17:下層の街並み
下層は、立地の条件もあるが、上層の数倍の広さを持っている。
一言で言ってしまえば、上層に住むものは『貴族』であり、下層に住むものは『平民』であるとも言えるのだ。
上層にある者たちの数が下層よりも少ないのは、ある意味では当然とも言える。
けれど、そんな暮らしに押し込められているにもかかわらず、下層が上層に対して反旗を翻すような事はない。
契約者と非契約者の間には、それだけ巨大な力の差が存在しているのだ。
「無論、搦め手を使えば私達を倒す事も出来るでしょうね。年がら年中契約行使している訳ではないのだから」
「暗殺とか、そういう事ですか?」
「ええ。前例が無い訳ではないからね」
下層の大通りを少し外れた場所にある、小さな広場。
その一角に立ちながら、ミラとウルカは世間話というには少々物騒な会話を交わしていた。
そんな事実に自ら戸惑いを覚えつつも、ウルカは続ける。
「僕にそんな事を話してもいいんですか? 僕は下層の人間ですけど」
「貴方だったら、並みの契約者なら搦め手なんて必要ないでしょう。それに、私は貴方と仲良くしたいと思っているわ」
「……本当に変わってますね、ミラさん」
困惑を隠せない表情で、ウルカはそう零す。
上層の人間の大半は、下層の人間を蔑視するか、或いは無関心であるかなのだ。
彼女の態度はその正反対であり、あまりにも特異な人間である事が伺える。
けれど、そんなウルカの視線などものともせずにミラは続けた。
「貴方、自分の立場を分かっていないのかしら?」
「はい? 僕、ですか?」
「下層の出身でありながら、上位神霊の契約者で、しかも男。今まで手を出されていなかったのが不思議なくらいでしょう」
どちらも貴重極まりない特徴だ。
上層からも下層からも、どちらの立場からしても狙われやすい。それは確かだろう。
「下層の側で言うなら、上層に反逆するための旗印に。上層の側で言うなら、その力を求める者や高い魔力を持つ血を己が一族に引き入れようとする者。まあ、上層は下層に対して無関心なのだから、今の今まで貴方の存在に気付いていなかったのかもしれないけれど」
どこか自重するように、ミラはそう口にする。
彼女が口にした言葉は、確かにありえなくもない話であった。
特に、下層の問題に至っては――
「上層に対する反逆って事なら、話を持ち掛けられた事はあります。名前は明かせませんけど」
「まあ、それに関しては構わないわ。けど、貴方はそんな連中に対しても仲間意識を抱くのかしら?」
「一応の義理立てです。彼らだって、単なる逆恨みだけで貴方たちを憎んでる訳じゃありませんから」
「……そうね。それに関しては否定できないわ」
己の非のように語るミラに、ウルカは再び困惑する。
彼の抱く上層のイメージに、彼女の態度はあまりにも合致しない。
だからこそ、ウルカは彼女の事を拒絶せず、様々な事を話してしまっているのだ。
もしもこれが彼女の話術であるというならば、ミラはとてつもないやり手であるという事だろう。
けれど、彼女にそのような意識などはない。彼女はただ純粋に、己が信念に従っているのみなのだ。
「けれど、貴方はそれに同調しなかったのかしら?」
「……僕は上層を見返してやりたいとは思ってますけど、貴方たちを殺してまで反逆しようなどとは思いません」
「成程……それでは、感謝しておくとしましょうか。私は、貴方とは戦いたくないのだし」
「本当に、変わってますね」
下層の人間を戦友と呼び、対等に扱うミラ。
『ケラウノス』の称号を持っている以上、その実力は上層の中でも屈指の筈だというのに。
やろうと思えば下層全域を滅ぼせるであろう彼女は、純粋にウルカという人間を見つめながら、微笑んでいる。
