120:黒き恩寵
全身に、漆黒の衣を纏った少年。
その姿は、傍目から見ればカインと似通ったものにも思えるだろう。
だが、その本質はあまりにも異なっている。
カインのそれは、“死”という概念が持つ非常に強力な破壊の力だ。
人に本能的な恐怖心を抱かせ、それを全身に同化させている彼も、荒々しい気配を纏っている。
対する少年、アルベールは、ただひたすら『不気味』と言うべき印象を与える存在であった。
力の気配は確かに感じるにもかかわらず、どこか現実味を感じさせないその姿。
口元に浮かべられた薄ら笑いと光を反射しない深淵のごとき瞳。
カインとリーゼファラスの攻撃を片手ずつで受け止めたアルベールは、ただ薄い笑みで二人の姿を見つめる、
「ちっ」
「……この程度では効きませんか」
対するカインとリーゼファラスは、一度己の武器を消滅させると共に後方へと跳躍し、再び構える。
そんな二人に追撃を加えるような様子もなく、アルベールは上げていた手をゆっくりと下ろすだけに留めていた。
その姿は二人にとって余計に不気味なものであり、訝しげに眉根を寄せる。
だが、二人が声を上げるよりも先に、アルベールが告げていた。
「一応さぁ、この世界に必要だから存在してるものなんだし、そう邪険にしちゃ可哀想だよ」
「何だと?」
「きみも分かってると思うけど、これは俗に言う《奈落の渦》と呼ばれる力だね。今は僕が支配してるわけだ」
両腕を広げ、アルベールはそう告げる。
全身を包む漆黒の力、まるで呪詛のように黒い闇を漂わせる禍々しき波動。
確かに、それは魔物たちから感じるものと同じであるように感じられた。
アルベールが《奈落の渦》を支配していることは確定事項であり、それに関しては驚くほどのことでもなかったが――
「必要だってのはどういう意味だ?」
「《女神》の地を穢す物体が、必要……? 面白い戯言ですね」
「戯言も何も、事実だからねぇ。これは、きみたちの持つ力の対極に位置するものだよ。世界のバランスを保つためには、どうしても必要なものって訳さ……ま、意思を持っちゃった時点で欠陥品だけどね」
くすくすと、アルベールは薄い笑みのまま声を上げる。
そんな彼の様子に対し、カインは嘲笑と共に大鎌を構えていた。
アルベールのものとは異なる不敵な笑みと共に、彼は巨大な武器を向ける。
「その話が事実だろうが何だろうが、テメェを消すことに変わりはない。言ったのはそっちだぞ、この地で待っているとな」
「ああ、その通り。僕はきみ達を待っていた……来てくれて嬉しいよ、きみ達しかいないと思っていたんだ」
両腕を広げ、アルベールは嗤う。
その表情として浮かべられているものは笑みであるにもかかわらず、どこか平坦な印象しか受け取ることのできない姿。
アルベールと言う存在は、ひどく曖昧だった。
カインとリーゼファラスが感じ取っているものは、彼の魂に刻まれた欠片と、彼の取り込んだ《奈落の渦》の気配のみ。
目の前にいるはずの黒き少年自身の気配は、鋭敏な感知能力を持つ二人でさえ、目の前にしながらも感知が難しいものであった。
不審に思い、考察しながら――けれど、結論が変ることはない。
二人にとって、アルベールは最早、変ることのない仇敵なのだから。
「テメェは、敵を求めていたと?」
「いや、違う……ううん、当たらずとも遠からず、かな。カイン、輝かしき死神。僕が求めていたのは、僕自身さ」
「……どういう、意味ですか」
アルベールの本質に迫るであろうその言葉に、リーゼファラスは注意深く耳を傾ける。
超越した者の力は、その存在の願望と本質に影響を受ける。
何を望み、どのような願いの果てに人の領域を超えたのか――それこそが、この男を倒すためのヒントにもなるのだ。
相手の能力による影響を受けぬよう注意しながら、リーゼファラスは相手の真意を読み取るように視線を細めていた。
そんな彼女の姿も目に入っているだろうに、アルベールはまるで気にした様子もなく、薄ら笑いと共に声を上げる。
「僕は、僕の価値が欲しい。だから僕はこうしているのさ」
「価値、だと? なら、今ここにいるテメェの価値ってのは一体なんだって言うんだ」
「当然、そのままの意味さ――今の僕には、『世界の敵』という価値がある」
――僅かに、けれど確実に、アルベールの言葉に熱が篭る。
それこそが、彼の願い。彼の本質。彼が、人を超える為に己に定めた法。
