05:弱者と強者
「《奈落の渦》より現れた魔物は、現在クレーテに接近中。接触まではおよそ三十分ほどだと思われます」
「分かりました……観測手には無理をせぬよう伝えてください。必要以上には近寄らず、危険なようでしたらすぐさま退避を」
「はい、厳命させます」
街の東側へと向かう馬車の中、ミラは響く声に耳を傾けながら、ひたすら頭を動かしていた。
予想以上に敵の到来が早かった事もあるが、それ以上に、今後のことを考えていたのだ。
ミラたちの目的は、あくまでも《渦》そのものを消滅させる事だ。
当初の計画では、こうして押し寄せてきた敵を殲滅した後、返す刃で攻め込んで一気に制圧する予定だった。
しかし、到着直後で疲労も抜け切っていないこの状況で、果たしてそれが可能であるかどうか。
「……アルテア様、今回の敵の規模は分かるでしょうか?」
「リーリア、報告をお願いします」
「では失礼します、ケラウノス様。今回の敵軍勢の規模は、およそ3000、魔物の構成比率に関してはほぼ通常通りのようです」
《奈落の渦》の魔物には、いくつかの種類が存在している。
《兵士》、《重装兵》、《砲兵》、《操縦士》、《指揮官》、《将軍》――それぞれが非常に厄介な性質を持つ魔物であるが、何よりも厄介なのはその数であろう。
これらの比率は順に、10,000:1,000:700:500:10:1となっている。
3000の数であるならば、最悪の魔物である《将軍》は現れないであろうものの、都市一つを制圧するのには十分すぎる戦力であると言える。
《操縦士》は少々特殊な存在であるため、ここには現れない可能性が高いが――
「多いわね……」
ミラは、小さく一人ごちる。
最下級の《兵士》でさえ、非契約者が相手をするならば訓練した人間が三人は必要となる。
契約者ならば幾分勝手は違うが、それでも3000と言う数は負担が大きいのだ。
対し、今回ミラたちを始めとした援軍の面々の数は、約300名。
その内、上層の人間である契約者はおよそ100名だ。無論これがオリュークスの全力という事はないが、少数精鋭として割ける人員ではこれが限界となってしまう。
今回の作戦では、この更に半数、約50名で戦線を維持しなければならない。
後方からの火砲支援が入ったとして、果たしてどこまで耐え切れるか。
「後衛まで攻撃が届く事はありませんが、前衛は無傷とは行かないでしょうね」
「大した自信ね……まあ、貴方の実力は信じているわ。出来る事なら最速で《指揮官》を落として、敵の足並みを乱したい所だけど」
「貴方の攻撃で何体かは落とせるでしょうが、全てというのは難しいでしょうね。さて、それでも尚、あの作戦を貫くつもりですか?」
「何の考えも無しにという訳にはいかないけれど……弱者を前に出すつもりはない。適材適所という話よ」
「まあ、そうですね。出来ればもう少し綿密に作戦を練る時間が欲しい所でしたが」
言って、リーゼファラスは嘆息する。
生憎と、敵にはこちらの事情を汲んでくれるような理由も理性も存在しない。
全てを壊し、喰らい、埋め尽くすまで止まらない――それが《奈落の渦》なのだから。
「ミラ様、こちらからも兵士を出した方が……」
「お願いしたいところではありますが、前衛で戦うに足りる者は現在動かせる状態ですか?」
「……そう、ですね。正直な所、現状無傷な者は存在しません。戦う事は出来るでしょうが、その――」
戦えば、命を落とす可能性が高い。
言外にその意味を含ませ、アルテアは申し訳なさそうに視線を伏せた。
しかし、仕方ない事であると言える。
現状、クレーテの街自体はほぼ無傷ではあるが、次の襲来には対応しきれないであろう事は予測できていたのだ。
一番最初の襲来の際に、多くの戦士が負傷してしまったのが大きかったのだろう。
