03:住み分ける者たち
「ははははっ! あの聖女のねーちゃん、上層の奴にしちゃあ話が分かるじゃねぇか!」
「ああ、こんないい酒場は初めてだぜ!」
「盛り上がるのはいいが、あんまり騒ぐんじゃねぇぞ、テメェら。上層の奴らは何事もお上品に、だからな。こんな所で騒いで報酬を減らされたくはねぇだろ」
グラスを傾けながら、カインはぼんやりと背後の会話に耳を傾けていた。
クレーテの上層、その一角にある宿。本来ならば下層の人間が入り込む事など不可能なほど大きいその建物は、オリュークスからやってきた援軍を泊めるために開放されていた。
正確に言うならば、その中でも下層に属する傭兵たちがそこに滞在している。
「……また、妙な顔をしてるなぁ、坊主」
「まあ、少し。てっきり、安宿に押し込められると思ってましたから」
「俺もそれは考えていたがな。あの女……ケラウノスの称号持ちだったか、どうやら随分変わった性格らしい」
予想以上の好待遇だった為、同じ席に座るウルカの表情からは警戒の色が抜けていない。
本来ならば、下層の人間にこのような上等な宿を開放する事は殆ど無い。
神霊至上主義であるこの国では、上層の人間の大半は下層の者達を見下している。
そんな中において、あの聖女――ミラの態度は、様々な場所を渡り歩いたカインの目から見ても非常に変わったものであった。
「下層を贔屓してる訳じゃないな。アレはたぶん、上層と下層を平等に扱ってるつもりなんだろう」
「つもり、って言うのは?」
「どういう訳か、下層の方が若干待遇がいい。ま、理由が知らんがな」
カインの言葉に、ウルカは更に不可解そうに表情を歪め、首を傾げる。
ミラの態度が上層の人間として不可解ならば、彼の態度はあまりにも下層らしすぎると言える。
端的に言えば、上層に対する敵意が強すぎるのだ。だからこそ、ミラの態度を好意として受け取る事が出来ていない。
何かしらの裏があると、そう疑ってしまっているのだ。
(ま、あのお嬢さんはそんな腹芸が出来そうなタイプには見えなかったがな。むしろ――)
その後ろにいた、強大な力を持つ存在。
カインには、あの少女の姿をした化け物の方が、それを得意としているように感じられた。
片鱗程度しか感じ取る事は出来なかったが、彼女の持っていた力は聖女ミラ以上だとカインは確信している。
そして同時に、彼女もまた上層の人間としては不可解な態度を見せていた。
どちらかと言えば、彼女の方が不自然だっただろう。
(あの女、俺たちよりもむしろ上層の人間の方に敵意を持っていたな。あれも上層の人間じゃなかったのか?)
リーゼファラスと呼ばれていたあの少女。
凄まじい力を持つ、『最強の聖女』だと思われる存在。
あらゆる意味で不可解な彼女に対し、カインは強い興味を惹かれていた。
二人は奇しくも、互いに互いの事を意識していたのだ。
「あの、カインさん?」
「ん、ああ……済まんな、ちょっとボーっとしてたわ」
「お酒、飲みすぎてます?」
「いや、俺は酔った事はねぇ。お前は……まぁ、まだ早いわな」
「反論はしませんよ」
十代前半ほどのウルカでは、流石に酒を飲む事はできない。
現に今も、彼の前に並んでいるのは料理と、果実を絞ったジュースだった。
そんな彼の前でつまみと酒を手に、カインはくつくつと笑みを零す。
「んで、何か用か?」
「いえ……カインさん、傭兵をやっているんですよね?」
「まあ、似たようなモンだな」
見れば分かる事なので、単なる確認だろう。以前話した時にもそう語っている。
戦場に身を置く下層の人間は、戦い方と言うものを知っている傭兵か、上層の人間の奴隷かのどちらかだ。
前者であるカインの姿を見つめて、ウルカは首を傾げながら声を上げた。
「僕は神霊契約の力を使うから受け取りませんでしたけど、カインさんは配給された武器を受け取らなかったんですか?」
「ん? ああ、うちには専属のガンスミスがいるんでな、俺の武器は特別製なんだ」
「珍しいですね、下層で専属なんて」
「ま、訳ありなんでな」
その言葉を聞くと、ウルカは頷いてそれ以上の追求を止める。
下層に訳ありの人間なんてごまんといる。それこそ、理不尽と不幸が大安売りになっている場所なのだから。
