105:中央都市の災厄
「――参りましたね、これは」
中央都市オリュークス、上層と下層を隔てる巨大な外壁の上。
白亜の大神殿を背景に、一人の聖女が下界を見下ろしていた。
紅の髪、緋色に輝くヴェールを纏い、人間として正印教会の頂点に立つ聖女は、至って平静な表情のまま小さく呟く。
「接近に気付かなかった……いえ、気付かせなかった訳ですか。別の場所で《渦》の中から出現し、その後地中を通って奇襲を仕掛ける、と……幸い、土台を固めた上層は無事ですが」
視線の先にあるのは、魔物達の出現によって大混乱に陥った下層の様子であった。
地面の中から突如として現れた《渦》の魔物達は、そのまま人間を襲い始めていたのだ。
これまでのように地上を駆けて攻めてくるような形ではなく、地中を潜って外壁を潜り抜けるという奇襲手段。
そして、ある程度統率の取れた動きから見ても、魔物達の動きに何らかの意志が働いている事は明白だった。
その様子を見つめて、女性――《緋色の聖女》、《女教皇》レウクティアは視線を細める。
「ジュピター様の仰るとおり、何者かが《奈落の渦》の支配権を奪い取り、制御しているようですね」
これまでの力押しとは全く違う、弱点を突いてくるような戦闘方法。
それでいて、《奈落の渦》が持つ利点である圧倒的な数も失われてはいない。
敵としてこれほど厄介な相手もいないと、レウクティアは表情に出さず胸中で悪態を吐いていた。
あまりにも唐突な襲撃であったため、下層は混戦の様相を呈している。
上層の兵を投入する事は必要事項ではあるが、このままでは更なる混乱を発生させてしまうだけであろう。
「……我々が、下層の人間の統制を取る事は不可能。かと言って、問答無用で兵力を投入すれば、間違いなく大きな被害が出る……そうなれば、大きなしこりを残してしまいかねない……ここまで考えていたのであれば、厄介などという相手ではありませんね」
嘆息には見えぬよう息を吐き出し、レウクティアは下層を睥睨する。
しかし、このまま手を拱いている訳にも行かないのだ。
下手に手を出せない事も事実であるが、手を出さずにいればもっと危険な状況になる。
元より、選択の余地のない選択肢なのだ。魔物の殲滅のために、戦力を投入する事は必要事項である。
だが――
「……それでも、何もかもを思い通りにさせる訳にはいきませんので」
呟き、レウクティアは手を掲げる。
その身より溢れ出すのは、紅に揺らめく魔力のオーラだ。
彼女が瞬時に練り上げた魔力の量は、同じ時間でミラが構成できる魔力よりも遥かに多い。
上位神霊アポルローンの契約者、正印教会を取り纏める才媛――だが、彼女はただそれだけで、人々の頂点に立っている訳ではないのだ。
それは偏に、有する力によるもの。
そして修練の果てに身に着けた、彼女の技術によるものだ。
「我が主よ、我が神よ。この魂の輝きを捧げましょう」
腕を広げ、太陽の光を浴びるように、レウクティアは上位神霊へと語りかける。
同時、その身から溢れ出す魔力は、それまでの揺らめくようなオーラとは異なる輝きとなって噴出した。
それはプラーナ――ミラとウルカも身に着けた、魂を削る業だ。
尤も、レウクティアの操るそれは、ミラたちのそれを大きく凌駕している。
練り上げられた魔力も、それに溶け込んだプラーナも、全てがミラたちの扱える純度を超えているのだ。
そしてそれ故に、溢れ出す力もミラたちとは桁が異なるものとなっていた。
「――《神威転身》」
刹那――レウクティアの身から、爆発的な輝きが吹き上がった。
びりびりと空気を震わせるそれは、人にはあらざる――超越者の持つそれと同じ威圧感だ。
実際の所、超越を展開した彼らと比べてしまえば足元にも及ばないのだが――少なくとも、足元が見える程度には強大な力を得ているのだ。
それは正しく、彼女の契約した上位神霊であるアポルローンの有する力。
太陽の化身、その名に相応しい輝きと熱量を、レウクティアはその身に纏う。