一歩間違えれば、クレーテは陥落していたに違いない。
「……分かりました。後衛として戦える者だけでも、少々お貸しして頂けると助かります」
「よろしいのですか?」
「それでさえ心苦しいのです。貴方がたを休ませると言ってすぐ、このような事になるとは」
「仕方ありません。前回の襲来からおよそ1週間……間隔が短すぎたのですから」
綿密な準備が出来ていれば、今回の精鋭300名でも十分に足りる――その自負が、ミラにはあった。
数の上では圧倒的に不利。けれど、一騎当千たる上位神霊との契約者がいるのだ。
ミラ自身の力が存分に発揮できる場を整えれば、例え3000が相手だとしても、戦う事は出来る。
(いきなりではあるけれど、正念場ね)
ミラは、胸中でそう呟く。
早速の山場ではあるが、この場さえ乗り切れれば、後は対応する事も十分に可能だ。
この予想外の事態、果たしてどこまで有利に事を運ぶ事ができるか――それが、ミラの課題であると言えた。
馬車の中の会話が途切れたちょうどそのタイミングで、目的地への到着が告げられる。
場所は、街の東側に面する門。そこには既に、ミラの指揮する精鋭たちが揃っていた。
「聖女様たちが到着なされました、敬礼!」
力強く響き渡るメーリュの声に、整列していた彼女たちは足を踏み鳴らして姿勢を正す。
下層のものたちもそれに倣うように動いてはいたが、そちらは形式的なものでしかなく、あまり敬意と言うものは感じられなかった。
元よりある確執に関してこの場で言っても仕方ない事は分かっていたため、ミラもそれを口に出す事はなかったが。
軽くミラが手を上げれば、全員が敬礼を解く。静まり返った戦士たちを前に、ミラは力強く声を上げる。
「連絡は受けていると思うけど、先ほど《奈落の渦》から忌まわしき魔物共が溢れ出したとの伝達が入ったわ。これよりおよそ20分後、このクレーテに襲来すると思われる」
知ってはいたのであろうが、ミラの言葉に対し、総員に緊張が走る。
当然だろう、まさか到着した初日に戦う事になるなど、誰が予測しただろうか。
現れる間隔が短すぎる――それは、全員が思った事だろう。
けれど、敵が来ている以上、文句を言っていても仕方ない。今はそれよりも、戦う事を優先しなくては。
彼らの間でその認識に関しては、上層下層関係なく、共通のものとなっていた。
――だがそんな覚悟も、ミラが発した言葉の前には動揺せざるを得なかった。
「数はおよそ3000……正直なところ、予想以上としか言いようがないわ」
その言葉に、周囲がざわつく。
この早すぎるタイミングで、予想以上の数。
始まりの《渦》、都市全体が崩落したコーカサスの《渦》には及ばないものの、それでも十分すぎる数を備えた軍勢。
それを相手に勝てるのか――そんな不安が、動揺となって現れ始める。
けれど――
「けれど、五分……それだけの間、戦線を維持しなさい。それだけあれば、十分にひっくり返せる」
「ケ、ケラウノス様……まさか」
「そう、私は『ケラウノス』よ? 有象無象の軍勢など、天より放たれる雷霆の前には塵に等しいと知りなさい」
折れず、揺らがず、ただ力強くそこに在る立ち姿。
それだけで周囲の空気が変わるほどに、ミラの持つ誇りと力は確かなものであった。
恐怖に心を圧されるような雰囲気は一瞬のうちに払拭され、勝利への希望が人々の間に湧き上がる。
けれど、それだけでは表情が晴れない人々も、少なからず存在した。
それらは例外なく、下層の出であり、オリュークスに雇われた傭兵の面々であった。
彼らは皆、上層の人間たちが、自分たちを捨て駒にすると考えているのだ。
(まあ、無理もないでしょうけれど)
片目を開きつつその様子を観察し、リーゼファラスは気付かれぬ程度に小さく肩を竦める。
