102:帰還へ
「……で、リーゼが体調崩してるって?」
「まあな。アウルの能力そのものはともかく、一緒に俺の力の一部まで取り込んでるからな。コイツの性質上、俺の存在は受け入れやすいようになってるはずだが、それでも力の規模が近すぎる。多少時間が経てば慣れもするだろうが、しばらくはこの調子だろうな」
後部座席で寝転がるリーゼファラスをちらりと見つめ、ミラは遠景へと視線を向けつつ嘆息する。
幾度も車に乗り、多少は乗り物酔いに対する対処法を身に着け始めたミラは、あまり車内には目を向けぬようにしながらカインの話を聞いていた。
前日、リーゼファラスはアウルの力を己の内側に取り込んだ。
その言葉自体もミラにとっては理解しがたい内容であったが、彼女はとりあえず深くは考えないようにしながら言葉のまま理解しようとしていた。
その上で、ミラは思う。リーゼファラスにとっては、必要な事であっただろうと。
(もう少しゆっくり出来るタイミングだったら、時間をかけてお別れした方が良かったんでしょうけど……今だと、まともに弔ってあげられる時間も無い。そんな状態で放置していたら、リーゼにもしこりが残っていたでしょうし、そういう意味ではカインのやった事も間違いじゃない。けど――)
方法が、あまりにもリーゼファラスに対して負担を掛けすぎるものである事が問題なのだ。
あの強靭な体力と防御能力を持つリーゼファラスが、現状全く動く事が出来ていない。
精々が、時折呻き声を上げながら身じろぎをする程度だ。
それも、無理はないだろう。カインの力は、あらゆるものに死を与える物なのだ。
それを己に突き刺すどころか、体内――つまり、己の魂そのものである超越内に取り込んでしまったのだ。
その行為がどれほどの負担になるのかはミラには想像もつかなかったが、少なくとも少ないダメージではない事は理解できた。
(それに、精神的な方も問題だわ。アウルの事に一応は区切りを付けられているんでしょうけど、彼女の死を乗り越えた訳じゃない。今までと変わらないように錯覚させているだけ……本当に、それでいいの?)
現状は、それが最善手である事はミラも理解している。
また、ひょっとしたらこれがリーゼファラスにとっての最善となるかもしれない事も。
元より、超越者という存在の性質を理解できている訳ではないのだ。門外漢が口を出すものではないと、ミラもそう考えていた。
けれど、それでも心配をする権利はある。
友であると、そう認識しているが故に――ミラは、リーゼファラスの事を思わずにはいられなかったのだ。
ともあれ、今現在、状況は切迫している。
アルベールによって支配された《奈落の渦》が、果たしてどのような動きをするのか。
カインやリーゼファラスを圧倒するだけの力を持つ彼が、果たしてどう動くつもりなのか。
今のミラたちには、あまりにも情報が足りない。入ってきているのは、契約を介してジュピターから知らされた情報だけだ。
星天の王は消え、アルベールによって大規模な攻勢が始まろうとしている。
戦況の動きも、未だ理解には届かない。果たしてどうなるのか――
「……とりあえず、今は急いで戻るしかない、か」
「ミラさん?」
「いえ、もどかしいと思っただけよ。状況が、自分の手から離れて動いているのだから」
大きな流れが、生まれようとしている。
それこそ、巨大な渦のように、押し流されてしまいそうなほどのものが。
ミラは、それに流されるしかない自分を自覚していた。
どれだけの力を手に入れても、まだ足りない。遥か遠い背中が弱っていたとしても、何もする事が出来ない。
(私に出来る事、か)
適材適所――それは、ミラ自身が学んだ事だ。
己に出来ない事は、出来る人間にやらせておけばいい。
ただ、己の出来る事を全力で成し遂げるだけでいいのだ。
けれど、もし、己に出来る事が何一つ無かったとしたら――
(……駄目ね、考えていても仕方が無いわ)
小さく嘆息し、ミラは軽く首を振る。
無いならば見つけるしかない。例えどのような状況であったとしても、手を拱いて見ているだけなど、ミラ自身のプライドが許せない。
どのような形であれ、状況は大きく動き始めているのだ。
誰がどのように望んだ形であろうとも、始まってしまった事象を止めることは、誰にもできない。