「ふぅ……これ、疲れるからあまり好きではないのですが……まあ、贅沢は言っていられませんね」
放たれる魂の輝きと、その強大なる魔力の波動――それは、《奈落の渦》の魔物にとって極上の餌だ。
故に、魔物達はその気配を感じ取り、レウクティアに注目せずにはいられなかった。
――それこそが、彼女の狙いであるとも知らずに。
「動きを、止めましたね?」
小さく笑み、レウクティアは左手を掲げる。その手の中に現れるのは、金色に輝く巨大な弓だ。
それは、ウルカが契約によって呼び出すものと同じ、上位神霊縁の武装。
だが、アポルローンとの契約では、本来武装の召喚などは行えない。
これは、一時的にアポルローンの力を最大限引き出せるようにしたが為に呼び出す事が出来た武装である。
《神威転身》――それは、上位神霊の力を本来の出力と同等の力で呼び出す、究極の技法なのだ。
「射抜け、黄金の矢よ」
矢を番える事なく、レウクティアは弦を引き絞る。
瞬間、輝く黄金の光が矢を形成し、アポルローンの弓に装填されていた。
膨大な上位神霊のエネルギーをそのまま、かつ精密に織り込まれた一本の矢は、そのまま高く、太陽を射抜こうとするかのように天へと向けて構えられる。
そして――その矢は、一気に放たれた。
大気を一直線に焦がしながら、黄金の矢は天上へと向けて疾駆する。
そして、それが都市の上空へと達した瞬間――唐突に弾け、無数の光となって下層へと降り注いでいた。
「あまり動かれると、当てるのも難しかったですからね。一撃で仕留め切るには至らないでしょうが……上層の兵が打って出れるだけの隙と有利な状況があれば、問題はない」
降り注ぐ光は、レウクティアに注意を引かれて動きを止めていた魔物達を正確に射抜いていく。
射抜かれた魔物はその熱量によって内側から焼かれ、痛みにのた打ち回りながら絶命するか、行動不能になった所を傭兵達によって処理されていた。
アポルローンの弓を消し去りながら、レウクティアは溜息を吐く。
今の一撃を放つだけで、魔力もプラーナも、半分以上を削り取られてしまったが故に。
「さて、状況は五分以上に戻したとは言え、まだ相手の増援は現れるでしょうね……まだ、何手か必要になりますか」
地面の下に、後どれほどの魔物達が潜んでいるのかも分からない。
元より、無尽蔵な《奈落の渦》を相手にしているのだ。今回の《渦》の規模が分からない以上、希望的観測など出来るはずもない。
かと言って、先ほどの一撃をもう一度放つ事は不可能だ。
レウクティアの持つ巨大な魔力を以ってしても、今の一撃は何度も放てるものではないのである。
「ともあれ、これで打って出る事はできるはず。後は……早く戻ってきていただきたいですね、リーゼファラス」
小さく、願うように呟いて。
レウクティアは、上層の兵士達の出撃を命じたのだった。
* * * * *
「ああもう! 予想してたとは言え、本当にこうなってるとは!」
オリュークスの外に群がる魔物達の姿を目にし、ミラは悪態を吐きながらそう叫ぶ。
既にオリュークスを目視できる距離まで辿り着きはしたものの、周囲の魔物の数が多く、接近しづらい状況にあったのだ。
運転を勤めたレームノスの兵士には自動車と共に退避を命じ、四人はオリュークスの状況を睨みつける。
「さて、どうする? 俺ともう二人ぐらいだったら飛ばせるが、流石に三人抱えるのは無理だぞ」
「ならば、私がここで外の魔物達を殲滅しましょう」
「……いけるのか、リーゼファラス」
「ええ。あの程度の相手でしたら、もう問題はありません。それに……」
周囲の大地を見回せば、所々に地面を掘ったような跡や、陥没した痕跡が残されている。
魔物達が、地面の下を潜行した証であろう。つまり、地面の下を通って魔物達が侵入している可能性は極めて高いのだ。
最早、一刻の猶予もない。そう考えながら頷き、ある程度まで体調を戻したリーゼファラスは続ける。
