55:永劫の躯
「なに、よ、これ」
掠れた声が、静まり返った神殿の内部に響き渡る。
今や、あらゆる物がその動きを止めていたのだ。リーゼファラスを除き、殆どの存在が指先一つ動かせぬほどに。
あのアウルですら、僅かに息を飲んで動きを鈍らせているのだ。魔物達は元より、ミラやウルカですら、動く事など叶わない。
指一本でも動かせば、即座に殺される――そんな錯覚が、その場の全てを支配していたのだ。
――黒い刃の塊より放たれる、膨大な殺意によって。
「確かに……石化したのよ。確かに、斬ったのよ! なのに何で――」
茫然自失としたまま、エウリュアレは言葉をまくし立てる。
初めは呻くような声音であったものも、徐々に憤りの混じったものへと変化し始めていた。
目の前に立つ、漆黒の理不尽への怒りを隠す事無く、エウリュアレは叫ぶ。
「――何で、生きてるのよッ!?」
「く、はは……はははははははッ……また随分と面白い質問だな、そりゃ」
鼻から下までを再生させ、漆黒の靄によって構成された顔で嗤うカインは、その口元のみの嘲笑を浮かべて声を上げる。
「随分と不満そうな事を言ってやがる。お望み通り、俺を殺したじゃねぇか」
「生きてるじゃない! 石化した上で不死殺しに首を落とされて……それで何で生きてるのよ!?」
「だから言っただろう、殺されたってな」
切断された右腕も、首も――石化されたその断面を貫いて、漆黒の刃が体を構成してゆく。
漆黒の刃により編まれた体は、普段と変わらぬカインの姿を構成し始めていた。
理解していないのだ。エウリュアレは、カインという存在の性質を。
《永劫》と呼ばれる力によって形作られた、カインの力の本質を。
「死んでから、元通りになったんだよ。別に、死なないとは言ってないだろう」
「な……何よ、それ」
それこそが、カインの体を変質させている《永劫》の性質。
カインは一度死んだ際に、その死因を刃という形に変化させて己の内側に留めているのだ。
死因を抜き取られた体は、元通りに変化して何事もなかったかのように活動を再開する。
しかし、カインが一度死した事実は変わらないのだ。彼の死は、そのまま彼の内側に永劫留まり続ける。
故に、カインは滅びない。不死殺しも石化も、意味などないのだ。その力そのものが破壊されない限り、カインは永劫に復元され続けるのだから。
「さて……しかしまぁ、テメェも俺を完全には滅ぼせなかったって訳だ……なら、これで終わるとしよう」
カインは間違いなくエウリュアレの本気を引き出し、その上で復活したのだ。
これ以上の戦いには意味などない。故に――終焉の時が、来たのだ。
「邪眼の姉妹、《渦》の主が一つ、《将軍》――」
「ッ、ぁ、ああ……ッ!」
膨大なる殺意の塊を前に、エウリュアレは必死で剣を向ける。
だが、理解してしまっていた。己には、この死神を滅ぼす術などない事を。
けれど、戦わなくてはならない。刃を向けなければ、何も出来ずに終わってしまう。
「彷徨いし月、エウリュアレ」
「あああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
故に、エウリュアレは全力で叫び、己が魔力を解き放っていた。
彼女の意識を支配するものはただ一つ、“死”への恐怖だ。
目の前の死神を止めなければ、全てが終わってしまう。故にこそ、エウリュアレはその全魔力を開放し、カインへと斬りかかっていた。
強大なる不死殺しと石化の力が、黒衣の男を斬り裂いてゆく。
一つ一つが高位神霊契約者の霊的装甲を容易く貫き、致命傷を与えるであろうその力。
人の目では捉えられぬほどの速さと正確さを以って、力はカインの身体を破壊する。
