26:最強の聖女
「ただいま戻りました、リーゼ様」
「ええ。お帰りなさい、アウル」
上層、正印教会大神殿の一角。
一般の者では入り込むことの出来ない、それどころか司教ですら足を踏み入れる事は不可能な、そんな場所。
リーゼファラスは、そんな区画の一室に居を構えていた。
元々住居として作られた場所ではないが、その辺りはジュピターと同じく、部屋を改装して住める状態へと変えている。
また、その隣の部屋は、アウルの使用する部屋として同じように改装されていた。
アウルが部屋の中に足を踏み入れた時、リーゼファラスは一冊の本を手にしていた。
リラックスした姿勢でソファに腰を下ろして本を読むその姿は、教会に噂されるような高貴な身には到底見えないだろう。
そんな様子を目にして、アウルは小さく笑みを浮かべる。
「また読んでいるのですか?」
「ええ。数少ない、女神様の記録ですからね」
紙は本来高価なものであったが、知識を司る上位神霊、メーティスによって安価な製紙法が伝えられてから、一気に手の出しやすい物へと変わっていた。
しかしながら、リーゼファラスが手にしているのはそうして生み出されたものではない。
その本は、ジュピターによってもたらされた、メーティスの本だったのだ。
金縁に茶色の表紙と言った装丁の、見た目からして高価な本。
存在のみがジュピターによって伝えられた、契約者の存在しない上位神霊たる《賢者》の作り上げた一冊。
「女神様と魔王様は、無限とも呼べるような時を歩み、我らをお救い下さった真なる神。その足跡を辿る事は――」
「――この世界を真に愛する事へと繋がる、ですよね。言われなくても、毎日聞かされてれば分かりますよ」
「ふふ、そうですか」
リーゼファラスは、いたって上機嫌だ。
全ての神霊を崇拝するという正印教会の中で、異端とも呼べるような――否、異端そのものと言える思考を持つ存在。
しかしながら、彼女に審問をかける事が出来る者も、彼女を断罪する事が出来る者も存在しない。
『最強の聖女』――大それた名だと言われることもあるが、その名は決して誇張ではない。
上位神霊へと至る資格を持つ者、そして既にその領域へと足を踏み入れているリーゼファラスは、ジュピターを除けば間違いないく最強と呼べる存在であった。
否、ジュピターが分け身として弱体化している以上、現状ではリーゼファラスのほうが高い力を持っていると言っても過言ではない。
それ故に全力を出す機会などまず存在しないリーゼファラスは、非常に穏やかな表情で本を捲っていた。
そんな主の様子を見つめ、アウルは小さく微笑みながら声を上げる。
「今日も、カイン様はいつも通りでしたよ」
「成程……シーフェ、でしたか。彼女の様子も?」
「はい。あ、でもカイン様の相変わらずさに関して、少しだけ意気投合する事が出来ました」
アウルの言葉は、どこか愉快そうに揺れる。
敬愛する主と話が出来る事は、彼女としても喜ばしい事だったのだ。
また、シーフェと意気投合する事が出来たという事実。それもまた、アウルにとっては好ましいもの。
その異常嗜好と身体能力さえ抜かせば、彼女はただの少女なのだ。
彼女の持つそんなアンバランスさを知覚して、リーゼファラスは小さく苦笑する。
「カインの力は、既に私と同一の領域まで届いてもおかしくはないものです」
「上位神霊……超越者の領域に、ですか」
「ええ。そうでなければ、私に傷を付ける事など不可能ですから」
大量の死が絡み合った死神の大鎌、それを迎え撃った己の拳を見下ろして、リーゼファラスは小さく笑みを浮かべる。
例えごく僅かな傷であったとしても、己を死に至らしめる事が可能であったあの攻撃。
その感触を思い出し、彼女は満足していたのだ。
彼には才能がある。人間として破綻した者のみが辿り着く事が出来る、その領域へと足を踏み入れる事が出来る才能が。
「それでありながら未だあの状態に留まっているのは、先日ジュピター様が仰ったとおりですね」
「二つの願いがある、ですか?」
「貴方も回帰を使えるのだから分かるでしょう、アウル。あの力を完全に操るには、己の願いと価値観を自覚しなくてはならない」
カインが《刻限告げる処刑人》と呼んでいたその力。
あの力は、欠片の力が持つ位階の一つ、回帰によるものに間違いないだろう。
