114:喪失の夜
中央都市、主とオリュークスを襲った大襲撃。
それを乗り越えた日の夜、ミラは多くの聖女達が集う上層の大神殿で、開催された会議に出席していた。
会議の議題は勿論、今回の大襲撃に関する内容である。
今までに見られなかった魔物の動き、地下に空けられた無数の穴に対する対処。
頭の痛い議題ばかりの状況に、ミラは気付かれぬように小さく嘆息を零していた。
あまりにも、状況が難しすぎるのだ。一言で言ってしまえば手が足りない。
全ての状況を把握しているからこそ、ミラにはそれが理解できてしまうのだ。
「聖女ミラ。つまり、テッサリアの奪還作戦自体は成功したと言っていいのですね?」
「はい、猊下。テッサリアを侵蝕していた魔物は完全に排除し、戦力の無効化に成功しています。しかし――」
「維持のための戦力をそちらに割いていては、オリュークスの守りが足りないと」
「……私はそう愚考します」
視線を伏せるようにしながら首肯し、ミラはそう答える。
実際の所、現状しばらく防衛をすることは可能だろう。だが、どうした所でジリ貧にしかなり得ないのが現状だった。
戦闘を行えば、一切の犠牲無しに済むわけがない。どれほどの精鋭戦力であれ、それは変わらないだろう。
オリュークスの戦力は徐々に削られ、しかし敵の戦力は無尽蔵に湧き続ける。
これに永遠に対処し続けられる存在があるとすれば、それはカインとリーゼファラスだけだろう。
しかし、その状況を理解できぬものも、この場には存在していた。
「しかし、それでは何のためにテッサリアを奪還したと言うのだ。あれだけの犠牲を払った作戦なのだぞ、意味もなく手放してしまっては!」
「地下からの攻撃に対処するには、聖女ケレーリアの力が必要です。しかし、彼女だけで全ての事態に対処できるわけではありません。生憎、私は地下での戦闘に向いておらず、我が隊の神霊ヴァルカンの契約者もそれは同様です。地下からの戦力に対処できる存在が、必要不可欠なのですよ」
机を叩き声を上げる神官に対し、ミラはあくまでも落ち着いた声音でそう返す。
そういった意見が出ることは、最初から予想済みなのだ。
今回は、あまりにも想定外の事態が起こりすぎた。
テッサリアの奪還までならばまだしも、その場に《奈落の渦》の首魁である星天の王が現れ、カインが攫われてしまった。
彼を取り戻すためにコーカサスまで赴けば、星天の王は誰も気付かぬうちに倒され、その代わりにアルベールが《奈落の渦》の支配権を握ってしまった。
しかもアウルは殺され、リーゼファラスが一時的に行動不能に。
その上で、オリュークスの大襲撃である。最早、テッサリアがどうこう言っているような状況ではなかった。
今考えるべきことは、最低限護らねばならないオリュークスの防御をどう固めるかだ。
「聖女ケレーリアと、暗所での戦闘に優れた聖女ザクロ。そして予備戦力として聖女ネレーアが最低限でも必要でしょう。しかし、残る聖女アルテアと聖女レイクレアのみ。この戦力で、コーカサスに近いテッサリアを維持できるとは思えません」
「それは……だがっ」
「それに、ですが。コーカサス攻略のためにテッサリアを維持することは、最早無意味であると考えています」
「ほう?」
興味深そうに、教皇レウクティアが視線を上げる。
その後ろ、祭壇のようになっている玉座に腰掛けたジュピターは、真剣な眼差しながらも口元を僅かに笑みに歪めていた。
恐らく、それに気付けたものはミラだけだろう。ミラは軽く肩を竦め、問われる前に説明の言葉を発する。
「正直に言いましょう。どれだけの大軍を揃えた所で、コーカサス攻略には全くの無意味です」
「な……ッ!?」
「現在《奈落の渦》を支配しているアルベールと言う男……あの男の力は、少なく見積もってもリーゼファラス、様二人分はあるでしょう。あの想像を絶する力を前にしては、私たち上位神霊契約者の力も全くの無意味です」
意味があるとすれば、《神威転身》を込めた一撃程度であろう。
あの力は、上位神霊そのものの力を発揮することができるのだ、例え倒せずとも、多少の消耗を与えることは可能かもしれない。
だが、その想定に意味はない。その力を使える者は、教皇レウクティア以外に存在しないのだから。
「あれを打倒し得るとすれば、リーゼファラス様とカイン……リーゼファラス様と同等の力を持つあの男だけです。つまり、コーカサスへ向かう価値がある者は二人だけであり、それ以外の人間がついて行ったとしても邪魔にしかなりません」