その目に、下層だから、男だからといったフィルターは一切かかっていない。
故にこそ――ウルカは、彼女に対して興味を持っていた。
「あの、一つだけ聞いてもいいですか?」
「何かしら?」
「これは色々な人に聞いている質問なんですけど……貴方は、何のために戦っているんでしょうか?」
かつてカインにも問いかけた質問を、今度はミラへと投げかける。
己の戦うべき理由を、ウルカはまだ見定める事が出来ていない。
だからこそ、様々な言葉を耳にして、己自身を見極めようとしているのだ。
「僕は、上層を見返してやりたいと思っています。だからこそ、強くなりたいし成果を上げたい。僕を、僕たちを認めて欲しいと、そう思っているから」
「……成程」
そして、そんなウルカの言葉に、ミラは笑うこともなく真剣にその瞳を見つめていた。
そのまま、しばし沈黙する――そして彼女は相好を崩すと、小さく微笑を浮かべて声を上げる。
「成程、まだ迷っているのね」
「……やっぱり、分かりますか?」
「ええ、一度行く末を定めている人間だとね。まるで昔の自分を見ているようなんだもの」
そう言って小さく息を吐き、ミラは苦笑を零していた。
迷う事などいくらでもある。ましてや、ウルカはまだ若いのだ。
己の行く末を定めるには、彼はまだ幼すぎた。
価値観を作り上げるに足りる経験を持っていないために、こうして悩んでいるのだ。
――ミラは、それを愚かだとは思わない。
「私は……力ある者として、力なき者を護りたい。その為にこの力を振るうと、私は私に……そしてジュピター様に誓っているわ」
「それが、貴方の……?」
「ええ。この誓いだけは決して違えない。だから私は、下層の者を蔑視しないわ……といっても、下層の者が端から端まで力なき者ではないと、貴方に教えられたけれど」
くすくすと、ミラは笑い声を零す。
あの時のウルカの言葉は、彼女にとって確かに価値あるものだったのだ。
下層だからといって弱者と決め付ける理由にはならない――それはあの時の言葉でも、此度の戦いの中でも、幾度となく実感した事であった。
故にこそ、ミラはウルカに一目置いているのだ。
「貴方の言う事は、確かに事実だったわ。まあ、カインというあの男に関しては、流石に例外中の例外だと思うけど」
「それは、まぁ……あはは、そうですね」
カインの姿を思い返し、ウルカは小さく苦笑を零す。
そしてそれは、彼がミラの前で初めてはっきりと見せた笑顔であり、彼女の事を認めた証明でもあった。
今までウルカがミラに対して隔意を覚えていたのは、その真意が分からないからこそ。
けれど今の話を耳にして、その瞳に嘘が無い事を感じ取って、ウルカはようやく彼女の真意を感じ取った。
彼女は純粋に、弱い者を護ろうとしていただけなのだ。
その強い意志と誇り高い在り方によって目立たなくなっているが――ミラは、とても優しい人物なのだろう。
それを理解して、ウルカは真っ直ぐと彼女の事を見上げる。
「……ありがとうございます、ミラさん」
「ええ、どういたしまして」
彼女は上層の人間であり、ウルカの意識が変わらない以上、完全に彼女を信用する事はできない。
けれど――その誇り高い在り方は認める事が出来るだろうと、ウルカはそう考えていた。
と――
「では、話も纏まったところで出発しましょうか」
「……あなた、いつからいたのかしら?」
「ついさっきですよ?」
――いつの間にか現れていたアウルの姿に、ミラは半眼を向けながら声を上げる。
やたらと目立つメイド姿のはずなのに、ここまで接近されていても声を掛けられるまで気付けなかった。
その事実に、彼女との実力差を感じ取ってミラは小さく嘆息する。
ウルカはアウルの戦闘技能を間近で見ていた為に驚きこそしなかったが、複雑な感情は隠せない様子であった。
