126:今、軋む世界へと
黒き腕が、カインの体を握り潰そうと振り下ろされる。
いや、あれは蛇の顎だろうか。大きく広げられたその漆黒の物体が狙うのは、ひたすらに空間を駆けるカインだ。
距離を殺し、空間を殺し、あるいは襲い掛かる黒き腕を殺し――それでもなお、カインは前へと進む。
己の不死性は理解している。並大抵の攻撃を受けたところで、己が滅びるなどとはカインも考えていない。
けれど、この攻撃は別格だ。再生できないことはないだろうが、ダメージは確実に蓄積する。
それは即ち、魂への――そして、展開しているこの超越の世界へのダメージに他ならない。
今現在カインたちの周囲に広がるこの世界は、カインたちそのものであると言っても過言ではないのだ。
超越はその使い手である超越者の本体。この世界を完全に破壊された時こそが、彼らの滅びる瞬間なのだから。
(だって言うのに、こいつは――!)
どれほどの攻撃を叩き込み、どれほどの“死”をその身に押し付けただろうか。
加速する感覚の中では、戦いも、攻撃の密度も、それまでとは段違いなほどだ。
数え切れないほどの戦場を渡り歩いてきたカインからしても、『激しい』としか形容の出来ない戦い。
初めて自らの命を、魂を削る感覚を覚えながら、それでも。
(こいつの世界の、果てが見えない……ッ)
どれほどアルベールの力を破壊し、そしてアルベール自身とその世界へ攻撃を叩き込み続けている。
しかし、そうであるにもかかわらず、アルベールの力が減衰している様子がまるで感じられないのだ。
カインの世界とリーゼファラスの世界は、少しずつではあるものの、その規模を減少させていっている。
それも当然ではある。どのような形であれ、カインたちが使っている力も、プラーナと言う燃料を燃やすことによって得られているのだ。
普通の人間に比べて遥かに多いプラーナを持つ超越者といえど、その量には限りがある。
戦い続けていれば、疲弊するのは当然なのだ。
食らい付く漆黒の腕。百近くあるであろうその攻撃手段は、例え破壊したとしても新たなものが形成される。
その再生には力を消費しているはずなのだが、アルベールの薄い笑みは崩れない。
漆黒の腕を斬り払い、黒き刃の翼で宙を駆け、弾丸の炸裂で加速する。
世界よ砕けよとばかりに渾身の力を込めて放たれた一撃――極限の“死”が凝縮された大鎌はアルベールの体を容易く両断していた。
だが、その姿も一瞬の内に元へと戻る。薄い笑みを浮かべた滅びの姿は、変わらぬまま。
「分かっているだろう、カイン」
「何……!?」
囁くように告げてきた声。放たれた攻撃を大鎌で弾き返しながら、カインは呻く。
近い距離で嗤うアルベールは、その光を反射しない瞳をカインへと向けながら――どこか見透かしたように、その言葉を告げていた。
「どうすれば届くのかなんて、知っているんじゃないのかな?」
「ッ……テメェは、本当に」
「ああ、僕はそうしている。そうでもなきゃ、あんな大言壮語は出来ないさ」
その言葉と共に、再び放たれる漆黒の腕。
カインを囲い込み、押し潰そうとする攻撃は、幾重にも重なって殺到する。
舌打ちと共にそれを迎撃しようと構え――その前へと割り込んできたのは、黄金の輝きを纏う影だった。
戦姫の衣を身に纏い、その髪を僅かに発光させているリーゼファラスは、襲い掛かる無数の腕へと両腕を広げる。
その瞬間、発生したのは無数の水晶の盾であった。
殺到するアルベールの攻撃を次々と受け止める盾たちは、軋みを上げながらも揺るぎなくカインたちを護る。
「カインッ!」
「あいよ!」
そしてリーゼファラスの言葉に対し、カインは即座に応えていた。
跳躍と共に薙ぎ払われる巨大な大鎌は、強大なる“死”の力を周囲へと向けて吐き出す。
破壊に優れるカインの力は、殺到してきていた漆黒の腕の数々を、その一撃によって打ち砕いていた。
追撃がかかる前にすぐさま距離を開け、カインとリーゼファラスは構えなおす。
例え多くの腕を破壊したとしても、それすらもすぐさま復活してしまうのだ。
