47:撒き餌
「貴方は本当に責任感が強いですね、ミラ」
「貴方が大雑把すぎるだけだと思うのだけど、リーゼ?」
《将軍》が存在すると思われる大規模な《奈落の渦》――それは、カルシュオから北東に向かった場所に存在していた。
レームノスはそれなりに大国であるため、あまり国の奥地に進んだ場所という訳ではない。
むしろ場所としては南寄りであり、国の要である首都からは離れている。
それはつまり、その《渦》がレームノスを狙っている訳ではない事を示していた。
若干気分が悪そうにハンカチで口元を押さえているミラは、余計に気分が悪くなりそうだと思考を打ち切り、大きく深呼吸をする。
「当然でしょう、こんな事をレームノスの人間に頼る訳には行かないし、国の方針としても私自身の誇りとしても、力のない者を巻き込むような事は出来ないわ」
「まあ確かに、今後のレームノスとの交渉を考えれば、やらないに越した事はありませんが」
「なら、それでいいでしょう……もういいかしら。正直、話してると気持ち悪いのよ……」
深く息を吐き出し、ミラは座席に身を沈める。
窓を開けて外の空気を流し込んではいるのだが、それでも僅かながらに改善する程度であり、この乗り物酔いが治まる気配は一切なかったのだ。
一行は今、件の《奈落の渦》へと向かって進んでいる。
それも、貸し出された乗り物である《エリクトニオス》に乗ってだ。
無論、それを運転しているのはカインであり、彼にはそもそも安全運転という概念そのものが存在しない。
結果として生み出されている荒々しい揺れは、ミラの三半規管を思う存分に揺さぶっていた。
時折発生する巨大な衝撃に、恨めしげな視線を運転席の方へを向けている彼女だったが、生憎と発案者である以上文句を言える立場ではない。
そんな彼女の姿に乾いた笑みを浮かべ、無理矢理話を逸らすように、ウルカがリーゼファラスへと向けて声を上げた。
「え、ええと、リーゼファラスさん」
「リーゼでいいですよ、ウルカ。貴方も仲間ですからね」
「あ、はい。えっと、リーゼさん。僕らが敵を呼び寄せられるっていうのは、本当でしょうか?」
ミラが提案し、リーゼファラスが可能であるとそれを肯定した、一つの案。
それは即ち、ミラとウルカが持つ魂の力を発散させ、敵を誘き寄せるというものであった。
どこか不安げな様子を見せるウルカに、リーゼファラスは小さく微笑んで肯定する。
「可能ですよ。元より、上位神霊に認められた貴方たちは強い魂を持っています。そんな貴方たちの存在は、奴らにとっては垂涎の的でしょうから」
「正直、複雑ですけど……えっと、それってリーゼさんでは出来ないんですか?」
「可能ではあります。元より、貴方達が使う魔力に対し、私達は魂の力を利用しているので、遥かに身近な力であるといえます」
リーゼファラスたちの力は、その魂の力を消費する事で発動している。
俗にプラーナとも呼ばれるそれは、《奈落の渦》の魔物たちにとっては、襲いかかるための一つの指標であるとも言えるのだ。
しかし――それは、全てではない。
「ただ、それは同じ事が出来るというだけで、同じ効果を及ぼせるという訳ではないのです」
「と言うと?」
「私たちの力は強力過ぎるのですよ。強い魂は奴らにとって格好の餌ではありますが、同時に高い力を持っている警戒すべき相手でもあります。あまりにも強すぎる魂の力を見せ付ければ、逆に警戒して襲ってこなくなってしまうでしょう」
「はぁ……なるほど」
一瞬自慢なのかとも考えたウルカだったが、リーゼファラスの表情は殆ど変化していない。
彼女にとっては、ただ事実を淡々と告げているに過ぎないのだ。
自らが力あるものであり、魔物たちを圧倒する強大な力を行使できる事を、当然の事と受け止めているのだ。
そんな彼女は、まるで変わらない様子のまま、ウルカの瞳から視線を離さずに声を上げた。
「それに、魂の力にはその者の性質がそのまま現れます。私たちで言えば、能力そのものの特性が」
「えっと……リーゼさんは《拒絶》、でしたっけ?」
「はい。僭越ながらも、偉大なる《魔王》様と同種の力をこの身に宿らさせていただいております」
その言葉と共に、リーゼファラスの表情は劇的に変化する。
ただ薄い微笑を浮かべていた表情から、陶酔したような満面の笑みへと。
そんなリーゼファラスの表情は、彼女が心の底から《魔王》と《女神》に心酔している事を示していた。
しかしながら、そこに突っ込むと話が長くなる事を理解していたウルカは、若干頬を引き攣らせつつも話を進める。