「内側から攻められ、外に逃げる事も出来ない。このままでは、全滅は必至です。少なくとも、外の魔物共は排除しなくては」
「病み上がりだけど、信頼してるわよ」
「ええ、お任せください……さあ、カイン」
「了解した」
頷きカインは《死刃の骨翼》を展開する。
皮膜などないにもかかわらず空を自由に翔るそれは、風を孕んで胎動し始めていた。
具合を確かめたカインは、ちらりとリーゼファラスへ視線を向ける。それを受けた彼女は、小さく微笑みながら首肯して見せていた。
まだ安定はしていないが、少なくとも精神的な余裕は戻ってきている。
あの夜のような危うさを感じない今の彼女に満足し、カインも頷き返すと、そのまま上空へと向けて勢いよく飛び出していた。
空を駆けて行く彼の背中を見送り、小さく息を吐いてリーゼファラスは視線を戻す。
無数の魔物に群がられた下層の外壁も、破られるのは時間の問題だろう。
傭兵達は善戦しているが、それでも焼け石に水だ。
「内側と外側の両方から攻められては、流石にどうしようもありませんか。まあ、仕方ないですが」
数での優位をこのような形で生かされては、不利になるのも避けられないだろう。
それを理解したうえで、リーゼファラスは苛立ちと共に視線を細める。
例え《女神》の真意を改めて知ったとしても、彼女自身の性質が変わるわけではない。
相変わらず《奈落の渦》の存在は認められず、根絶やしにしようと暴れる感情は残っているのだから。
それでも、変わらぬ冷静さを保ったまま、リーゼファラスは歩を進める。
体調は、万全であるとは言えない。
未だに体の中の違和感は残っており、埋め込まれた異物を完全には飲み込み切れていない事は明白だった。
今の状態でカインと戦えば、恐らく敗北するだろう。
――けれど。
「それは、貴様達を見逃す理由にはならない」
地を蹴る。
初速にて音速に乗る。
呟いた言葉を置き去りに、強大なる力を纏いながらリーゼファラスは拳を握り締める。
その拳が振り下ろされる先は、門前に群がる魔物達の群れ。
鉄槌の如き一撃は――門を破ろうと荒れ狂う魔物達の群れを、一撃の下に水晶へと変えて粉砕していた。
戦場が、一瞬だけ静止する。門の上から弾丸を降らせていた傭兵達が、驚愕に動きを止める。
それは、一瞬の硬直であったが――リーゼファラスの感覚からすれば、あまりにも長すぎる時間であった。
「砕け散りなさい」
呟き、リーゼファラスは周囲へと向けて手刀を振るう。
横一直線に、半円を描くかのように周囲を薙ぎ払う。
無論、彼女の手が直接魔物達に届くはずもない。先ほどの一撃で盛大に吹き飛ばしたが為に、周囲に魔物の姿は無かったのだ。
けれど――その一撃には、確かな力が込められていた。
「――《分断》」
瞬間、世界が真っ二つに裂ける。
リーゼファラスが横薙ぎに振るった手刀の軌道どおりに、周囲にいた魔物達が真っ二つに裂け、その断面から水晶と化して崩れ落ちたのだ。
それは間違いなく、アウルの持っていた《分断》の力。
あらゆる物を斬り裂く斬断の力を、リーゼファラスは確かに操っていたのだ。
「……ふむ。まだ、完璧ではありませんが……それは、ここで調整していけばよいでしょう」
リーゼファラスの感覚としては、見渡す限り全ての魔物を斬り裂くつもりであったのだが、結果としてはその半分にも満たない相手にしか届かなかった。
まだ、この力の支配も完璧でなければ、使い慣れた力という訳でもない。
当然の結果ではあったが、リーゼファラスはそれに満足する事はなかった。
これは、アウルの能力なのだ。アウルが、己に託してくれた力なのだ――ならば、それを操れねば彼女に報いる事などできはしない。
「いいでしょう、この地を攻めるつもりなら、いくらでも現れるがいい――全て、私の糧にしてあげましょう」
手刀を構え、リーゼファラスは呟く。
彼女の意識の中には、ただただ、アウルへの想いだけが渦巻いていたのだった。
 




