72:二つの黒
特に当ても無く歩き回るカインと、その後ろを付いて回るウルカ。
ウルカはともかく、見るからに下層の人間であるカインに対し、話しかける人間は基本的に皆無である。
ネレーアやアルテアは例外の部類に入るのだ。
例え選りすぐりの契約者達と言えど、上層と下層の間にある意識の差は大きい。
とはいえ、余計な接触が無い点に関しては、ウルカにとってむしろありがたい話であった。
カインが余計な問題を起こさないかどうかは、ウルカが常に気を揉んでいる事柄だったのだ。
(でも、何だか様子が変だな……)
問題を起こさないのはいいが、いつも以上にカインが大人しい。
カインは別段、積極的に人に絡みにいって問題を起こすという訳ではないのだが、目立つ姿であるだけに問題の方から寄って来る傾向にあるのだ。
近頃のカインは無意味に相手を挑発する事も少なくなり、レームノスではそれほど問題を起こす事は無かった。
全てはリーゼファラスの存在があってこそであったが、それを知らぬウルカからすれば、カインの変わりようはただただ不気味なだけである。
(例の記憶の事なのかな。テッサリアに近付いてから様子がおかしくなってるし)
カインの様子を見れば、彼はふとした瞬間にテッサリアの方向へと視線を向けている。
まるで、何かを思い起こそうとするかのように目を細めながら。
その姿は、戦場で敵を前に嘲笑するカインとは思えぬほど、まるで凪いだ海のように静かなものであった。
その身体より滲み出る、濃密な“死”の気配は普段と変わらない。
けれどウルカは、今のカインに対し、恐怖の感情を覚えてはいなかった。
(故郷を前に色々と考えてる……って感じじゃないよなぁ。何考えてるんだろう、本当に)
落ち着かず、ウルカは小さく嘆息を零す。
と――そんなウルカの視界の端で、カインが唐突に動きを見せていた。
茫洋とした視線をテッサリアの方角へと投げていた彼が、その視線を突如として横に向けていたのだ。
そちらへと歩き出す訳でもなく向けられた視線に、ウルカは首を傾げながらそれを追う。
視線の先には、歩き寄って来る黒髪の少年の姿があった。
「やあ、こんにちは」
「テメェか。そちらから声をかけてくるとは珍しいな」
「いやぁ、僕に声をかけてくるような人間なんていないからね。こっちから声をかけなきゃ」
アルベールと名乗る、他国の少年。
どこか捉え所の無い、悪く言えば何を考えているのか分からない相手、と言うのがウルカが彼に対して抱いた印象であった。
実際の所、あまり印象には残っておらず、今の今まで忘れてしまっていた相手だ。
しかし、そんな相手に対し、カインはいつもと同じ皮肉気な笑みを浮かべてみせる。
「そう言う割には、随分と楽しそうじゃねぇか」
「いやぁ、君みたいにちゃんと話してくれる人がいるからね。楽しい事は楽しいさ」
「ほぅ……まあ、いいがな。それで、何の用だ?」
軽く肩を竦め、カインは睥睨するようにアルベールを見下ろす。
その視線の中に、相手を侮るような色は無い。
ネレーアを相手にした時以上に相手を警戒する色が、カインの中には存在していた。
そんなカインのぶしつけな視線に対し、アルベールはどこか嬉しそうに笑みを浮かべ、声を上げる。
「特に用は無いよ。君がいたから話しかけただけさ」
「そうかい。ま、別にいいがな。それで、世間話でもするつもりか?」
「あはは、それもいいかな」
特に用は無い――その言葉を聞き、ウルカはちらりとカインを見上げる。
若干警戒の色は見せているものの、アルベールの側に敵意が無い以上、カインから喧嘩を売るような事も無い。
ただ普通に話しているだけであるために、ウルカの注意は徐々に周囲へと逸れ始めていた。
そんな中、カインはじっと、相手から視線を離さずに声を上げる。
「ふむ、なら一応聞いとこうか。お前、これからどうするつもりだ?」
「どう、とは?」
「どこにくっついて動くんだ、って事だよ。わざわざこんな所まで付いて来て、駐屯地で時間を潰してるだけになるつもりか?」
