10:深淵への進軍
襲撃のあった翌日、一行は早くも《奈落の渦》へと向けて出発していた。
あまりにも休息が短すぎると思われがちであるが、《渦》の魔物を一掃した今こそが最も敵が手薄な状態であり、本来ならば昨日の戦闘後にすぐさま出発するのが望ましいのだ。
けれど、大量の魔力を消費したミラや、そこへ向かう人員を選ぶための軍の編成などの事情があり、出発する事は出来なかった。
可能な限り早く、そして回復を済ませているタイミングで出発した一行は馬車に揺られながら荒れ果てた街道を眺めていた。
「人……いませんね」
「そりゃあそうだろうよ。《奈落の渦》が開いて魔物が溢れ出した上に、こっちの方角にあるのは崩壊したティーヴァだ。行きたがるのは余程の命知らずか犯罪者だろうよ」
帰ってきたカインの言葉に、ウルカは若干苦笑する。
彼は、あまり人の事を言えた義理ではないだろう。ウルカは、彼ほどの命知らずを見た事が無かったのだ。
クレーテを出発して一時間――《奈落の渦》が存在しているのは、それ程離れた場所ではない。
もうじき、到着する事となるだろう。
「この渦を潰したら、ティーヴァを奪還できますかね?」
「する意味がねぇだろうな。既に崩壊し切ってるし、コーカサスにも近い。防衛するのもきついような場所だ、無理をするぐらいなら、そのまま放置した方が安全だろうよ」
とりとめも無い会話は、遠景と共に流れてゆく。
眠いからではない。単純に、やる事が無いからだ。
カインは既に武器の手入れを終えており、ウルカに至ってはそもそも手入れなど必要ない。
基本的な道具や装備品は既に配給されており、いつでも使用可能な状態だ。
それ故に、二人は周囲の警戒に当たっていたのだが――
「……魔物も、いませんね。《渦》のも、普通のも」
「まあ、普通の奴は《渦》の魔物に喰われたんだろうが……奴らもいないとはな。おかげでスムーズにここまで来れたが」
「奴らは無尽蔵に湧いてきますし、打ち止めって事は無いでしょうけれども……」
「奴らも生まれるまでには多少時間がかかるしな。まだ《指揮官》がいるなら、内部の防御に当ててるって事だろう」
無尽蔵に生まれ続ける《奈落の渦》の魔物と言えど、その身が造り上げられるにはそれ相応の時間がかかる。
ミラが一網打尽にした魔物たちは、まだ補充されてはいないのだ。
それはそれでいい事なのだが、二人にとって暇な事に変わりは無い。
――小さく、ウルカは嘆息を零した。
「あの、カインさん」
「あ? どうした、小僧」
「僕に、戦い方を教えてくれませんか?」
「断る、面倒だ」
取り付く島も無い。
本当に本心からそう口にしているが故に、ウルカも口を出しづらかったのだ。
かといって、ウルカも諦め切れる訳ではない。
先ほどから度々食い下がっているが――あまり、成果は上がっていなかった。
話が通じていない訳ではないのだが、カインの返答は決まって一つのものとなっている。
「俺の戦い方なんて参考にならねぇよ」
「いえ、それは無いと思いますけど。あの身のこなしとか、僕にはできません」
「さっきも言ったがな……あれは、戦いの中で自然と最適化されて行ったもんだ。どうやったと聞かれても答えられねぇんだよ。見て盗む分にはいいが、教えろと言われても俺には無理だ」
「見て、盗む……やっぱり、それしかないですか」
「ああ。強くなるなら勝手に強くなれ」
そう言って、カインは再び口を閉ざす。
そんな彼の横顔を見て、ウルカは再び嘆息を零していた。
戦いの中で培われた――それは即ち、自分には圧倒的に経験が足りていないと言う事だと、ウルカはそう判断する。
それは間違いなく事実であり、けれど満足の出来ない答えであった。
ウルカは今まで、己よりも強い人間を見た事が無かった。
それに無駄な自尊心を抱いていた訳ではなかったが、それでもカインやアウルの存在は衝撃的だったのだ。
力を持たぬ彼らがあれだけの実力を持ちえるならば、自分がそこに辿り着いたとき、どれだけの力を発揮できるのか、と。
けれど――
(本当に、力が無いなんて言えるのか……?)