「……あの方だけに、任せるつもりだと?」
「余計な人員を増やし、それによって彼女達に無駄な消耗をさせることは避けなければなりません」
カインたちだけに戦わせることを、納得などするはずがない。
だが、アルベールとの戦いになれば、他の誰かが手を出そうとした所で全くの無意味にしかなりえないだろう。
――少なくとも、アルベールとの戦いになれば。
(私は、私とウルカだけは……あの二人だけに、任せ切りになんてさせないわ。あの男との戦いには手も足も出ないことは分かっている。いるだけ邪魔なのも分かっている。でも、露払い程度ならできる)
少なくとも、道中に現れ邪魔をする魔物達を排除する程度ならば、ミラたちにも可能だ。
カインたちの道を阻み、余計な消耗を強いるような存在は、自分達が排除する。
例え《将軍》が相手であったとしても、一時的に引き付け、その間にカイン達を先に進ませることはできるだろう。
しかし、その為には、このオリュークスの戦力を増やす必要がある。
地下を元通りに修復するためにケレーリアの力が、そして闇に包まれた地下を警備するためにザクロの力が必要だ。
彼女達を呼び戻さねば、自分達がその警備に当たることになるだろう。
(ジュピター様たちは既に命令を飛ばしているのでしょうけど、彼女たちの足止めをしかねないような存在を早めに納得させなければいけない。身内にも敵がいるなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ないけど、文句を言ってる暇はない)
気付かれぬよう小さく嘆息し、ミラは視線を細める。
今この場に、リーゼファラスはいない。本来ならばこの場に出席しているであろう彼女は、今は全く別の行動を取っていた。
この場にはいない彼女に対して、ミラは胸中で軽く悪態を吐く。
気持ちは分からないでもないが――今は、こちらの説得に参加して欲しかった、と。
(ま、文句も言っていられないか。もう時間がないのだから……カイン、リーゼのことを任せるわよ)
今の彼女が向かう場所など、彼の元以外にありえないだろう。
胸中で嘆息を零しながら、ミラは己の成すべきことへと意識を集中させていった。
* * * * *
人気の少なくなった夜の下層。
しかし、周囲に見える人影は、普段と比べても遥かに少ない。
それも当然だろう。今回の大襲撃は、オリュークスにそれだけの影響を与えたのだ。
少なくなった人間は、襲撃によって命を落としたか、或いは上層に避難しているかのどちらかだ。
上層の側としても幾分か渋った部分はあるものの、一部の建物を避難所として解放していた。
下層に対する蔑視はある。だが、上層の上部にいる者たちは、下層で動く金の大きさを軽視してはいなかった。
人口だけで言えば、下層のほうが遥かに大きい。そこで取引される金品も、上層が無視できる大きさではない。
いくら下層を見下しているとは言え、それが無ければオリュークスの屋台骨が傾いてしまう程度には、下層の市場というものは大きいのだ。
だからこそ、避難所と言う形で下層の人間を受け入れ、彼らの安全を確保しているのである。
(ま、それでも出て行く奴はいる訳だがな)
下層の人間とて、一枚岩ではない。上層からの施しを安全のために受け取る者もいれば、そんなものを受け取る義理は無いと拒否する者もいる。
上層と下層の間に存在する溝は、果たして広がったのか狭まったのか――それは、カインにとってはあまり興味の無い内容であった。
結局の所、上層が変わろうと下層が変わろうと、或いは今のままであろうと、カインはどうでもいいという感想しか抱けない。
今日、この場で戦いがあった。自らが生き残るための戦いが。
輝かしき、人々の戦いの軌跡。カインが、かつて追い求めていたもの。
そしてその戦いの果てに、一人の女が命を落とした。
「……」
気付けば、カインは己が住居としていた家に足を運んでいた。
一部が破損したそれは、魔物によって襲撃されたことを示している。
尤も、シーフェはここで命を落とした訳ではないため、魔物の処理は問題なく行うことができたのだろうが。
「……ああ、全く。色々とありすぎだろう、これは」
崩れかけた家のそばに腰掛け、カインは嘆息交じりに虚空を見上げる。
コーカサスに足を運んで、僅か数日。一週間にも満たないほどの、ほんの短い期間。
たったそれだけの時間で、アウルとシーフェは“死”へと辿り着いてしまった。
“死”は救いである。彼女たちは、満足できる結果を得て、笑いながら消えていった。