この混乱の行き着く先が、果たして何処にあるのか――それは、ミラにも見当の付かぬ事であったが。
「差し当たって必要なのは現状の把握、か。カイン、貴方オリュークスに先行しなくていいの?」
「普段ならばそうしているが、現状はそうも行かんな」
「えっと……アルベール、でしたっけ。あの人の事があるからですよね?」
聞いていた話に、ウルカが口を挟む。
声に出したその名に対し、憎しみを滲ませながら。それも無理からぬ事であると胸中で嘆息し、カインは首肯する。
あれから、一日しか経っていないのだ。しかも感情を整理する暇すらない逃避行の中では、その怒りを完全に飲み込む事など不可能に近いだろう。
特に、年若く感情の制御が不完全なウルカでは尚更だ。
カインとしても、彼の感情を否定するつもりは無く、若干の苛立ちと共に声を上げる。
「これが、今までの状況であったなら、俺もさっさと行っていただろう。例え眠りっぱなしであろうが、リーゼファラスの事を害する事の出来る人間なんて存在しなかったからな。だが、現状はそうではない」
「今のリーゼさんを一人で放置するのは危険、って事ですか……」
「胸を張って言える事じゃないが、奴の――アルベールの持っている力は、俺やリーゼファラスよりも強大だ。一対一の戦いでは、十中八九敗北するだろう。奴と戦うなら、俺とリーゼファラスの二人で当たらなければならない」
アルベールの有する力は強大だ。
現実を改変する能力、いかなる攻撃を受けても瞬時に復元する再生能力。
攻撃の場面こそアウルを攻撃した場面しか目撃していないため分からないが、彼は星天の王を一人で圧倒しているのだ。
その力を低く見積もる事など、できはしないだろう。
「現状、奴と戦い得るのは俺とリーゼファラスだけだ。そして、どちらかが欠ける訳にも行かない。現状、俺がすべき事はこいつの護衛って訳だ」
「リーゼの事を護衛、ね。これまで考えもしなかった言葉だわ。けど……本当に、それでいいのね?」
「……ああ。俺も、奴の事を認める訳には行かんからな」
カインにとって、アルベールは許しがたい敵だ。
この世の敵となる事は、即ちこの世に多くの“死”を振りまく事と等しい。
カインは、“死”そのものを否定する事はない。“死”は救いであり、全てに平等な結末であるという考え方は変わっていないのだ。
しかし、無意味な“死”は忌避すべきものであるという考え方も、以前から変化していなかった。
全ての存在が、満足しながら“死”を迎える事などありえない。この世に溢れる理不尽は、多くの未練を生み出してしまう。
けれど、それでも――それらを積極的に生み出そうとしている存在を、カインは認める訳には行かないのだ。
「ともかく、奴の動きや目的が読めない以上、下手に動くのは危険だ。今回の戦いにおいて不可欠な戦力は俺とリーゼファラスだが、お前らが欠けるのも都合が悪いだろう」
「そりゃまあ、僕達だって下手な事にはなりたくないですけど」
「だろう。奴が俺たちに襲撃をかける可能性は十分にある。とは言え、直接本人が俺たちを狙ってくるかどうかは分からんがな」
アルベールは、『僕はいつでもここにいる』と言っていた。
全ての始まりであるコーカサスの地に留まり、カインとリーゼファラスを待っている、と。
ならば、本人が直接襲撃をかけてくる可能性は低いと、カインは判断していたのだ。
ただし、それも確実な話ではない。何らかの気まぐれで突然攻撃を仕掛けてくる可能性もあるのだ。
油断する事はできないだろう。
「ったく……」
小さく悪態を吐き、カインは正面へと視線を向ける。
かなり速度を上げて向かっているとは言え、オリュークスに到着するにはある程度時間がかかるだろう。
内蔵された魔力に関してはミラやウルカが補給する事が可能だが、補給の際には一度停まらなければならない。
かかる時間はそれほど長い訳ではないが、もしも敵に補足されている様な状況だった場合、その隙は致命的となってしまう。
その為、ある程度減ったらこまめに魔力を補給する必要があった。
「……」
胸騒ぎと呼ぶべきものを感じて、カインはわずかに視線を細める。
オリュークスへと急がねばならないと感じる心、リーゼファラスを放置する事はできないと考える心。