少なくとも、二人の戦闘は異常としか表現できない物だった。
ただの剣が、強固な魔物の外殻を断裁する。それ自体が、既に異常なのだ。
そんな武器を度外視しても二人の技能は極限の域に達していたが故に、ウルカは彼らの技に焦がれたのだが――
(何か、隠している。この人達はまだ、何かを――)
そんな考えが、ウルカの思考を占めようとした、その瞬間。
馬車が、ゆっくりとその動きを止めた。
それと共に顔を上げたウルカの視界に入ってきたのは――漆黒に染まる、湖のようなもの。
森の陰から現れたそれは、酷く禍々しい雰囲気を湛えていた。
「着いたわね。総員、突入の準備を開始しなさい」
ミラの声が響き渡り、一行は馬車から降りてゆく。
《渦》の破壊のために選ばれたのは、総員九名の戦士だった。
まず、中心となるミラ・ロズィーア=ケラウノスとリーゼファラス、その従者アウル。
下層の出でありながらその戦闘力を買われて選ばれたカインとウルカ。
副指揮官であり、バランスの良い能力を持っているメーリュ・リードット。
回復系の力を持つ治癒術師、アイリーン・ピリア。
大きな楯を持った前衛、セレーネ・インフィ。
そして、剣を持った攻撃専門の前衛、アルティ・フェイン。
高位の能力者は女性が多い――その通説を違える事無く、カインとウルカ以外の面子は全員女性である。
それも慣れた事だと、二人は特に気にする事も無かったが。
「ご苦労様。一日ごとに私達が戻っているかどうか、確認を頼むわよ」
「了解しました。それでは、御武運を!」
敬礼をして去ってゆく馬車を見送り、一行は口数も少なく《奈落の渦》へと向き直る。
始めは下層の人間がいる事に対する反発の声はあった。
尤も、先の戦いでも前衛として戦っており、非常にさっぱりとした性格であるアルティは、二人の強さを理解していたため気にする事はなかったが。
けれどどちらにしろ、この巨大な《渦》を前に、そのような無駄口を叩く人間はこの場所にはいない。
――そんな中、一人だけ調子の変わらない人物がいた。
「それでは、行くとしましょうか」
「ちょっ、リーゼファラス!?」
まるで散歩にでも行くかのような口ぶりで、リーゼファラスは《奈落の渦》へと向かってゆく。
そんな彼女に面食らい、ミラは思わずその背中を引き止めていた。
対し、振り返った彼女の顔に浮かんでいたのは――どこか、楽しむような表情が浮かんでいた。
「どうしました、ロズィーア? 初めてとは言え、立ち止まっている暇は無いでしょう?」
「っ……ええ、そうね。それでは、行きましょうか」
まさか、怖気付いているのでは、と――どこか挑発的な色の混じった声音に、ミラは思わず奥噛みする。
元より、対抗意識の強い彼女だ。ライバル視しているリーゼファラスにそう言われては、踏み出さずにはいられないだろう。
リーゼファラスを追い越して進んでゆくミラ――そんな彼女に、慌てて追いつくようにメーリュが駆け寄った。
「お、お待ちくださいケラウノス様。まずは偵察を向かわせるべきです」
「それで、下層の二人を向かわせるとでも言いたいのかしら、貴方は?」
「っ……」
殺気すら篭ったミラの視線に、メーリュは思わず息を飲む。
が、それに何とか耐え、彼女は続けた。
「連中の能力が、それに適しているのは事実です。ケラウノス様、ご判断を」
「……そう、ね。ごめんなさい。貴方たちも、それでいいかしら?」
「ああ、問題ないぜ。俺一人でも十分だ」
「いや、僕も行きます。中で魔物が溢れていた場合、僕がいた方が楽でしょう?」
単純な生存能力の問題。
この二人とアウルは、先の戦いでも少人数で最前線に乗り込み、見事に無傷で戦い抜いたのだ。
そのサバイバビリティは、この面々の中ではかなり高いと言っても過言ではないだろう。
そうして実力が認められた上だと言うのなら、二人としても異存は無かった。
メーリュは業腹だと言う表情を浮かべていたが、それを気にする事も無く、カインとウルカは《奈落の渦》へと向かってゆく。
その縁まで近付き、ウルカは異質な雰囲気に対して息を飲む。
黒か、或いは紫か。渦を巻く澱んだそれは、毒々しい空気を醸し出していた。
が――
「さて、行くか」
「あ、ちょ、もう!」
カインはそこへ、何の躊躇いも無く飛び込んでいた。
慌ててウルカもそれに続き、二人の姿は《渦》の中へと消える。
――潜行は、一瞬だった。
「わっ……とと」
