40:力ある者
――ヴァルカンの言葉に、ミラとウルカは息を飲む。
唐突に掛けられたその言葉の真意が分からず、困惑したという部分もある。
しかしそれ以上に、二人は唐突に変わったヴァルカンの気配に言葉を失っていたのだ。
先ほどまでの軽薄な気配は霞みのように消え去り、重く響く重低音のごとき気配が部屋の中を圧迫する。
そこに魔力が加われば、物理的な圧力となって周囲を蹂躙していただろう。そうなれば、カルシュオの代表はひとたまりも無く吹き飛ばされていたであろうが。
「どういう意味、でしょうか」
その圧力に耐えつつも、ミラは慣れた様子で疑問の声を返す。
元より、彼女の周囲には強大な力を持つジュピターやリーゼファラスが存在しているのだ。
ましてや、威圧という力において何よりも高いカインがいる。
彼の纏う“死”の力と、ついでにどこまでもでかい態度は、ミラの神経を常に鍛え続けていたのだ。
「どうもこうも、ようやく人類の反撃に移れそうだって話だよ」
「反撃……!?」
ヴァルカンの言葉に、ウルカは目を見開く。
《奈落の渦》との戦いにおいて、反撃などという言葉が現れる事は殆ど無い。
当然だろう。今まで人類は一方的に蹂躙されるばかりで、《奈落の渦》にダメージを与えられた事など一度も無い。
その唯一の例外がリーゼファラスの存在であっただろう。
しかしどちらにしろ、《奈落の渦》をいくら潰した所で魔物たちにとっては痛手とならず、無尽蔵に湧き出る物量も変わらない。
人類は徐々に押されていく状況を変えられなかったのだ。
「反撃、ですか……カインの事は、既に神域で話に上っていると?」
「当然だろう、発見したのはジュピターなんだからな」
「正確に言えば私ですが……まあ、それはいいでしょう。それで、彼を利用しようというわけですか」
「利害の一致って呼べよ。あの男も、それを望んでいる筈だろう」
くつくつと笑うヴァルカンに、リーゼファラスは僅かに目を細める。
神域は――上位神霊たちは、既にカインに目を付けている。
尤も、それを促したのはリーゼファラスなのだが。
カインの持つ力は、原型の段階でも非常に格の高いものである。それこそ、最上位に近いリーゼファラスの力にすら匹敵するほどだ。
その力を不完全な状態にもかかわらず操り、そして遥か格上のリーゼファラスに傷を負わせた。
ならば、その力が成長した時、どれほどの戦力になるのか――
「けれど、強い力の存在は、より強い力の呼び水となる。その筈ですよね? 彼が力を得る事に否はありませんが、より厄介な存在を生み出してしまう可能性があるのでは?」
「そりゃまあ、言われるまでもねぇ話だな……と言いたい所だが、そこの二人は知らんだろう」
聞き捨てなら無い言葉に耳を疑っていたミラとウルカは、唐突に向けられた注意にぴくりと肩を震わせる。
しかしそれでも、二人は気圧される事無く、ぴちりと姿勢を正していた。
あまりにも重要な話が多すぎるのだ。それを、聞かずにいられる筈が無い。
「お聞きしてもよろしいですか。反撃という話は、少しだけ分かります。カインが手に入れるべき力も、詳しくは知りませんが少しだけは」
「でも、それにあわせて更に強力なものが現れる……それは、どういう事なんですか?」
真っ直ぐと、不退転の意志を込めた二人の言葉。
そんな二人の姿に対し、ヴァルカンは薄っすらと笑みを浮かべていた。
《奈落の渦》以上の脅威など、単なる絶望に過ぎないはずだというのに。
それでも折れぬ二人の様に、ヴァルカンは純粋に喜びを覚えていたのだ。
故にこそ、ここでそれを隠す訳にはいかないと――そう確信して、声を上げる。
「いいかお前ら。まず前提として、この世には釣り合いが取れてないとならんという概念がある」
「釣り合い……?」
「簡単に言えば、俺達上位神霊の力の総力と、《奈落の渦》の力の総力は拮抗している」
その言葉に、二人はこれ以上ない衝撃を受けていた。
上層と下層という差こそあれど、二人はファルティオンの生まれなのだ。
神霊の力は非常に強いものであると言う意識が大前提にあり、上位神霊の力は何よりも高いものであると信じきっている。
しかしその上位神霊本人が言っている以上、疑う事など出来はしない。
《奈落の渦》は、それだけの力を持っているのだ。