故に、今この瞬間すらも気を抜くことは出来ず、カインは自らの能力を利用してリーゼファラスと共に退避していたのだ。
自分たちが一瞬前までいた場所が押し潰される様を確認しつつ、カインは舌打ちと共に呟く。
「くそッ、あの再生力の大元を絶たない限りは同じことか」
「やはりあの《渦》の力でしょうけれども……完全に融合していますよ。切り離すことは困難です」
「分かってるよ……」
アルベールの絶大な力は、偏にカインたちと同じ超越者の力と同時に、《奈落の渦》の力をも有していることが原因だ。
魂を食らう性質を持つ《渦》の魔物たちからかき集めた魂を燃料に、その超越の力を操っている。
碌にプラーナを持たない雑魂であろうとも、数が揃えば巨大な力にもなりうる。
莫大な力を放ちながらもそこが見えない理由は、《奈落の渦》から魂の供給を得ているからに他ならないだろう。
超越者たちの戦いにおいて、力の総量は戦いを左右する大きな要因となる。
現状、総量で劣るカインたちは、不利な立場に立たされているといわざるを得ないだろう。
「リーゼ、率直に答えろ。他の方法は分かってるな?」
「……はい。私たちの力の総量を、底上げすること……ですが、それは」
「後には引けないってことだろ。分かってるよ、俺だってな」
肩に担いでいた大鎌を構えなおし、カインは小さく嘆息を零す。
戦意は衰えない。目の前にいる怨敵への殺意は、未だ一部たりとも減衰はしていない。
だが――方法がなければ、力が届かないこともまた事実なのだ。
力の総量で劣るならば、自らの力を底上げすればいい。カインも理解している。そして、その方法が無いわけではないことも分かっているのだ。
だが、当然ながら高いリスクも存在している。
――それを実行して己自身の狂気を保てる自身は、カインにもなかったのだ。
(力の規模が、桁が違う……それを成した時、奴を倒すための自我が存在しているのか?)
予想は出来ない。踏み込む先は、現状では理解することすらも不可能な領域なのだ。
例えアルベールを倒すことができたとしても、自分自身が全てを滅ぼす存在となってしまっては意味がない。
だが――カインがやらねばならないことも、また事実だ。
「他人を力の核としている私では、踏み出すことは出来ません……ですが、カイン」
「分かってる。分かってるさ」
武器を構え、カインは呟く。
リーゼファラスでは出来ない。否、実質的にいえば不可能ではないのだが、他者に寄り添うことで力を発揮するリーゼファラスでは、自らの意思で力を増すことが難しいのだ。
カインがやらなくてはならない。現状、それ以外の方法など見えていない。
そして――躊躇しているような暇も、アルベールが与えるはずもない。
「迷うかな? まあ、どちらでも構わないけどね」
「ち……ッ!」
降り注ぐ漆黒。まるで、天蓋を覆う巨人が腕を振り下ろしてきているかのように、無数の攻撃がカインたちを襲う。
防御することは不可能ではないが、足を止めてしまえばジリ貧になるだけだ。
例え防げたとしても、リーゼファラスの力は少しずつ削られてしまうのだから。
リーゼファラスを抱えたまま、カインは空間を殺し、駆ける。
捕まるわけにはいかない。そうすれば、一気に消耗してしまうことは間違いないのだ。
正面から襲い掛かってきた腕を切り払い、崩壊する腕を足場としてさらに跳躍し、カインは翼を羽ばたかせる。
迎撃し切れなかった攻撃をリーゼファラスが防ぎ、それらを潜り抜けるようにカインが駆け――地面の下で気配が盛り上がったことに気づいたのは、その次の瞬間だった。
「――――っ!」
超越の力によって変異しているはずの地面を易々と貫きながら、漆黒の腕はカインを握りつぶそうと盛り上がる。
対し、瞬時に反応したカインは翼を大きく羽ばたかせ、真上へと飛翔していた。
だが、腕は大きく伸び上がると共に、カインたちを包み込もうとその手を広げる。
リーゼファラスならば防御できるだろう。だが、カインは察知していた。
彼らの周囲で、多くの腕が攻撃をしようと待ち構えていたことを。
(捕まれば、集中攻撃を食らう……リーゼでも防ぎきれない、これは……!)