いつ目の前の相手がこの世からいなくなるかも保障できない、だからこそ不必要に相手に踏み込む事はしない。
それは、下層に暮らす人間にとっての鉄則であると言えた。
けれど――
「あの……一つだけ、聞かせてもらえませんか?」
「あん?」
「貴方がどうして戦っているのか……それが、知りたいんです」
不可解な問いにカインは視線を上げる。
そんな彼の目線を、ウルカは一切逸らす事無く見つめていた。
これ以上なく真剣な様子に、カインは思わずグラスの中に嘆息を吐き出す。
応える義理は無く、同時に応えない理由も無い。どうしたものかと逡巡するその時間、ウルカは更に言葉を続けていた。
下層の流儀として、己の話を。
「知っての通り、僕は上層の人間が嫌いです。詳しくは……流石に話せませんが、あいつらのせいで僕の家族はずっと酷い目に遭ってきた。だからこそ、下層の人間である僕が上層の人間よりも優れた戦果を上げて、奴らを見返してやりたいと思ってます」
「……ふむ」
強い反骨心。それに関して、カインは特に言及する事は無かった。
ウルカのその思いは確かに他の下層の人間と比べて強いが、これと言って異常という話ではなかった。
言葉の上で、感情のままに『復讐』と言う単語が出てこなかっただけ、まだ理知的であっただろう。
尤も、その根本の部分がどうなっているのかまでは、カインにも掴む事は出来なかったが。
「まあ、お前の都合は分かったが。何でそんな事を聞きたがるんだ?」
「……色んな人に、聞いてはいるんです。何となく、僕の戦う理由が小さい気がしてしまって」
「成程、お前が下層で妙に有名なのはそのせいか」
「あ……あー、そっか」
本人にも自覚の無かった事だったのだろう、妙に納得した様子で頷くウルカに、カインは思わず苦笑を零していた。
くつくつとこぼれる笑みは、しかし嘲りが混ざったものではなく、純粋に愉快だからこそ生まれたものだ。
「いいんじゃないのか? 戦う理由なんて人それぞれだ」
「けど、こんなちっぽけな自尊心で……」
「それがきっかけなんだろう? お前自身が納得できていないなら、お前にとって拠り所としてしっくり来る理由じゃないのかもしれないが……初心ならそれはそれでいいじゃねえか」
柄にも無い事を口にしていると自覚しながらも、カインはそうやって言葉を連ねる。
大人びているとは言え、この少年はまだ若い。
確たる信念が形成されるには、まだまだ経験が不足してしまっているのだ。
だからこそ、今はまだそれでいいのだと、カインはそう言い放つ。
「お前自身が納得できる、そんな理由が欲しいなら……戦って、生き残れ。生きていれば、その内絶対に譲れないものが出てくるはずだろ」
本来なら、それが上層に対する恨みだったのだろう。
けれど、ミラの姿を、その在り方を見てしまった事で、ウルカの中の意識が揺らいでしまった。
元からある程度の疑問はあったのかもしれないが、その揺らぎが大きくなった原因は間違いなくあの聖女の存在だろう。
それで揺らぐ程度の意志ならば、確たる信念とは言い難い。
上層を恨みきれない理由がどこにあるのか、カインにはそんな事は分からないけれど。
「……結局、子供扱いですか」
「経験が浅いのは事実だろう。知りたきゃ、自分で見つけてみな」
その言葉にウルカは沈黙し、ちびちびとグラスの中のジュースを飲み始める。
そんな姿に苦笑し、グラスを傾けようとして――カインは、既に酒を飲み干してしまっていた事に気付いた。
再び苦笑を零し、グラスを置いて席を立つ。
「あ――」
「小僧、俺の目的はな」
最後に、一つだけ言葉を残して。
「――俺に相応しい死に場所を、見つける事だ」
* * * * *
――カインは、テッサリアと呼ばれる都市で生まれた。
ファルティオンの九大都市、中央にある聖都オリュークスから北東にある都市。
そこは、ファルティオンの中で最も上層と下層の差が激しい場所であった。
人の死体が転がり、疫病が蔓延し、上層との境は硬く高い門に隔てられている。
男は身包みを剥がされ、女は犯され、どちらにしろ殺される――そこは、さながら地獄だった。
あの狭い世界では、“死”すらも一つの救いであったのだ。
(あの位の年の頃は、まだあの地獄にいたんだったか)