「しかしそれでは、私達がいくら奴らを倒した所で、我々の力がある以上元通りになってしまうという事では――!」
「おっと、落ち着け落ち着け。ちょっと語弊があったな。正確な所を言えば、俺たちの力と、《奈落の渦》の元となっている力が釣り合ってるってだけだ」
「……? どういう事だか、よく分かりません」
ヴァルカンの言葉に、ウルカが首を傾げる。
視点が違う以上、上位神霊の話を人間が理解する事は難しい。
最初から、種として存在している領域が違うのだ。
しかし、その間に立つ者がたった一人だけ存在する。多少ずれてはいるものの、人間に理解のあるリーゼファラスは、軽く肩を竦めて声を上げた。
「上位神霊の力が正の力ならば、奴らの力は負の力。そして、負の力そのものは、我等に害をなす物ではありません」
「けれど現に、《奈落の渦》は私たちに害をもたらしているでしょう?」
「そう、つまり……負の力を、《奈落の渦》へと変換している者。それこそが、我らの倒すべき敵という事です」
言葉を失う。沈黙が流れる。ミラもウルカも、それに返答する事はできなかった。
想像を絶する――二人からしてみれば、その言葉こそが何よりも当てはまるものであっただろう。
今まで《奈落の渦》は、正体も知れずただ圧倒的な物量で襲い掛かってくる、いわば災害のような認識だったのだ。
しかしヴァルカンとリーゼファラスがもたらした情報は、確かな敵と、目標とも呼べる存在。
それを倒せば、この戦いは終わる。自分たちが倒すべき、真の敵の正体だったのだ。
「私が以前討ち逃した《将軍》。この私の全力ですら仕留め切れなかった存在……始まりである《奈落の渦》」
「……それが、あの魔物たちを生み出しているもの?」
「そのシステムを作り上げたもの、といった方が正確でしょう。その存在が運営するシステムを――つまりそれ自身を破壊する事が出来れば、《渦》を消し去る事ができる」
「ッ、ならば何故その情報を明かさなかったのよ!?」
「明かして、何になりましたか?」
冷徹な瞳で、リーゼファラスは問い返す。
その存在感に一瞬圧倒されるも、ミラはその圧力を振り払って声を上げた。
「明確な敵の存在があれば、奮起する事だってできたはずよ! 貴方だって、一人で挑んだから引き分けたのでしょう! 士気を高め、力を結集すれば――」
「その結果が、テッサリアとティーヴァですよ」
有無を言わさぬリーゼファラスの言葉に、ミラは絶句する。
コーカサスの滅亡からそれほど間を置かずに滅んだ二つの都市は、ファルティオンにとっては苦い敗北の記憶である。
しかし、リーゼファラスはそれを、まるで当然の事であるかのように口にしていた。
「端的に言いましょう。普通の人間がどれほど力を合わせた所で、あれを倒す事は叶わない。貴方たちの力では、掠り傷どころか微風すらも感じないでしょう」
「私たちの存在が、無駄だとでも言いたい訳……?」
「そうは言いません。私一人では都市の防衛は出来ませんし、貴方たちは非常に有効な戦力です。しかし、貴方達ではあれに傷一つ付けられない。私は英雄として祭り上げられる事を嫌い、事実私一人ではあれを仕留める事は不可能であり、そしてそれ以外ではどれほどの力も無力と化す」
個人の都合もある。リーゼファラスは――超越者という存在は、基本的にどこまでも自分勝手だ。
しかしそれを抜きにしたとしても、その状況は正に――
「それを絶望と呼ばず、何と呼べばよいのでしょうか」
「っ……」
《奈落の渦》の大量の魔物達は強力だ。
どれほど倒しても無尽蔵に湧き続け、圧倒的な物量で蹂躙する災厄。
けれどそれは、今まで人類が対抗する事が出来てきたものだ。
新たな兵器や、強力な上位神霊契約者など、力を持って対抗する事が出来るものだったのだ。
たとえ正体が知れなかったとしても、徐々に疲弊してゆくような状態であったとしても、人々は何とか安定した生活を送れていたのだ。
――けれど、真実はどうだろう。
「最高位の上位神霊契約者、ミラ・ロズィーア=ケラウノス。ジュピター様の力を振るう貴方ですら、最底辺の《将軍》に届かない。あれを塵芥の如く扱ったカインですら、最大の敵には遠く及ばない。