この少年を手の届かない位置に放置しておくのは問題があるという理由もあったが、危険な戦場にもかかわらず拒否せずに付いて来たのはアルベール自身だ。
何らかの能力――それも、リーゼファラスの一撃に対応できるほどに強力なものを持っているとはいえ、今回が非常に危険な戦いとなる事は火を見るよりも明らかだ。
それでも、まるで臆する事無く――それどころか喜んで付いて来たこの少年には、カインとしても不審を抱かずにはいられなかった。
視線を向ける事無く隣の少年の状態を知覚し、カインはほんの僅かに視線を細める。
「しかし、良く分からん奴だな、お前は」
「あはは、よく言われるね。で、誰に付いて行くかってのは……ま、適当に行くさ。君たちに付いて行ってもいいけど、僕の事が気になってしまうんじゃないかな?」
「リーゼファラスの奴は、野放しにしておく方が落ち着かんと言うかもしれんが……俺は自分の事に集中するだけだな」
「ふぅん。ま、僕は自由にやらせて貰うよ」
特に意思表示も無く、アルベールはひらひらと手を振る。
どこか秘密主義な部分のある少年に、カインは沈黙を返していた。
カイン個人として、この少年の事を嫌っている訳ではない。
と言うよりも、カインは誰かの事を嫌った事などまず無いのだ。
しかし、敵意を抱くかどうかと、警戒すべき相手であるかどうかは別の問題だ。
己を殺しうる敵となるかどうかは分からないが、うまく能力を隠しているこの少年に対し、気を抜く事は出来ない。
「そうかい。まあ、勝手に動くつもりならそうすりゃいい。お前が死ぬ事はないだろうしな」
「へぇ……ずいぶん自信満々に断言してくれるんだね」
「まぁな」
苦笑交じりに息を吐き出し、カインはゆっくりと歩き出す。
特に目的地がある訳ではない。ただ、じっとしている事が気に入らなかっただけだ。
テッサリアを前に逸る気持ちを自覚し、己の中にそんな感情があったことに対して、僅かな困惑を覚える。
「リーゼファラスの一撃に対応した……それとも、喰らってから何かしたのか」
「…………」
「お前の力の本質がどこにあるのかは知らんが、俺やリーゼファラスの力に引けを取らん類だろう。一人で放置していたからと言って、死ぬとは到底思えんな」
「思ったより、色々考えてる人なんだね」
否定も肯定もせず、付いてきたアルベールは薄っすらと笑む。
若干挑発するような口調は癖なのか、特に敵意を滲ませるでもなく、アルベールはただ淡々とそう口にしている。
そんな彼の言葉を受け止め、カインは軽く肩を竦めていた。
――アルベールの能力の正体は、未だはっきりとしない。
複数の能力があるようにも思えるが、その根本となっているのはたった一つの力のはずなのだ。
(自分から積極的に近寄ってくる割に、相手を挑発するような言動を取り、更に秘密主義な部分まである……わざとらしさは無い、まるで自然体だ。だが……流石に、その性格自体は不自然すぎるだろう)
素のようでもあり、偽悪的なようでもある。
その何とも言えぬ不自然な性格に対し、カインは違和感を覚えていた。
上手く言葉で言い表す事は出来ないが、ただただアンバランスに感じられるアルベールの性格。
何故そのような考え方をするのか、カインにはまったく理解できなかった。
――そう、カインには理解できるはずがないのだ。
自身の生に対して能力があまりにも深く結びつきすぎているカインでは、能力とは無縁に生きた人間の考えなど理解できない。
それ故に、カインではアルベールの感情など全くと言っていいほど理解できていなかったのだ。
「所で、僕の方からも聞いていいかな?」
「あん? 何だよ?」
「うん、大した事じゃないんだけどね」
そう前置きをし、アルベールはカインの顔を見上げる。
そんな少年の表情に、カインはふと違和感を覚えていた。
今までの彼の表情は、薄く笑みが浮かべられてはいたものの、どこか薄っぺらな仮面じみたものだったのだ。