しかしそんな二人の様子など露ほども気にせずに、アウルは陽気な声を上げる。
「下層に来たついでにちょっと歩き食いしていたら遅くなってしまいました。申し訳ありません」
「はぁ……一応リーゼファラスには報告しておくわよ」
「ぅ……了解いたしました」
常に不敵なアウルではあるが、やはりリーゼファラスだけは別格である。
しかしながら己に非があるのも事実であり、アウルは渋々頭を下げていた。
その様子に嘆息し、ミラは告げる。
「とにかく、案内して頂戴。カイン……あの男の所にね」
「畏まりました」
立ち振る舞いだけは一流のメイドは深々と礼をし――下層のさらに奥へと、足を踏み入れて行ったのだった。
* * * * *
下層は、奥に行けば行くほど細い道が続くようになる。
しかし人の姿が無いわけではなく、辺りにはそれなりに多くの人影を見つける事が出来た。
ただし、身なりのいいミラやアウルの姿に、何事かと様子を見ている人間が半分。
下卑た笑みと共によってこようとしてウルカの殺気に撃退される者が残る内の半分。
それでも寄って来てアウルに刃を突きつけられる者が最後のグループだ。
スリをしようと寄ってきた子供の手をさらりと躱しながら、ミラは嘆息交じりに肩を竦める。
「あの男、こんな場所に住んでいたのね」
「彼自身危険の塊のような人ですしね。表通りに住んでるよりはイメージ通りだと思いますけど」
「まあ、それもそうだけれど」
ウルカの言葉に、ミラは眉根を寄せつつも周囲を見渡す。
成程、確かに。この周辺ならば、カインが出歩いていたとしても違和感はないだろうと――そんな事を考えて見れは苦笑する。
何だかんだといいながらも、未知の塊であるこの場所は、ミラにとっては興味深いものであった。
尤も、弱い者が虐げられる場所である以上、あまり好まないのは事実であったが。
(まあ、弱い者ならばこんな場所まで入ってはこないという事かしらね)
子供すらも強かなこの場所。下層の最底辺とは言わないが、それでもかなり治安の悪いであろう場所に位置している区域。
そんな中でも、人々は日々を暮らしているのだ。彼らは彼らなりの暮らし方を見出している。
ならば、下手に手を出す理由にもならないのだろう――そう考え、ミラは小さく息を吐く。
そもそも、彼らの不満の声を聞こうにも、信用がない以上は無理な話なのだから。
「お二人とも、あそこがカイン様のご自宅ですよ」
「あ、僕は知ってます。あれ以来、時々戦い方を教えてもらってるので」
「あら、そうでしたか」
アウルが指差したのは、そんな下層の町並みの一角にある、何の変哲もない一軒の家屋であった。
他の家々と特に変わった様子もなく、あの強大な力を誇る男が住んでいると言われても、あまりピンとは来ないであろう。
事実、ミラも若干の困惑を覚えずにはいられなかった。
「ええと……本当にあそこなの?」
「はい。実力のある方ですが、荒稼ぎはしていないそうで」
「カインさん、やろうと思えばもっと豪華な暮らしが出来るはずなんですけどねぇ」
金に頓着しない変人――或いは狂人か。
何においても予想を裏切ってくれる相手に、ミラは小さく嘆息を零す。
ともあれ、いつまでもそれに驚いている訳にも行かないと、ミラはその家のほうへと向かってゆく。
しかし、アウルがそんな彼女の肩を掴んで押し留めていた。
「少々お待ちください、ミラ様」
「何、まだ何かあるの?」
「いえ、私が空けようと思っただけです。その方が危険が少なそうなので」
「危険?」
疑問符を浮かべるが、アウルはそれに答えず扉の方へと向かってゆく。
意識の空隙を付くようなその動きに出遅れ、ミラがその背を追いかけようとしたときには、彼女は既に扉を開いてしまっていた。