「えっと、つまりリーゼさんの場合は力が強すぎる上に、相手を拒絶するような性質があるから、今回の事には向かないと」
「はい、その通りです。慣れていない貴方たちにやらせるのは忍びないのですが、得手不得手がありますからね」
肩を竦めるリーゼファラスに、ウルカは頷く。
今回の作戦は、危険な敵と戦う上で必要となる事なのだ。
自分自身であの《将軍》の成りかけを仕留めたいという願望はあったものの、必要なのは何よりも《渦》を潰す事であると理解している。
自分の願望よりも優先すべき事柄に、僅かな残念さを感じながらも、ウルカは小さく息を吐き出して視線を上げていた。
「分かりました。ご教授、よろしくお願いします」
「別に、そこまで畏まる必要はありませんけどね……分かりました。ミラも、頑張って下さい」
「分かってるわよ……」
心底だるそうに口を開くミラの様子に、リーゼファラスは僅かに苦笑を零す。
本来ならばカインやアウルがやるべき仕事なのかもしれないが、アウルは力を攻撃に使う事に特化しすぎているために分散させる事には向かず、カインはその“死”の特性ゆえにリーゼファラス以上に不向きなのだ。
慣れないとしても、ミラとウルカが行う他ないのである。
「まあ、そう恐れる必要はありませんよ。貴方たちでも誘き寄せるには十分でしょう……と」
徐々に乗っている車が減速していく感覚に、リーゼファラスは視線を窓の外へと向ける。
にわかに漂ってくる魔物の気配は、この場所が既に《奈落の渦》の近くであることを物語っていた。
やがて完全に停車した車内から、待っていたと言わんばかりにミラがさっさと外へと向かって飛び出していく。
果たしてどこにそんな元気があったのかと胸中で問いかけつつ、リーゼファラスはウルカと共に小さく苦笑しながらその後に続いていた。
「ここは……元々は街道だったみたいですね」
「ええ、そのように報告を受けています。しかし……これでは、使えなくなっていても無理はないでしょうね」
そう口にしてリーゼファラスが視線を向けたのは、街道の脇に聳え立つ岩壁だった。
元々は切り立った崖のような場所だったのだろう。しかし、今はその様相を大きく変貌させてしまっている。
その頂上部分から、黒い闇が滝のように流れ落ちていたのだ。
しかし、それは水どころか物質ですらない。地面にぶつかった漆黒は、そのまま吸い込まれるように消えているのだから。
音すら発しないその流れには、まず間違いなく質量と呼べるものは存在していなかった。
「こんな《渦》の入り口もあるんですね……」
「形など、奴らにとってはさして意味を持たぬものでしょうからね。さて、カイン。さっさと降りてその乗り物から離れなさい」
「はいはい、どうするんだ?」
例え運転が乱暴であるといっても、この乗り物がなければこの場所に辿り着くまでに相当な時間がかかってしまう。
帰還の事も考えれば、《エリクトニオス》の保護は絶対に必要な事柄であった。
カインもそれを承知しており、リーゼファラスの言葉に頷きながら、彼女達の方へ近寄りつつ車のドアを閉める。
そんな彼がある程度距離を空けた事を確認すると、リーゼファラスはおもむろに、その爪先で地面を軽く叩いていた。
「《拒絶》――あらゆる不浄を寄せ付けるな」
――瞬間、《エリクトニオス》の足元にある地面が盛り上がる。
しかしそれは魔物達が現れる印ではなく、瞬時に発生した四本の水晶の柱によるものであった。
リーゼファラスの力によって発生した水晶は、《エリクトニオス》の四方を囲むだけでなく、その足元も透き通った結晶へと変質させていく。
さらに、柱と柱の間にも水晶で出来た壁が発生し、《エリクトニオス》の全面をその力で覆い尽くしていた。
「これは……お前の力か」
「ええ。不浄のモノは触れただけで砕け散るよう力を込めました。これで、その乗り物は安全でしょう」
「どうせなら運転を安全にして欲しいものだけどね……ふぅ、少し落ち着いたわ」
地面に座り込んで深呼吸していたミラが、そう呟きつつ立ち上がる。
誇り高い彼女がそのような姿を見せる事は珍しかったが、嘔吐する姿を見せるよりはマシだと精神を落ち着けていたのだ。
彼女はもう一度深呼吸すると、軽く土を払い、改めて仲間達の方へと向き直る。
「さて、無様な姿を見せて申し訳ないわね。改めて、今回の作戦を話すわ」
そのような事は気にしない面々ばかりだったが、ミラなりのこだわりである事は理解しているため、特に口を挟むような者はいない。
それに満足して頷き、ミラは続けて声を上げた。