何の感情も読み取れず、内心を完全に隠し切ったそれは、いっそ見事とすら呼ぶべきポーカーフェイスであった。
しかし今の彼の表情の中には、僅かながらに感情らしきものが読み取れる。
それが何なのかまではカインには分からなかったが、アルベールが真剣に問うている事だけは理解できた。
「貴方は、他人というものをどう捉えているのかな?」
「……質問の意味が良く理解できんのだがな」
「言葉通りの意味さ」
軽く肩を竦め、アルベールはカインを追い抜くように歩を速める。
そうしてカインの数歩先に進み、くるりと振り返ったアルベールは、その口元に笑みを貼り付けて続けた。
「僕の経験上、貴方のように幾つもの戦場を渡り歩いてきた人は、とてもシビアな考え方をするものだと思ってる」
「事実、その通りだろう? 俺は甘っちょろい考え方をしているつもりはないがな」
「まあ、それはそうだろうね。けど、そういう人達って、基本的に他人の事なんてまったく考えていないと思うんだ」
アルベールの言葉に、カインは僅かに視線を細める。
彼の言葉は、紛れも無く事実であった。基本的に、下層の傭兵には他者を思いやるような余裕は無い。
《奈落の渦》によって荒らされている線上は非常に過酷であり、常に己の命を優先しなければ生き残れない場所なのだ。
けれど、とアルベールは声を上げる。
「貴方の性質は、どこまでも『来る者拒まず去る者追わず』だ。他人の世話を焼く理由なんて無いはずなのに、求められればそれに応える。そして去っていく相手を追う事も無い。友好的に接してくる相手も、敵意を向けてくる相手も……全部、同じ対応に見えるよ」
「……成程、な」
自分自身で納得し――カインは、軽く苦笑を零す。
否定する事は出来ないだろう。カインという男の性質に関していえば、何一つ間違ってはいない。
何故ならそれは――
「“死”ってのは、そういうモンだろう?」
「“死”?」
「どんな人間だっていつかは死ぬ。そして死してこそ、唯一無二の安寧へと身を委ねる事ができる。“死”は平等だ。上層も下層も、契約者も傭兵もただの人間も、いずれは死ぬ」
それは、かつてカインが地獄を生き抜く中で培ってきた感覚。
ただ苦痛でしかない生の中で、唯一“死”のみが救いであったから。
故にこそ、カインは憧れたのだ。全てに訪れる安寧に。
「いずれはどんな人間にだって、救いは平等に訪れる。だからこそ、他人の区別なんか考えもしないだけだ」
「貴方は、自分自身が“死”だとでも?」
「別に、そこまでは言わん。だが、いずれは全部死ぬ以上、分けて考えた所で無駄だろう。あらゆる全てが、いずれ救われるべきものだ」
心底からその言葉を言い放ち、カインは軽く肩を竦める。
“死”は救いであり、いずれ死ぬあらゆるものは、即ち救われるべき存在である。
歪みきったその思想を聞き――アルベールは、くすくすと笑い声を零していた。
貼り付けた仮面のような笑みではなく、純粋に感情の篭った笑い声を。
「ふ、あはははっ……うん、成程、良く分かったよ」
「何がだ?」
「貴方と言う人間がどういう存在なのか。それに、貴方がどうして僕の事を見てくれるのかという事も」
「何……?」
「分からなくてもいいよ。単に、僕の都合ってだけだから。ま、今はそれでも十分かな」
どこか上機嫌に、普段以上に感情を見せるアルベールに対して、カインは僅かながらに困惑する。
一つだけ言える事は、彼の感情がカインに対して何処か友好的になったという事だけだ。
その理由も分からず首を傾げるカインに対し、アルベールは上機嫌のまま踵を返す。
「ありがとう。いい話が出来た、参考になったよ。また機会があったら話をしようか」
「まあ、別に構わんが……何しに来たんだ、お前は?」
「あはは、十分目的は果たせたさ。じゃあ、僕はこれで」
ひらひらと手を振り、アルベールはそのまま歩を進めて去ってゆく。
そんな彼の背中を見送り、カインは僅かな困惑を消化しきれず、ただ訝しげな表情のままアルベールの背中を見送っていたのだった。