「ごめんくださーい」
「あ、ちょ――」
訳の分からない言葉を問いただそうと、ミラはアウルへと向けて手を伸ばす。
――その、次の瞬間。アウルの腕がナイフを握って霞むのと、巨大な銃声が響き渡るのはほぼ同時であった。
「な……っ!?」
「いきなり乱暴ですね、シーフェ様」
「うっさいのよ変態駄メイドが。うちに来んなって言ったでしょうが!」
その光景に、ミラとウルカは言葉を失う。
扉を吹き飛ばした銃声――それを放ったのは、店の中にいる茶髪の女性だった。
作業着のようなものを纏った彼女は、その手に大型の魔力銃を持ってアウルへと銃口を突きつけている。
その状況からは、アウルが放たれた銃弾を斬り裂いたという事が分かるだろう。
それ自身も信じられないが、まず何故いきなり撃たれなければならなかったのかと、ミラは硬直していた頭を再起動させる。
「ちょ、ちょっと!? どういうこと!?」
「あ、えっと、彼女はシーフェさんです。カインさんが雇ってる人だそうです。で、あの人――」
「だから、あたしのカインに近づくなって言ってるでしょうがこの変態! 後、あたしの銃を斬るな!」
「と言われましても、銃が壊れないと延々と撃って来ますし」
「なら近付くんじゃないわよ!」
銃を乱射するシーフェと、その弾丸を余す事無く斬り裂くアウル。
その異様な光景に言葉を失いながら、ミラは呆然とウルカの言葉に耳を傾けていた。
「で、カインさんに拾われたおかげか、あの人の事を大切に思ってるみたいで……」
「……それで、あのメイドの事を追い返そうと銃を?」
「はい。あの人、カインさんのガンスミスらしいです」
カインの持っていた異常な威力の銃を思い返し、ミラは納得して小さく頷く。
あの武器はここで作られていたのか、と。
カスタムされた魔力銃は非常に高価であり、下層の人間には中々手に入らないものであるため、彼がどうやってあの武器を手に入れていたのかも疑問の内の一つだったのだ。
「で、あのメイドは一体何を?」
「……カインさんが取られそうで嫌だ、とか?」
「あの男には果てしなく似合わないわね」
若干失礼な事を口にしつつも、弾が切れた所を見計らってミラもアウルの後に続く。
強力な威力を誇る魔力銃については若干気になりはしたものの、いつまでもそれを眺めている訳には行かないのだ。
「失礼、ここの主はご在宅かしら?」
「な……え、あ、新手!?」
「いや、私はあの男に対しては、男としての興味は持ってないわよ……」
思わず素で返しながら、ミラは吐き出しかけた嘆息を飲み込む。
ただ知り合いの事を呼びに来ただけだと言うのに、何故ここまで大騒ぎしなければならないのか、と。
ともあれ、これだけ騒いだのだ。もしもこの家にいるのであれば――
「ンだよ……真昼間から騒ぎやがって。静かに寝かせろってんだ」
――こうして姿を現すのも、時間の問題であろう。
家の奥から現れた黒い塊、あの日無慈悲な死を振りまいた死神の姿に、ミラは思わず息を飲む。
けれど、湧き上がった恐怖をすぐさま消し去って、彼女はこの黒き男へと向けて声をかけていた。
「こんにちは、カイン」
「あん? お前は……上層のお姫様が、こんな所に何の用だ?」
ミラの姿を認め、カインは口元に小さく笑みを浮かべる。
揶揄するようなその言葉に、しかしミラは必要以上の反応はせず――どこか恐怖を押し殺すように、淡々と声を上げた。
「貴方を招待しに来たわ、カイン。我が主たる上位神霊、ジュピター様が貴方の事を呼んでいる。貴方の力と、『拝謁』の事について」
「……へぇ」
興味深そうに、黒衣の男は視線を細める。
その瞳の中には――この場にはいない、かの『最強の聖女』の姿が映し出されていたのだった。