彼らは、いくつもの戦場を渡り歩き、そして生き延びる事に成功してきた面々だ。
そんな彼らだからこそ、戦いの場における下層の人間の扱いは熟知している。
上層の人間たちにとって、自分たちなど替えの利く捨て駒でしかないと、そう考えているのだ。
――けれど、ミラはそれを善しとしない。
「戦闘は前衛と後衛に分かれて行うわ。前衛は教会の部隊から接近戦に秀でた者を。残る面々は後衛からの火砲支援を行ってもらう」
『な……!?』
その驚愕の声は、上層下層分け隔てなく、全ての人々から響き渡った。
それも無理はないだろう。ミラの放った言葉は、この国における常識を根底から覆すようなものだったのだから。
そんなざわめきの中、一人の声が響き渡る。
「お、お待ちくださいケラウノス様! 何故そのような事を! 前衛など、傭兵共を配置すればよいでしょう!」
「メーリュ。今の彼らは魔力銃を装備しているのよ、分かっているのかしら?」
「契約の力を持たぬ弱者の武器でしょう! そんな物も無ければ役に立たないのですから、せめて前に出て戦うのは当然です!」
「そう、弱者の武器ね。なら、強者である我々が前に出て戦うのは当然の事でしょう」
僅かな含みすらなく言い放たれた言葉にメーリュは――否、その場にいた全ての者たちが言葉を失う。
当然のように認識しながら誰も行ってこなかった事を、ミラは真っ直ぐと口にしているのだ。
「そも、遠距離用の武器だと分かっているのに、何故敵の目の前に立たせるのかしら。その時点で私には理解できないのだけれど」
「で、ですが……」
「まあ、そんな常識の部分はこの際いいでしょう。私が言っているのは、力を持つ者としての義務よ。力在る者が力無き者を護り、力無き者が力在る者を支える。だからこそ、私は貴方たち全員を護る。その為ならば、私は力を惜しまない」
圧倒される。上層も、下層も、全員が。
上層の人間たちの中には、反発を持つ者も少なくはなかっただろう。
けれどそんな彼らも言葉を挟めないほどに、ミラの言葉は気高く、そして触れ難いものだったのだ。
「力無い下層の者たちを前に出して戦う事と、力在る貴方たちが前に出て戦う事。果たしてどちらが、犠牲が少なく済むのかしら? 貴方たちはそれほどまでに弱いと? 枢機卿の方々が選んだ貴方たちは、下層の者を楯にして戦う臆病者だったとでも言うのかッ!」
それ故に、放たれる魔力と覇気に、言葉を返せるものなどただ一人として存在しない。
意見を持つ者はいただろう。下層の者たちを、人間ですらないと認識する者もいるかもしれない。
けれど、生半可な覚悟で彼女の誇りを汚せばどうなるか――それが分からぬ愚か者は、この場には存在しなかった。
沈黙した彼女たちの様子に、リーゼファラスは隠れてくつくつと笑みを浮かべる。
契約者を好かない彼女にとって、この光景は非常に愉快なものだったのだ。
反論を返せぬ契約者たちから視線を外し、ミラは周囲をぐるりと見渡す。
それだけで、周囲は沈黙に包まれた。小さく嘆息を零し、彼女は続ける。
「時間がない、これ以上無駄な問答を続ける気はないわ。互いの事を信用しろとも言わない。けれど、己の仕事すら果たさぬ愚か者は認めないわ。とにかく、下層の者たちを後方へ配置して布陣を――」
「ちょっと待って欲しい」
と、そこに声が響く。
話す者がいなかったからだろう、普通の声音ながら大きく響き渡ったそれによって、周囲の視線は一斉にその方向へと向けられた。
下層の者達が並ぶ最前列近く――そこに立っていた、少年へと。
そんな彼の瞳の中に在る強い感情と魔力に、ミラは思わず目を見開いていた。
「貴方は?」
「僕は下層の人間だ。けど、貴方の言葉には従えない」
「……何故かしら?」