地面に着地し、ウルカは勢い余ってつんのめる。
しかし何とかバランスを保つと、すぐさま周囲へと警戒した視線を走らせた。
そこに、あったのは――
「ッ……!」
「おーおー、今回は洞窟っぽい感じだな」
魔力灯を点し、周囲を見渡したカインは愉快そうに声を上げる。
そこは、黒い岸壁に包まれた洞窟のような場所だった。
しかし、酷くじめじめとしており、生臭い臭気が漂っているそこは、ただの洞窟と言うにはあまりにも空気が澱んでいる。
空気が死んでいる――思わず胸中でそう形容しながら、ウルカは両手に炎の剣を呼び出した。
「小僧、あまり燃やしすぎるなよ」
「密閉空間での炎の危険ぐらいは分かってます。無茶はしません」
「ならいい。さて、とりあえず見える範囲に敵は無し、と……んじゃ、外の連中を呼ぶかね」
言って、カインはもう一つ魔力灯を取り出すと、それを発光させて背後へと投げつける。
二人の後ろには、先ほどの入り口となっていた《渦》のように蠢く、黒い壁が存在していた。
そこへ魔力灯が吸い込まれて数秒――次々と、後続が《渦》の中へと進入してくる。
彼女たちは中の空気に一様に顔を顰め、そして周囲へと視線を走らせる。
「これが……よし。とりあえずカイン、だったわね。貴方に先頭を任せてもいいかしら?」
「へぇ、先頭を任せてくれるとはな」
「喜ぶような事かしら? 正直、一番危険が大きい所だと思うけど」
「その点、あんたは俺の戦闘能力を買ってるって訳だろう。それに、他にも理由がありそうだが――ま、断る理由はねぇさ」
ちらりと視線をミラの隣――リーゼファラスへと走らせ、カインは口元を笑みに歪める。
対する彼女は、同じように澄ました笑みを浮かべていたが。
「では、貴方たち二人を前に。その後ろにフェインとセレーネが付きなさい。次に私とメーリュ、その後ろにアイリーンが続き、殿をリーゼファラスたちに任せる。それでいいかしら?」
ミラの発した隊列に異論を述べる者は無く、その通りに並んで進み始める。
暗い洞窟の地面はあまり硬くはなく、血管が浮き出ているようにすら見えるそれは、どこか生物的な印象すら受ける。
天井より滴っている水滴は黒く、血であるとすら錯覚させられるだろう。
湧き上がる生理的な嫌悪感に、ウルカは顔を顰める。
「……渦の中っていうのは、どこもこんな感じなんですか?」
「いや、場所によってそれぞれ違うな。ま、どういった要因で外観が決まるのかは知らんが、まだマシな方だと思うぜ?」
「これで、マシ……」
カインの言葉を聞き、ウルカは表情を硬くする。
強くなる事を、そして名を上げる事を望むウルカは、今後もこうして《渦》の中へと足を踏み入れる事となるだろう。
そんな時のために、覚悟を決めているのだ。
彼の様子を横目に見つつ、カインは周囲の気配を探る。
今のところ、魔物の気配は感じられないが――
(流石に、少な過ぎるな。あまり広くはないから《兵士》程度だろうが、出てきていてもおかしくない。まあ、出てきた所で無駄になるだけだろうが――)
補助的な人員がいるとは言え、人間規模で言えば一人一人が一騎当千の力を持つ面々だ。
今更《兵士》の一体や二体程度でどうにかなるものではないのは確かである。
しかし、そうであったとしても、本来本能的に襲い掛かってくる《渦》の魔物が現れないのは少々異常だ。
だとするならば――
(近くに《指揮官》がいるか、或いは――)
ある程度の知能を持つ、魔物たちの動きを制御する魔物。
その存在が、無駄な戦力の消費を避けようとしている可能性が高い。
そうして奇襲の機会を狙っているのであれば非常に厄介だ。
例え単騎で敵を倒せるだけの実力を持っていたとしても、不意の一撃を受けてしまえば命を落としてしまう可能性は高い。
そして、それ以上に厄介な可能性があるとすれば――
(――《将軍》)
《奈落の渦》より現れる魔物の最上級。
それ以外の魔物と違い、共通した姿といったものは無く、それぞれが固有の容姿と能力を持っている。
そしてその力は、最上位の名に恥じぬ、非常に強力なものだ。
ウルカやミラ、上位神霊の契約者と比較しても遜色無いほどのそれは、《指揮官》すらも支配して操る力を持つ。
この《渦》は規模が大きい。《将軍》の存在があったとしても、不思議ではない。
「ああ……」
恍惚とした吐息が、カインの口より零れる。
それは、先にある闘争の気配を感じ取ったが故の、愉悦より発せられたものだった。