その結末をカインは祝福している。死神たるカインが、その終焉を否定することは出来ない。
それでも――
「――どこか惜しく思う自分がいることは、否定できないですか」
「……リーゼファラス、わざわざこんな所まで追いかけてきたのか?」
「貴方にしては、周囲への気配察知が疎かになっていましたね。隣、失礼します」
呆れたようなカインの言葉にクスクスと笑い、リーゼファラスは彼の隣に腰掛けていた。
そんな彼女の気配を改めて感じながら、カインは再び空を見上げる。
人が少なくなり、明かりが消えた下層の町からは、天の星々を余すことなく眺めることができた。
しばし沈黙し――ぽつりと、リーゼファラスが声を上げる。
「カイン、貴方は……あの二人を、愛していましたか?」
「……愛、ねぇ。俺には、良く分からん感情だ」
カインは元より、人としての感情に薄い部分がある。
特に、対人関係の心の機微と言うものは、殆ど希薄と言っていいだろう。
人に執着したことなど殆どない。故に、比較対象が存在しないのだ。
カインが執着したことのある相手は、ネルとリーゼファラスのみ。
それ以外の人間には、常に平等に接してきたと、カインは考えている。
死神とは――“死”とは、そういうものだ。全ての存在に等しく訪れる終焉であり、最期の救い。
「貴方は、そういう存在です。けれど……惜しいと思ってしまったことも、事実でしょう?」
「……惜しい、か。ネルのときとは違う、俺はあいつらのことをしっかりと見送ることができた」
「超越者とて、全ての感情が己の権能に縛られるわけではありませんよ。“死”を祝福することと、大切な人間との離別を惜しむ心は同居できないわけではない」
己の掌を見つめ、リーゼファラスは呟く。
自らの内側に溶けたアウルの魂は、揺らいだリーゼファラスの心を埋めてくれた。
けれど、彼女と会えなくなってしまったことを、リーゼファラスは確かに寂しく感じていた。
超越者は、人ではない。けれど、元々は人なのだ。より権能に特化し、己を変質させて行ったならばまだしも、二人は未だ現世に留まり続ける中途半端な存在に過ぎない。
人としての感情も、感性も、まだ劣化するには早すぎるのだ。
「貴方に愛という感情が分からないとしても……あの子のことを大切に思ってくれていたのは、確かでしょう?」
「大切に、か……そうだな、そうかもしれない。アウルも、シーフェも……いい女だったさ」
肩を竦め、カインは呟く。情が無かったと言えば、嘘になるだろう。
長い間共に暮らしてきた相手と、狂気を孕みながらも純粋に感情をぶつけてきた相手。
どちらも、カインにとっては近しい存在だった。或いは、親しい存在とも言えるだろう。
かつてネルが告げた言葉を、カインは胸中で反芻する。
ネルの死で、理解したつもりになっていたその言葉を。
「そうか、これが……いや、これでいいんだろうな」
“死”を祝福し、永遠の離別を惜しむ。
死神としての在り方か、或いは人間としての名残か。
そのどちらもを、カインは否定せずに受け入れていた。
己の感情を否定することほど、愚かなことはないと――彼は、そう考えていたから。
「……やはり、あの子が羨ましいですね。ただ、私が未熟だっただけでしょうが」
「リーゼファラス?」
「リーゼ。貴方も、そう呼んでくれませんか、カイン」
ふと告げられた言葉に驚き、カインは目を見開いてリーゼファラスのほうへと視線を向ける。
隣で膝を抱えながら腰掛けていた彼女は、その視線に答えるかのように淡く笑みを浮かべていた。
「あの子の代わりではありません。貴方という存在を、私は受け入れたい……そして、私と言う存在を受け入れて欲しい。《魔王》様と同じ理を持つ私が言うには、少々滑稽な言葉かもしれませんが」
「……随分、変わったもんだな」
「いいえ、変わりませんよ、私は。あの子の前では、きっと私はこんな風だったのでしょうから」
自嘲するように、リーゼファラスはそう告げる。
対するカインも、それもそうかと肩を竦め、再び頭上へと視線を戻していた。
「……もうすぐ、だな」
「ええ……あまりにも大きな流れになりましたが、それでも」
「終わりは近い、か」
恐らく、最後の戦いとなるだろう。
どのような形であれ、恐らく自分達の行く末は決まっている。
ならば、せめて――
「リーゼ、必ず勝つぞ」
「っ……ええ、必ず」
静寂に包まれた街の中、二人の人ならざるものは、淡く笑みを浮かべてそう言葉を交わしていた。