僅かに硬いものが混じるミラの声音。彼女自身の力も相まって、その圧力は周囲の人間が圧倒されるほどのものへと変じていた。
けれど、それを真っ向から受け止め、一歩も引く事無く少年――ウルカは声を上げる。
「確かに、僕らは力を持たぬ人間が多い。上層から見れば、確かに弱者に見えるだろうさ。けど……『下層だから』なんて理由は、僕は認めない。端から端まで決め付けるな」
「後ろで戦う事が不満だと?」
「ああ、不満だよ。分からないかな……『下層だから弱者』? その言葉自体が、僕らを見下しているだろう!」
彼より放たれる意志の力は、ミラのそれに勝るとも劣らない。
それほどまでに強い言葉は、彼がミラと同じく、己に対して誇りを抱いているからこそ発する事ができるものだった。
そんな彼の強い言葉に、ミラは息を飲む。
「助けて貰う必要がある人はいる。貴方が強者なら、弱者は確かに存在する! けど、そんなものは上層も下層も関係ないだろう! そんな風に考えて言った言葉なら、僕は従わない。それに――」
言い放ち、ウルカは手を掲げる。
その手の中に集うのは、先ほどのように無作為に放たれていたのとは異なる、密度の高い魔力。
そしてそれは一気に収束し――ある、一つの形を成した。
現れたのは、炎を纏う一振りの剣。長い柄を持つそれは――上位神霊との、契約の証。
「――僕も、力在る人間だ。貴方たちに護られるぐらいなら、僕がこの手で皆を護る」
「それは『ヴァルカンの剣』……!? 貴方、上位神霊の――」
「とまあ、この坊主はこう言ってるんでな。俺も前に出させて貰うぜ、お嬢さんよ」
そしてウルカの言葉に同調するかのように、黒衣の男が声を上げる。
現れたその姿に、ミラの後ろで様子を見つめていたリーゼファラスは笑みを浮かべていた。
この濃密な魔力の満ちる空間で、彼は一瞬たりとも臆する事無く、飄々と声を上げる。
「悪いが、後ろに立って銃を撃ってるだけなんてのは性に合わん。これでも結構な数戦場を渡り歩いてるんでな、戦慣れしてないお嬢さん方よりは戦えると思うぜ?」
「テメェと比べちゃ可哀想だろうがよ、カイン。っと、こっちはガンツ傭兵隊の隊長、ガンツだ。俺の魔力銃も接近戦向けなんでな、前に出させて貰うぜ」
「同じく、副隊長のソフィーアよ。この人を一人で前に出させる訳にはいかないから、私も付いて行くわ」
「貴様ら、ケラウノス様のご好意を――」
「いいわ、メーリュ」
次々と現れる下層の面々の言葉にメーリュは激昂しそうになるが、その言葉をミラが抑えた。
彼女は目を閉じて深く息を吐くと、僅かに時間を置いて、真っ直ぐに彼らの方を見据える。
「……謝罪しましょう、貴方が言う事は正しいわ、神霊ヴァルカンの契約者。そして、貴方たちが力在る者であると自負するならば……戦線に加わって欲しい」
ウルカの指摘は己の非であると――ミラはそう真っ直ぐに受け止め、謝罪の言葉を口にする。
それに対して、何よりも驚いた表情を見せたのは、最初に言葉を発したウルカであった。
その姿勢が、彼のイメージする上層の人間とはあまりにもかけ離れていたためでもあるが……何よりも、その言葉の意味に気付いていたからだ。
直接口にする事は無かったが、ミラはその言外に、力在る下層の人間として力無き上層の人間を護って欲しいと――そう、言ったのだ。
「っ……分かった」
誇り高く、けれど過ちだと認識したものは素直に認める。
そんなミラの姿勢に、ウルカの上層に対する敵意が、僅かながらに揺らぐ。
けれどそんな心中が表面化するより早く、ミラが踵を返していた。
「さあ、布陣しなさい。時間はもう無いわ……急いで!」
彼女の発した言葉と共に、その場にいた者達が一斉に動き出す。
戦を前にした空気――けれどここには、これ以外の戦場にはなかった、新しい風が確かに存在していた。