外へ出て通りを歩きながらかつての己を思い起こし、カインは小さく嘆息する。
それは、己に対する嘲笑にも近いものであった。
無気力に生きていた自分に、緩慢に“死”という救いに縋ろうとしていた自分に。
それだから死ねなかったのだと、カインはそう胸中で自嘲する。
(ああ、“死”は神聖なものだ。惰性で受け入れていいものじゃない。今度の戦場は――)
『ケラウノス』、『最強の聖女』、そしてあの少年。
これ以上ないほどの役者が揃ったこの場所は、果たして相応しい死に場所であるのかどうか。
地獄から抜け出した今でもその影を追い続ける男は、己にとって『価値のある死』を求めていた。
人を救って死ぬのか、敵と相討って死ぬのか、強者との戦いの果てに死ぬのか。
どのような死が望ましいのかは、カイン自身にすら分からない。
けれど、彼女の死に様はあまりにも鮮烈に美しく――
「っ……」
突如として頭痛を感じ、カインは顔をしかめていた。
脳裏に浮かんでいた言葉は消え去り、何を考えていたのかも思い出せない。
戦いの果てに擦り切れた記憶の奥に何かが残っていたとして、今のカインではそれを思い起こす事など出来なかった。
「あー……」
壊れてきている。けれど、終わる事が出来ない。
それを自覚して、カインは再び苦笑を零す。
例えどれほど絶望しようとも、この男はどこまでも、“死”と言う事象に対して誠実だった。
だからこそ――己に接近する“死”に、何よりも敏感なのだ。
「――何の用だ、テメェ」
振り向き様、抜き放った刃を振るう。
瞬間、澄んだ音と、刃同士が噛み合う軋むような音が響いた。
驚くほどに近い場所、ここまで接近されなければ気付けなかった事に、カインは若干の驚きを覚える。
そこにいたのは、見覚えのある銀髪のメイドであった。
カインに対して突き立てようとしていた大型のナイフを受け止められながらも、彼女はにこやかに声を上げる。
「こんにちは、カイン様ですね。私は、リーゼファラス様に仕えるメイドのアウルと申します」
「そりゃどうも……で、一体なんだってこんな事をしてきた訳だ?」
ぎちぎちと噛み合う二つの刃は、その穏やかな会話には似つかわしくない殺気を秘めている。
けれどこのメイド――アウルは、それがごく自然な事であるかのように、刃を押し付けながらも声を上げる。
ここに武器がなければ、ごく一般的な立ち話であっただろう。
何かが乖離した違和感が、二人の間に存在していた。
「恥ずかしながら、我慢できなくなってしまって。摘み食いしようとしたことは、リーゼ様には内緒にしてくださいね」
「ああ?」
「貴方はリーゼ様のお気に入りです。リーゼ様と、そして私と同じように……“力”を持っている」
噛み合う刃に視線を落としながら呟くアウルに、カインは目を見開きながらも瞬時に蹴りを放っていた。
しかし、長い足から放たれたリーチのある回し蹴りを、彼女は一瞬で後退する事によって難なく回避する。
その身のこなしに、カインは瞬時に理解した。
――この少女の戦闘センスは、明らかに自分以上であると。
カインはコートを翻しながら魔力銃を抜き放ち、その銃口をアウルへと向ける。
強烈な威力を持つ銃ではあるが、狙いをつけて撃つ様な品ではない。
ここでばら撒けば周囲に死体の山が出来上がるであろうが、それでもカインには、この少女を仕留め切れる自信がなかった。
少なくとも、全力を出さない場合には。
「リーゼファラス……『最強の聖女』だったか。そんな女が、何故俺に興味を持つ?」
「先ほど申し上げましたとおりです。貴方も、心当たりがありますでしょう?」
「…………」
アウルの言葉に、カインは沈黙を返す。
“力”――先ほど彼女は、そう言っていたのだ。
そしてそれは、彼女の言うとおり、カインにも心当たりがあるものだった。
「……お前たちは、一体」
「それに関しましては、此度の戦場の後に。互いに有意義な話になる事、期待しています」
そう言い放つと、アウルは何事もなかったかのように踵を返し、その場を去っていった。
その背を見送り、カインはゆっくりと武器を下ろす。
周囲のざわめきすらも耳に入らず、じっとその背中を見つめ続ける。
「リーゼファラス、ね」
その小さな声には、僅かな期待が含まれていた。