咄嗟に大鎌を振るうが、腕を破壊するにはそれなりの力を込めることが必要だ。
この一瞬だけでは、その迎撃に間に合わない。それを理解しながらもカインは武器を振るい――その瞬間、腕は炎と雷に包まれて灰燼と帰していた。
その事象に、そして何よりも、その力から感じた気配に、カインとリーゼファラスは目を見開く。
そしてその結果は、アルベールにとっても驚愕に値する内容であった。
「まさか、倒してしまったのか……思ってた以上だった、ってことかな」
周囲から殺到する腕を躱し、その場から退避しながら、カインはアルベールの呟きを耳にする。
そして、同時に理解していた。今の腕は、外にいた《将軍》であるメデューサと繋がっていたのだと。
更に――そのメデューサは、ウルカとミラによって討ち取られたのだと。
「く、はは」
小さく、笑みを零す。自分は一体、何をやっているのかと。
「カイン、今のは……!」
「ああ、分かってる。全く、我ながら女々しいもんだ」
背負うものが増えたためか、あるいはもっと他の理由か。
何が理由かなどはどうでもいいと、カインは胸中で吐き捨てる、
自分らしくない――踏み込むことを恐れるなど、自分の流儀に反するのだ。
それに――ここで踏み込まなければ、おそらくウルカとミラは死ぬだろう。
「あんなガキ共が、命捨ててまで体張ってんだ。だったら、俺が手を拱いている訳にもいかねぇだろ」
たとえ《将軍》を倒すことができたとしても、《渦》の魔物を駆逐することは叶わない。
《神威転身》を使い、力尽きてしまった二人では、ただの魔物ですら倒すことは難しいだろう。
アルベールを倒さなければ、そして《渦》を構成している力をあるべき形に戻さなければ、ウルカたちの運命は決まっているようなものだ。
「“死”は、全ての救いだ。だが、あいつらはまだ若い。“死”の安寧に身を委ねるには、まだまだ早すぎる」
だから、と。カインは呟き、視線を上げる。
漆黒の空間に立ち、薄い笑みと共にその視線を見つめ返しているアルベール。
変わらない。世界のためではなく、己のためにのみ戦うその意思は。
未来ある若人たちに、無意味な“死”を与えないために――
「いいぜ、やってやる。見ておけ、アルベール……これが、死神だ」
――カインは、その大鎌を『世界』へと突き立てていた。
自らの能力を深く、このウェーハスハールと言う世界そのものに接続する。
それは即ち、この世界に対して自分自身を同化させることに他ならない。
世界と密接に繋がり、己自身世界の一部に、あるいは世界そのものを己の一部にした超越者。
それは管理者と――この世界においては、上位神霊と呼ばれる存在に他ならない。
天空を統べるジュピターと同じように、世界に存在する概念の一部を己の支配下に置いた存在だ。
そして、カインの場合――司る概念は、“死”を置いて他にない。
「この、世界の……総ての“死”は、俺のものだ」
それは即ち、この世界の現在、過去、未来、総てに存在する“死”を吞み込むこと。
“死”は全ての生物に共通して存在する概念だ。いかなる生物であろうとも、“死”は必ず、平等に訪れる。
それが例え、無数の選択肢の果てに細分化した可能性の世界であろうとも、“死”と言う運命からは逃れられない。
故にカインは、現在と過去のみならず、未来に存在する“死”すらも呑み込むことが出来るのだ。
だが――
「ッ、ぐ……があああああああああああああああああああああああッ!!」
その規模は、その量は、カインがこれまで取り込んできた“死”の総量が霞んで見えるほどのものだ。
大鎌を伝わり、カインの体に、魂に流れ込む無限の“死”。まるで体を磨り潰されるような苦痛に、カインは思わず絶叫を上げていた。