――けれど。
「多くの“死”を喰らった者」
カインの言葉は、止まらない。
その身をいくら砕かれようと、その身を幾度死に追い込まれようと、黒き男は止まらない。
それは恐怖であっただろう。
例え、その感情の名を知らなかったとしても。
砕けた顔を再生させつつ、その紅月の瞳を揺らめかせて、黒き男は嘲笑する。
「だが、残念だ――お前は、俺の“死”に届かない」
じわりじわりと、黒衣の男は元の形を取り戻す。
黒い刃が絡み合い、黒き靄を覆い尽くし、人であった筈の形へと。
いつしか、カインの身体は元の姿を取り戻していた。
――右腕を、広げる。
――死にたいから。
――死にたくないから。
矛盾した二つの想いが、黒き男を歪めてゆく。
暗く、黒く、歪み、捩れ、軋む黒い刃が――
「故に退場しろ。お前はもう必要ない――さあ、閉幕だ!」
黒き男の右腕が――
絡み合う黒い刃が――
男より生み出されし漆黒が、全てを包み、歪めて、爆ぜる。
「“夜より生まれし黒の一片”」
ギチギチ、と。
無数の蟲が蠢くように、鋼と鋼が擦れる音が、響く。
「“鉄の心臓と青銅の心――亡者の王”」
全身より響く音は、男の黒衣を揺らし――そして、突き破る。
背中を裂いて伸びるのは、硬質な刃を連ねた骨のごとき翼。
「“陰惨なる夜の館に座する者”」
――そして、男の右腕が変貌する。
螺旋を描くように刃は解け――
黒き靄で出来た腕が――
刃の群れを掴み取り――
――解けた刃は、ひとつの形を、作り上げる。
絡み、軋み、全てを歪めて――無数の断末魔が、響き渡る。
その、内側より。
鈴を鳴らすような声音が、小さく響いた。
“回帰――”
「お前が俺を殺せぬならば」
死神、と――その姿を見た誰かが、そう呟く。
それは、命と魂を刈り取り持ち去るもの。
それは、夜の闇を纏いて蠢くもの。
それは、あらゆる命にとって最期の救いとなるもの。
――それは、“死”、そのもの――
弱い魂を持つものが目の当たりにすれば、それだけで絶命に至る“死”を纏った男は――
「お前の“死”は、俺が喰らう」
麗しき断末魔の悲鳴と共に――絡み合い形を成した大鎌を、その手に掴む。
“《永劫》――”
何処からか響く鈴の声音は、嘆くように、祝福するように。
黒き、刃が――
黒き、“死”が――
――咆哮を上げ、振り下ろされる。
「――《刻限告げる処刑人》」
「――――ッッ!!」
それは、万象を死滅させる死神の鎌――
逃げる事など叶わない。
時間も空間も、あらゆるものを抹殺して、死神の刃は不死殺しの刃を食い破る。
カインを殺すと豪語した素の力と刃を引き裂き、大鎌は浅葱色の少女へと叩き付けられる。
抹殺の刃に貫かれ、なおももがく彼女は、黒き魔力でカインの身を灰色に染めてゆく。
けれど、死なない。
「彼我の力量の差すら理解できなかった愚か者。己の認識のみを全てと思い込み、敵の力も考察せずに数の力と能力に頼った。何だそれは、殺す気があるのか? さあ見せてみろ! 足掻いて見せろ! “死”の運命すら変えてみせるとな!」
「ぃ、ゃ……お姉、さ――」
黒き“死”は、嘲笑う。
全身を斬り裂かれ、砕かれようと、集う刃がその身を復元する。
万物に等しく降り注ぐ理不尽は――あらゆる断末魔を飲み込んで、磨り潰す。
貫いた刃は内側から溢れ、浅葱色の少女を食い破ってゆく――
「はっ、ははは……!」
そして、その軋む音すらも全て喰らい尽くそうかと言うように――
「くははははははははははははははははははははははははは――――!」
カインは、漆黒の刃に包まれながら、主を失った空間に哄笑を響かせ続けていた。
* * * * *
「死からの、復元……?」
呆然とした声音が、リーゼファラスの耳に届く。