その言葉を鵜呑みにするならば――彼はただ、己の価値を得るために、今この場に立っているのだ。
「《奈落の渦》の力は、きみ達の……そして僕も持っているこの力と、対を成すもの。バランスが大事なのさ。この力が消えてしまえば、世界は均衡を欠く。滅びへと、足を進めることになる」
「……まさか、テメェを滅ぼしたらその力まで消えるとでも言うんじゃねぇだろうな」
「まさか、それでは意味がない。言っただろう、僕は世界の敵としての価値が欲しいんだ。勝者すら消し去ってしまってしまっては、僕の価値にも意味がなくなってしまうだろう?」
アルベールは嗤う。薄く、薄く、けれど嬉しそうに。
敵であり、すべてを滅ぼす存在であることを、心底誇らしく宣言しながら。
「無論、ただで滅ぼされるつもりもない。もしもきみ達が僕に斃されてしまったのならば……この力を消し去り、この世界を消し去り、神域に在る者達へ僕の存在を刻みつけよう。そしてそれを、僕の価値とすることにするよ」
――世界にとって、そしてその果てにある者たちにとっての敵になろうと。
リーゼファラスは理解する。この少年は、上位神霊たちどころか、《魔王》にとっての敵にすらなろうとしていることを。
己の行く末など考えていない。全ては、己が行いを他の誰かに刻み付けると言うただ一つの目的だけを見据えて行動しているのだ。
彼は、どのような形であれ、最終的には滅び去るだろう。
最悪であろうとも、跡形もなく《魔王》によって焼き尽くされるだけだ。
けれど、それで構わないと――それこそが本望だと、アルベールは嗤う。
「僕は世界の敵だ。君たちがこの世界を望むならば――僕を滅ぼし、その手に掴み取ってくれ」
「……ああ、そうかよ」
舌打ちと共に、カインは吐き捨てる。
理解していたのだ。目の前にいる相手が、かつての己と同じであると。
“死”に価値を求め、己が迎えるべき終焉を夢想し続けていたあの頃と。
あのまま最果てへと行き着いた姿が今のアルベールであるとするならば、どれほど皮肉なことであろうか。
カインは笑う。まるで、鏡写しのごとく。
「変わらない。結局、変わることはない。世界の敵だの、価値だの、それはテメェの都合だけだ。テメェはただ無意味な“死”を振りまく存在であり、俺にとっちゃ他の理由など必要ない」
――けれど結局のところ、今のカインにはアルベールに対し共感を感じるような点などない。
かつてのカインならいざ知らず、無意味な“死”を振りまくことによって己の価値を証明しようとしているアルベールなど、決して許容すべきではない存在なのだ。
「かつての私であれば、己を理解しきれていなかった私であれば……ただ、世界を護る為に憤っていたでしょうね。けれど、今の私はこう答えます――アウルを奪った報い、受けて貰う」
そしてリーゼファラスも、アルベールに対しそう告げる。
他者の存在によって成り立つ理であるが故に、リーゼファラスは決してアルベールを許すことはできない。
《女神》の地を汚そうとする彼に対する怒りは、確かにある。
その目的の果てに《魔王》の手を煩わせることも、リーゼファラスにとっては認めがたいことだ。
けれど、それよりも先に――リーゼファラスの中には、己の従者を奪われた怒りが存在していた。
己を望んでくれた、己を受け入れてくれたあの少女はもういない。
一つの刃となって、リーゼファラスの魂の内に眠っている。
そんなリーゼファラスの怒りを感じ取り、アルベールは、どこか苦笑のような笑みを浮かべていた。
「まあ、そうだろうね。超越者は義憤などでは戦えない。どこまで行っても、自分の都合だけだ」
そしてそれと共に、アルベールの力が揺れる。
波濤のように、瀑布のように、押し寄せる力はあまりにも強大だ。
けれど、それを前にしたとしても、二人が揺らぐことは決してない。
力を滾らせ、魂を奮わせ、ただひたすらに唸りを上げる。
「さあ、始めようか僕の敵。僕の価値を、示してくれ」
「来るがいいさ、俺の敵。テメェの“死”は必要ない」
「終わらせましょう、私の敵。これ以上は奪わせない」
揺れる、揺れる、魂の波動。
それは全てを――今立っているこの世界すらも歪め、広がってゆく。
まるで互いを否定し合うように震え、せめぎ合いながら。
「 Ach Golgatha, unselges Golgatha!