どちらも否定する事は出来ず、ただ納得できる理由があった後者に従っているだけだ。
だが、前者を無視する事が出来る訳でもない。理由も無い焦燥が、カインの内側でくすぶっていた。
オリュークスが陥落すれば、この国はほぼ瓦解する。
各都市を繋ぎ、統括しているのが中央都市なのだ。オリュークスが陥落した場合、各都市の情報伝達能力は著しく低下する事になる。
また、移動の便も悪くなり、都市への増援を送る事も難しくなるだろう。
そうなれば、後は全てが崩壊するまでに時間は掛かるまい。アルベールも、それを理解しているはずだ。
だが――己の内側にある焦りがその理由によるものなのかは、カインには断定できなかった。
軽く、舌打ちし――感じた気配に、カインは即座に顔を上げる。
「避けろ、横にハンドルを切れ!」
「ッ!?」
声にプラーナを込め、反射的に相手を従わせるようにしながら、カインは己の横にあるドアを蹴り開ける。
同時、自動車は急激にカーブし――直進していたはずの場所を貫いた黒い角を、間一髪回避していた。
「あ、あれは!?」
「警戒しろ、小僧! 俺は上に上がる!」
「え、上って――」
ウルカの声には答えず、カインは扉の上部分を掴んで跳躍していた。
ぐるりと身体を回転させ、そのまま器用に車体の上へと飛び乗る。
先ほどの攻撃を警戒して蛇行運転している車の上は酷くバランスが悪かったが、全身から刃を生やせるカインにとってはそれほど大きな問題ではない。
自らの体を固定しながら、カインは己の背に黒死の骨翼を展開していた。
(とはいえ、このまま戦うのは難しいか……中の連中も、俺を気にしてちゃ戦いづらい)
車体の上に刃を食い込ませて身体を安定させてはいるが、このままでは戦闘を行う事は難しい。
運転手が気を取られてしまうのも問題であると判断し、カインはそのまま空中へと身を躍らせていた。
同時、先ほどまで地面から突き出していた黒い角の下から、巨大な魔物の姿が現れる。
「やはり《重装兵》か……いつぞやと同じ、舐めた真似をしてくれる」
以前車ごと貫かれて炎に焼かれた記憶を思い出し、カインは皮肉気な笑みを浮かべる。
《重装兵》の這い出た穴から魔物は次々と姿を現し始めていたが、気にする事も無く、カインは右手に一振りの刃を生み出していた。
何の気もなしに作り出されたそれは、しかし大量の“死”を注ぎ込まれた非常に強大な刃である。
以前ならば生み出すのに時間の掛かっていたそれを、カインは魔物の群れへと向けて勢いよく投擲する。
回転しながら勢いよく飛翔する刃は、後から続いていた《兵士》の身体を貫き、その下の地面に突き刺さっていた。
そして、次の瞬間――
「――解けろ」
カインの宣言と共に、一振りの刃は大量の刃の渦となって周囲へと展開されていた。
絡み合う茨のように広がった刃の群れは、すぐさま周囲の魔物達を絡め取り、貫き、引き裂いてゆく。
その攻撃と死骸で魔物達の出口を塞いだカインは、すぐさま周囲へと視線を走らせていた。
「とは言え、一つ塞いだ程度じゃ意味は無いか……」
車を追って次々と突き出てくる角に、カインは舌打ちする。
姿が見えているのであれば、ミラの術によって簡単に殲滅することが可能だろう。
しかし、雷を操るミラの力では、地面の下に存在する魔物を攻撃する事は出来ない。
まるで狙ったかのような、効果的な攻撃方法であった。
「奴め、狙ってるって訳か」
舌打ちし、カインは宙を駆ける。
これまでの魔物達は、本能のままに襲い掛かってくるが故に――或いは、例え操られていたとしても、策というものを持たない単純思考であったが故に、対処する事はそれほど難しくは無かった。
だが、今はそうは行かない。アルベールという存在が、悪意と知識を持って魔物達を操っているのだ。
圧倒的な数を有する《奈落の渦》が、それだけの思考能力を手に入れた事――それ自体が、人類にとって脅威であると言えるだろう。
「ともあれ、逃げながら迎撃するしかないか」
立ち止まればその時点で狙い撃ちにされる。
足を奪われれば、到着までの時間が大幅に遅れてしまうのは間違いないだろう。
嘆息しつつ、カインは骨格のみの翼を羽ばたかせていた。




