。
例え諦めていたとしても、生き続けてしまうのだから。
けれど、死にたいのかどうかと問われれば――
(死ぬ、とは……ああいう風になること。俺は、そうなりたいのだろうか)
生きる事に対し、執着は無い。
けれど、死ななければならないような理由も無い。
カインは、ただそこに存在しているだけの空虚な存在なのだ。
何もしなくても生き続けられるという事は、生きているとも、死んでいるとも言えないという事なのだから。
(死とは……何だ)
このテッサリアの下層において最も身近な概念であり――同時に、カインにとって何よりも遠いもの。
己自身に対する執着が無いために、自分自身の終焉に対しても、なんら興味を抱いていない。
今の己にとって、価値あるものはただ一つ、意味のある死を知る事だけ――そう、考えていたときであった。
視界の端に、見知った男の顔を認識したのは。
「え……」
僅かに声が零れ、しかしそれを己の声であるとすら認識できぬまま、カインはそれを見送る。
見知った男の顔だ、忘れるはずも無い。何故なら、それは最近までカインに話しかけ続けていた男の顔なのだから。
次々と入ってくる人々の中、男は死体処理場への道を進んでいたのだ。
――運ばれてくる死体の、一つとして。
「……そうか」
それを認識した時、カインの胸中に広がったのは、ただ納得の感情であった。
死んでいたから、来れなかったのだと。カインが考えたのはたったそれだけの言葉であり、男の死を悼む思いは一つもなかった。
見知った男が死んだ、その事実を認識しただけなのだ。
けれど――興味が無いと言えば嘘になる事も、また事実であった。
軽く息を吐き出し、カインは立ち上がる。向かう先は、男が運ばれていった死体処理場の中だ。
それほど距離が離れている訳でもなかったため、その死体を運ぶ男には、簡単に追いつく事が出来た。
既に担当官の元へと辿り着いていた死体運び。そんな二人の元へと近付くカインの姿に、死体運びの男が気付いていた。
「あ、何だガキ? こんな場所でスリでもするつもりか、あ!?」
「落ち着け、そいつはただの気違いのガキだ。日がな一日死体を見ているのが趣味の、訳の分からん奴だよ。おいガキ、何の用だ」
「……そいつを、見に来た」
端的にそれだけを口にして、カインは死体を覗き込む。
男の威嚇も、担当官の呆れた目線も気にする事無く。
胸に剣でも突き立てられたのだろう――いつも話しかけてきていた男の死に顔は、恐怖と痛みに歪んでいた。
ならば、意味のある死ではなかったのか。少なくとも、この男は己の死に満足してはいなかったのだろう。
つまらない死だと――そう判断して、カインは視線を上げた。
「何だ、もういいのか?」
「ああ、良くある死に方だ」
「はっ、確かにな。しかしまぁ、こいつも下手を打ったもんだ、こんな糞みたいな場所で死ぬとはな」
担当官もまた、この男の事を知っていたのだろう。
彼は死に顔を見下ろしながら、嘆息交じりに肩を竦めていた。
しかし、その表情の中にあるのは、悔恨に似た色などではなく、どこか皮肉ったような笑みであった。
「ま、こんな場所から開放されるんだ、多少は救われたって所かね」
「ん……?」
その言葉に違和感を感じ、カインは顔を上げる。
珍しく感情らしきものを瞳に宿したカインは、抱いた疑問を遠慮なく口にしていた。
「それは、どういう事だ? 何故、死んだら救われる」
「ふん、決まってるだろう。この糞みたいな仕事から、糞みたいな街から、糞みたいな世界から解放されるんだ。そう考えれば、死ぬ事だってそう悪いって訳じゃねぇ。死ねば、この塵溜めから救われるんだよ」
「はっ、俺にゃ理解できねぇな。死にてぇとはおもわねぇしよ」
「ははは、そりゃあ俺だってそうだ。ただ、死ぬ間際にはそう考えてやろうって決めてるだけだよ」
会話を始める男達を見上げながら、カインは僅かに視線を細める。
言葉が己の芯まで届く感覚――かつて、意味のある死という概念を知った時と同じ感覚に、カインは息を飲んでいた。
死に方に意味が生まれる事があると理解していたが、死そのものに意味があるとは考えていなかったのだ。
ただ死ぬだけで、この地獄から開放される。ならば、それに意味が無いなどとどうして言えよう。
(死に、価値がある。ならば、意味のある死の価値とは、どれほどのものなんだ)
未だ、答えには届かない。
けれど、一歩進んだ感覚を覚えながら、カインは踵を返してその場から去っていったのだった。