ああゴルゴタよ、呪われし地よ!
Der Herr der Herrlichkeit muß schimpflich hier verderben,
栄光の王は嘲弄の果て、この地に堕ちて終焉へと向かう 」
「 nunc decet aut viridi nitidum caput impedire myrto,
今こそギンバイカの花で輝く髪を飾るに相応しく
nunc et in umbrosis Fauno decet immolare lucis,
今こそ影多き森のファウヌスに生贄を捧ぐ時 」
「 Gesegnet sei, du Reiner, durch das Reine!
主よ、どうか清らなる水で浄化の祝福を
So weiche jeder Schuld Bekümmernis von Dir!
いかなる罪も穢れすらも、 あなたの身より跡形も無く消え去るように 」
三つの言葉が、一斉に紡がれる。
それは、彼らの願いであり、彼らそのものを示す言葉であった。
世界を歪めるもう一つの世界。彼ら自身が生き、そして全てを捧げると決めた願いの顕現だ。
「 der Segen und das Heil der Welt wird als ein Fluch ans Kreuz gestellt.
世の祝福も救いも総て、呪いの言葉として磔刑にかけられるだろう。
Der Schopfer Himmels und der Erden soll Erd und Luft entzogen werden.
その果てに、天と地の創造者は、大地と大気を奪われるのだ 」
「 seu poscat agna sive malit haedo.
されど、彼の者が如何なる生贄を欲しようと
pallida Mors aequo pulsat pede pauperum tabernas regumque turris.
青ざめた“死”は、貧者の粗末な小屋も王者の聳え立つ城も等しき足で蹴り叩く 」
「 Mitleidvoll Duldender, heiltatvoll Wissender!
あなたは無限の辛苦を歩み、我らに救いをもたらした
Wie des Erlösten Leiden du gelitten,
あなたは我らを救うため、那由多もの苦悩を積み重ねた 」
アルベールの言葉は、呪わしき響きで世界を犯し。
カインの言葉は、冷厳なる調べで世界を律し。
リーゼファラスの言葉は、切なる願いで世界を包む。
彼らの言葉によどみはなく、同時に一切の躊躇いもない。
まるで誇るように、その理を宣言していた。
「 Die Unschuld mus hier schuldig sterben, das gehet meiner Seele nah;
無為な罪科、価値なき終焉。この魂を縛る呪わしき定め 」
「 o beate Sesti, vitae summa brevis spem nos vetat incohare longam;
おお、幸福なる者よ。短き生は、我らが長久なる希望を抱く事を禁じている
iam te premet nox fabulaeque Manes et domus exilis Plutonia;
やがて夜の闇と、言葉のみが残る死者の霊と、陰惨なる夜の館が汝を包み込むだろう 」
「 die letzte Last entnimm nun seinem Haupt!
故にこの身は、あなたに積る穢れを祓い清めよう
Das dankt dann alle Kreatur, was all da blüht und bald erstirbt,
御身に感謝と祝福を――生きとし生けるもの、そして死に逝く総ての者たちが 」
カインから溢れ出す黒き闇――それは、暖かさと冷たさを内包した終焉の夜。
そしてそれと競演するかのように、リーゼファラスからは黄昏の光が放たれ始める。
そして、そんな二人の輝きを塗り潰さんとするかのように――アルベールからは、完全なる虚無が溢れようとしていた。
「 ach Golgatha, unselges Golgatha!
この地こそが、我が呪いの総てである 」
「 quo simul mearis, nec regna vini sortiere talis nec tenerum Lycidan mirabere.
そこへ一度足を踏み入れたならば、あらゆる熱も快楽も、その姿を失うだろう 」
「 da die entsündigte Natur heut ihren Unschuldstag erwirbt ...
あなたへの祈りと共に浄化され、清廉なる日を迎えるのだから 」
――三人の理が完成する。
己の道を貫くために。己が敵の道を打ち砕くために。
ただひたすら、己の願いだけを貫いて――
『超越――』
揺れる世界、軋む理。
三つの調べがせめぎ合い、世界を歪ませ、擦れるような悲鳴を上げさせる。
その中心となった位置の傍で――三人は、己の理の顕現を告げていた。
「――《虚無:終焉啓示・災厄の獣》」
「――《永劫:破滅渇望・冥府の王》」
「――《拒絶:神楯浄化・石化の魔眼》」