「第一の目標は、黒い獣……恐らく《将軍》の成りかけと思われる魔物を駆逐する事よ。この成否によって、ここから更に進むか、一度撤退するかが決まるわ」
撤退する際に《エリクトニオス》に乗る事を考えると、出来ればそのまま進みたいという思いが脳裏をよぎり、ミラは僅かに顔を顰める。
しかしすぐに気を取り直すと、彼女はリーゼファラスの方へと向き直って声を上げた。
「私とウルカを餌として、その敵を誘き寄せる。けど私達は、その魂の力とやらの扱いを知らないから、リーゼに無理矢理引き出してもらう形になる」
「正直な所、その方法に危険が無い訳ではないので、あまり推奨したくはないのですが」
「仕方ないでしょう、やるしかないんだから……そういう事もあるから、私とウルカの動きは鈍くなるわ。敵の殲滅は貴方たちに任せる……お願いできるわね、カイン、アウル」
ミラの言葉に、カインとアウルは頷く。
リーゼファラスがミラとウルカについている以上、どうした所で初動は遅くなってしまうのだ。
けれど、リーゼファラスを除けば特に高い戦闘能力を持つ二人が警戒していれば、それほど問題はないだろう。
そんなミラの言葉を受け、カインとアウルは不敵に笑う。
「直接のお願いとはね。ま、一匹も近寄らせないから安心しろよ」
「承りました。指一本触れさせませんので、ご安心を」
「私の力で覆っておけば楽なんですが、そうすると魂の力も外に出せなくなってしまいますからね……任せましたよ、二人共」
リーゼファラスの言葉に頷き、カインとアウルは共に武器を抜き放って《渦》の入り口へと視線を向ける。
未だ不気味な沈黙を保っているその中へ、一切の油断なく構えながら。
そんな二人の姿を確認し、リーゼファラスは改めてミラたちへと声をかけた。
「さて、それでは始めましょう。あまりゆっくりしていても仕方ないですからね。さあ、ここに並んで下さい」
「は、はい」
「……分かったわ」
カインとアウルが警戒する中、ミラとウルカはリーゼファラスの前に並ぶ。
そしてリーゼファラスは二人の背後に回りこむと、その背中へと両手を当て、ゆっくりと意識を集中させた。
「では、これから二人の魂の力を引き出します。奇妙な感覚や倦怠感が発生すると思いますが、我慢して下さい」
緊張を隠せぬ様子のまま、二人はリーゼファラスの言葉に小さく頷く。
それを確認し――リーゼファラスは、ゆっくりとその掌に己の力を集中させ始めた。
「んっ!」
「く、ぅ……!?」
瞬間、感じた感覚に、ミラとウルカは思わず呻き声を上げていた。
背中から入り込んだ何かが、己の内側をゆっくりと探っている――どこか不快な感覚に、突如として襲われたためだ。
体の内側を撫でられているような奇妙な感覚に、しかし身じろぎする事も出来ずに二人は耐える。
そしてその感覚は、やがて胃の上辺りに集中すると、そこからゆっくりと体外へ向けて放出され始めた。
「う……本当に、魔力とも違うのね……」
「何だか、いつもと感じが……」
「貴方たちは魔力の扱いには慣れていても、この力には触れた事もなかったでしょうからね。仕方のない事です。しかし、本をただせば神霊が操る力でもある……操れるようになれば、己が力を高める事も可能でしょう」
魂の力は、後天的に伸ばす事は出来ない天賦の才だ。
しかし、ミラやウルカも、その才能は高いとは言わないまでも十分なほどに有している。
この程度の力の放出であれば危険は無く、さらに神霊の力を操る上で助けとなるだろう。
湧き上がった力は空中に分散し、《渦》の入り口周辺へと飛散していく。
それを感覚的に感じ取りながら、カインとアウルはその武器を構えていた。
言われたからではない。既に二人は感じ取っていたのだ。
――《渦》の向こう側で蠢く、無数の気配に。
「こりゃ、久しぶりに盛大な戦いになりそうだ」
「そうですね……私も、少し本気を見せる事にします」
カインは銃とファルクスを、アウルは両手のナイフを。
二人は、その先端にまで己の力を充足させていく。
そんな中、アウルは他には聞こえないほど小さく、カインに対して声を上げていた。
「見ていてください、力の使い方」
「あん?」
「貴方も、きっと出来るはずですから」
ちらりと横を向いて、アウルは小さく笑う。
己の中にある力へ、己の魂へ、己自身の理の一部を囁きながら。
「回帰――」
それは、形を成した一つの魂。
己自身の全てを肯定したものに訪れる、己自身の新たな姿。
「――《分断:肯定創出・刻剣解放》」
万物を斬り刻む魔剣は、この瞬間に解き放たれた。