その領域であり、力を自覚しない状態ながら《将軍》を圧倒した事には、リーゼファラスも驚嘆せざるを得なかったが。
「しかし、彼の願いは異常をきたしています。二つの矛盾する願いが、心の中に混在している」
「だからこそ、完璧に操れていない……ですか?」
「ええ、そういう事です。事情は違いますが、貴方も似たような思いかもしれませんね、アウル」
本から顔を上げたリーゼファラスの、二色の視線。
それを受け止めて、アウルは小さく苦笑を零していた。
『最強の聖女』の従者、並みの契約者どころか上位神霊契約者にも引けを取らない戦闘能力、彼女の存在もまた非常に特異なものだ。
リーゼファラスやカインと同じく、資格を持って拝謁へと臨んだ少女。
けれど、彼女は二人とは異なっている点があった。
「貴方のその想いでは、超越者になる事は出来ない」
「生まれつき抱いていた願望は、大きくはあるが鋭く強い物ではない。故にこそ、世界を捻じ曲げてまで己の願望を貫きたいと願う事ができない……」
「残念ですけど、ね」
アウルの異常性は生まれつきのものだ。
本能に、それも三大欲求に根ざしているものであるだけに、願いの大きさはかなりのものであるともいえる。
けれど、それは彼女にとって当たり前すぎる要素だったのだ。
リーゼファラスが抱いたそれのように、全てを壊してでも手に入れたいと願うほど強い物ではない。
故にこそ、アウルは超越者へ、上位神霊の領域へ足を踏み入れる事が出来ないのだ。
どれだけ強い思いを抱く事が出来るか――それが、上位神霊となる為の条件なのだから。
(カイン。黒衣の死神。死にたいという思いと、死にたくないという思いが混在した彼)
リーゼファラスは、彼の姿を思い浮かべる。
無数の死を纏った男の姿。彼の願いは、生まれつきのものではない。
必死に生きる中で自然と生まれた、強い思いだ。
故にこそ彼は、己と同じ領域にまで駆け上がる事が出来る――リーゼファラスは、そう確信していた。
周囲の者達は“死”に恐怖して気付く事はできなかっただろう。
カインが死神の刃を振るう時、彼の表情が泣きそうなほどに歪んでいた事に。
己を殺せなかった相手への哄笑の中、確かな失意が存在していた事に。
(私が、一人の男の事でこんなにも考える事になるなんて)
世は何が起こるか分からない、とリーゼファラスは苦笑する。
そう、だからこそ美しいのだ。女神と魔王が作り上げたこの世界は、こんなにも美しい。
そう思うが故に――世界を汚すモノ達が、許せないのだ。
あらゆる穢れを、あらゆる不浄を許しはしない。塵一つ残さず、痕跡すらも消し去る。
それこそが、リーゼファラスの抱いた渇望。
――この世はこんなにも美しいのだから、美しいもの以外は必要ない――
ここは女神の作り出した世界、あらゆる物が美しい。
だから、それらを破壊する穢れを許せないし、認められない。
神ならぬ者を崇拝する者たちも認めがたいが、それ以上に世界を破壊する《奈落の渦》が許せない。
(私は、女神の世界を浄化するモノ――)
己にそういった機能を課して、リーゼファラスは超越者となったのだ。
ただ一人の男に対して意識を集中させるなど、一度として無かった事なのである。
尤も、アウルに対しても同じ程度には意識を割いていたのではあるが。
「リーゼ様」
「何ですか、アウル」
ふと声が掛かり、リーゼファラスは一人きりの思考を中断する。
そうして顔を上げた彼女に、アウルは僅かに目を細めながら声を上げた。
「今更ではありますけど、いいのですか? 突然仲間を増やしてしまって」
「本当に今更ですね」
パタンと本を閉じ、リーゼファラスは苦笑する。
ジュピターの私兵として戦う事は、今までたった二人だけで行ってきた行為であった。
それが、突然三人も増えたのだ。今までほど身軽に動く事は出来なくなっただろうと、アウルは言外にそう口にしている。
元より、リーゼファラスに戦力的な不足など存在していないのだ。
たった一人きりであったとしても、十分以上に敵と戦う事が出来る。
「突然増えてしまって、かえって邪魔になるのではないですか?」
「まあ、カインはともかく、残る二人はまだ弱いですからね」
トップクラスの能力者に対してこのような台詞を吐けるのは間違いなくリーゼファラスぐらいであろうが、アウルはそれに対して特に口を出すような真似はしなかった。
実際の所、力が強かろうと彼らは未熟なのだから。