分かりますか、ミラ。敵の正体を知らせるという事は、今までそれに歯が立たなかった事実を知らせる事と同じです。そうでないなら、これまで黙っていた理由がないのですから」
「……悔しい、けど。私の力が足りない事は認めるわ。けれど、納得は出来ない。貴方の言う力を実感出来ていないせいかもしれないけど」
「はっはっは、そりゃまあ仕方ねぇだろ。お前さんら、まだ回帰しか見た事ない訳だしな」
罵声になりかけた言葉を飲み込み、ミラは若干沈んだ言葉と共に嘆息を吐き出す。
そんな彼女に対しヴァルカンは盛大に笑い声を上げながらそう返していた。
沈んだ空気にも、言葉を失った己の契約者にも、配慮をすると言う意識そのものが存在していない。
だがその言葉を無視する事も出来ず、ミラは視線を上げて彼の方へと向き直っていた。
「あの、カインの大鎌の事ですか?」
「ああ、それだ。あんな余技程度で驚いてるんだから、奴らの力を想像できなくても無理はないさ」
「よ、余技?」
やっと衝撃から立ち直ったウルカは、しかしその言葉に更に顔を引き攣らせる。
あの圧倒的な気配と力を誇る大鎌ですら、ヴァルカンはその程度であると言い放ったのだ。
しかし、その言葉を受けた上位神霊は、さも当然の事であると言いたげに肩を竦める。
「ま、いずれ見る事になるだろうから気にせんでいいさ。まあとにかく、お前らはそういう事情で、今までは勝ちようがない戦を続けていた訳だ」
「……事実その通りなのでしょうけれど、そうはっきり言われると複雑です」
「でも、今までって事は――」
「そう、俺たちは見出した。反撃の要となる力ある存在を」
その言葉に、皆の脳裏に浮かぶのは漆黒の男の姿だ。
今彼がこの場にいない事は、果たしてただの偶然であると言えるのか。
彼は未だ、己が戦いの中心に立っている事を知らないのだ。
「確かに、敵の総力も上がるだろう。だが、個体の力が上がる訳じゃない。故にこそ最上なのは、奴の目の前であのカインとやらを俺たちの領域まで引き上げる事だ」
「敵が力を扱う前に、私とカインで敵を討つ……その為にはテッサリアの奪還が大前提であり、同時にあの場所でカインの記憶を呼び覚ます。その為に、レームノスの協力は必要です」
そう、それこそが今回の目的。
レームノスに蔓延る敵を殲滅し、そして彼らの存在を味方に付ける。
いずれ向かうべきテッサリアの奪還へと向けた布石の一つ。ジュピターの采配は、そういった真意のもとに行われていたのだ。
それを読み取り、ミラは納得と共に目を閉じる。
結局の所、自分やウルカはこのメンバーに必要という訳ではない。けれど、ジュピターはその判断をした。
その理由は何なのか、それを考えていたのだ。
「……リーゼ」
「何でしょう、ミラ?」
「ジュピター様は、無駄な事はしていないのよね」
「それは何よりも、貴方が理解している事でしょう?」
「ええ、そうね。その通りだわ」
今はまだ、その真意を掴めない。
元より人とは違った視点を持っている以上、それを探る事は難しいのだ。
けれど、それでもミラは信じている。何よりも信奉すべき、己が主の存在を。
「……ええ、分かったわ。状況を理解した。つまるところ、これは絶対に失敗できないという事ね?」
「まあそれはいつでも同じようなものですが、事実その通りですね」
「なら、分かったわ。指示をして貰えるかしら、リーゼ。今回は流石に、経験不足の私が口を挟むべきではないでしょうね」
「貴方は真面目ですね、ミラ」
小さく、普段は表情に乏しいリーゼファラスが笑みを浮かべる。
対するミラの表情は、どこか苦笑じみたものであった。
「いいわよ、何でも。それで、私達は何をすべきかしら?」
「レームノスに恩を売る手は既にあの二人が行っています。これは、そこの代表さんも納得してくれた事ですし……私達はただ、倒すべき敵と戦う準備をすればいいだけですよ」
肩をすくめてそう口にし、リーゼファラスはちらりとヴァルカンのほうへ視線を向ける。
それを受けて、ラフな格好をした上位神霊は、改めて得意げな表情と共に声を上げた。
「《渦》の位置はもう少し国の内側に入った場所だ。直接乗り込むまでに少々距離があるが……その点は、お前らに色々と貸し出してやるよ」
くつくつと笑うその言葉。
それに対し、ウルカは嫌な予感を感じて、その視線を泳がせていたのだった。