僅かながらにカインの方へと意識を向けていたリーゼファラスは、その声に改めて眼前の敵へと視線を戻していた。
ステンノ――レームノスを攻める《奈落の渦》の主が一つ。
その片割れを抹殺されて、それでも尚、彼女が気にしている事はカインの能力であった。
姉妹という肩書きの上で誕生してはいるが、彼女たちはあくまでも《将軍》であり、その価値観は魔物特有のものだ。
今、ステンノの意識を占めている事はただ一つ――カインという存在の性質を理解する事、ただそれだけだった。
「やれやれ」
対し、リーゼファラスは僅かに嘆息を零す。
やはり、この程度の相手ではカインの攻撃に耐える事は出来なかったのだ。
彼の持つ性質はある程度理解してはいるものの、彼自身の本質――その力を導き出した渇望までは、未だ知る事が出来ていない。
彼が何を想い、何を感じ、あの死神の大鎌を生み出したのか。
それが理解できない限り、彼がいずれ辿り着くであろう超越者の理を想像する事すら出来ないのだ。
あらゆる意味で不安定なカインの事は、出来る限り理解しておきたかったのだが――
「その程度にすら役に立たないのならば、仕方ないですね」
軽く息を吐き出し、リーゼファラスは前方へと視線を向ける。
背後ではアウルが、動けなくなったキュマイラを処理している。
理性ではなく本能の支配が強い獣型の魔物であるだけに、カインの殺気の影響を大きく受けてしまっているのだ。
無抵抗な相手を解体するだけではつまらないと、アウルはある程度加減をしながら戦っているが、それでも時間の問題であろう。
ともあれ、そちらは己が従者へと任せ、リーゼファラスは拳を握り込みながら眼前の敵へと踏み出した。
――そのたった一歩で、音の速さすら超越して。
「――滅びなさい」
突き出された拳は、目にも映らぬほどの速さでステンノへと向けて直進する。
その一撃は――目の前に現れた魔法陣に命中し、動きを止めていた。
「掛かった……滅びるのは貴方の方です! 砕け散りなさい!」
膨れ上がるのは石化の魔力。
回転する魔法陣は分裂し、リーゼファラスを包囲するように展開する。
それらの中心に集束する魔力は、全て石化の力を内包したものだ。
触れれば一瞬で石像と化し、死に至るであろう。しかし――
「――《拒絶》」
――リーゼファラスの二色の瞳が、強大な力を纏って輝く。
それは、世界を統べる《魔王》と同質の力。
数多ある欠片の中でも最上位に近い、あらゆる事象を捻じ曲げる能力。
その力は、回転する魔法陣たちを一瞬で霧散させていた。
「まだ、まだ……ッ!」
けれど、一瞬だけリーゼファラスの動きが止まった事に変わりはない。
その隙を逃さず、ステンノは瞬時に跳躍し、後方へと距離を開ける。
そしてそれと同時に、彼女の周囲には無数の魔力弾が形成され、リーゼファラスの速度を超えるだけの速さを以って発射される。
石化の魔力が篭った弾丸は、一撃を受ければ石化して砕け散る事となるだろう。
狙いも正確なそれらは、余す事無くリーゼファラスへと殺到し――
「邪魔です」
たった一言で、全て霧散して消え去っていた。
散り行く魔力の奥で輝くのは、蒼と銀の二色の瞳。
まるで断罪を告げるかのごときそれは爛々と輝き――僅かに、下を向いた。
「――ッ!?」
瞬間、強制的に体の動きを封じられ、ステンノは驚愕に目を見開く。
見れば、足元より生えてきた水晶が、彼女の足に絡みついてその動きを止めていたのだ。
ステンノは咄嗟にそれを砕こうとし――自らの瞳を間近で睨む、二色の瞳を目にした。
「あ――」
「では、さようなら」
そして――流星の如く放たれた拳は、ステンノの顔面に突き刺さっていた。