経験も実力も足りていないのは事実である以上、足手纏いになる事は確かであろう。
けれど、それでもジュピターはあの二人を推してきたのだ。その理由が分からないほど、リーゼファラスは愚鈍ではない。
「ジュピター様はあの三人を成長させたいのですよ」
「三人を、ですか。カイン様だけではなく?」
「それならばカインだけを入れればよい話でしょうからね」
秘密裏にそうする事も不可能ではなかったはずだ。
にもかかわらず今のような形にしたと言う事は、それは周囲に知られる事に意味があるという事だ。
「アウル、ジュピター様がカインを成長させようとしている事はわかりますね?」
「それは、はい。カイン様は欠片を持つ者です。あの方が成長すると言う事は、教会にとって非常に有用な事ですし」
超越者となる才能を持っているカインは、成長すればリーゼファラスやジュピターと匹敵するような存在となる可能性がある。
それは人類にとって非常に重要な要素であり、彼を成長させる事は今後必要不可欠となるのだ。
しかしながら、残る二人に成長の機会など必要なのか――そういった疑問を込めて、アウルは疑問符を浮かべる。
対するリーゼファラスは、どこか苦笑するような表情を浮かべていた。
「私はジュピター様の考えていらっしゃる事全てが分かるわけではありませんが……それでも、少しぐらい予測は出来ます。あの方は、あの二人を成長させたいのですよ。将来のために、ね」
「将来、ですか?」
「ええ。ジュピター様は恐らく、将来あの二人に国を任せるつもりなんでしょう」
次世代の運営。この国を任せるために、より多くの事を学ばせ、二人に国を任せられるようにしたいのだ。
故にこそジュピターはより若い少年少女を、しかも上層下層関係なく集めていたのだろう。
「あの方も、上層や下層と言った括りを下らないと感じていらっしゃいましたからね。いずれ、この国を動かしてゆく者たちに、世界と言うものを知って欲しかったのでしょう」
「ロズィーア様を加えたのは下層の者だけを加えるのは角が立つからなのではないかなーと思ってたんですが」
「まあ、それもあるでしょう。ジュピター様の私兵となれば、これ以上ないほどの特権階級であるといっても過言ではありませんから」
肩を竦めてそう口にするリーゼファラスに、アウルは小さく苦笑する。
まるで自分の事を棚に上げたようなその言葉に、思わず反応してしまっていたのだ。
リーゼファラスは、自ら自身に人気があるとは露ほども思っていない。
自分が今までどれだけの人間を救って来たか――そういった事に、全くと言っていいほど気にしていないのだ。
これはミラが苦労しそうであると嘆息し、アウルは顔を上げた。
「リーゼ様」
「ええ、よく知った気配が近付いてきますね」
近付いてくる魔力の気配に、リーゼファラスは口角を笑みに歪める。
仲の良い相手であるかと聞かれれば、首を傾げざるを得なかったが――それでも、リーゼファラスは彼女の事を気に入っていた。
鮮烈な輝き、閃光のごとき少女。この強い魂の持ち主が欠片を持っていたら、と幾度考えたであろうか。
俄かに感じる雷の気配に、リーゼファラスは視線を扉の方へと向ける。
そして、それとほぼ同時に扉がノックされていた。
『――リーゼファラス、いるかしら?』
「ええ。どうぞ、入ってきて下さい」
「お邪魔するわね」
扉を開き、きびきびとした態度で入ってきたのは、リーゼファラスの予想したとおりの相手であった。
ミラ・ロズィーア=ケラウノス――己が仲間として加えられたお気に入りの来訪に、リーゼファラスは表情を和らげる。
「部屋まで訪ねてくるとは、少々珍しいですね。何かありましたか?」
「ええ、ちょっとね……リーゼファラス、貴方、今日は予定は入っているかしら?」
「今日ですか?」
思わず首をかしげながら、リーゼファラスはアウルの方へと視線を向ける。
それを受けて小さく頷くと、アウルはリーゼファラスに代わって声を上げた。
「本日、特別な予定は特にありません。ロズィーア様、どうかなさいましたでしょうか?」
「ええ、ちょっと迷惑をかけてしまいそうなのだけど……うちの家に、招待されてくれないかしら?」
「……はい?」
そんなミラの言葉に対し、思わず素の声を上げてしまいながら、リーゼファラスはきょとんと大きく目を見開いていた。