101:失ったもの
レームノスの魔力自動車は、長い距離を高速で駆け抜ける事の出来る最新鋭の乗り物だ。
原理こそ魔力機関車と同様ではあるが、その運動性能や自由度は圧倒的なまでに高い。
だが、それだけの性能を有する乗り物であったとしても、ずっと限界の速度を出し続けられる訳ではない。
《奈落の渦》の魔物達から逃げ続けていた一行の乗る自動車も、それと同様であった。
ミラの術によって魔物達を消し飛ばし、残る魔物をカインとウルカで薙ぎ払った頃には、自動車の動力はオーバーヒート寸前の状態となっていたのだ。
それでもある程度距離を取らねば安心できず、速度を若干落として進んでいたが、日没と共に動力を休ませるため休憩に入っていた。
月の無い夜。見渡す限り一面の闇に覆われた世界で、僅かに周囲を照らす焚き火の光。
それに照らし出されながら、尚も暗い闇を纏う男へと、周囲の警戒を行っているミラが声をかけていた。
「いいの、行かなくて? オリュークスの事……っていうか、あの研究者の事、気になってるんじゃないの?」
「シーフェの事か。ま、否定はせんがな……だが、この闇夜じゃ方角も掴めんし、訳の分からん方向に行っちまうのが関の山だ。それに――」
ちらりと、カインは視線を横へ向ける。
そこには、地面に毛布を敷き、そこに寝かされている一人の少女――リーゼファラスの姿があった。
超越者といえど、魂に対するダメージは無視できるものではない。
その為の休眠を取り続けている彼女は、今の所目を覚ましていなかった。
「今、コイツから目を離す訳には行かん。アウルと、約束したんでな」
「……なるほど、確かに貴方らしいわね」
“死”を尊び、死者の想いを尊重するカインに、アウルの遺志を違える事など出来る筈もない。
美しきものを目にし、満足しながら死んでいったアウルも、リーゼファラスの事だけは心配し続けていたのだ。
執着するものを傷つけられた超越者の怒りがどれほどのものか――それは、《女神》を侮辱されたときのリーゼファラスを見れば一目瞭然だろう。
しかし今回の場合、リーゼファラスはその執着する相手を失ってしまったのだ。
それが彼女に対してどれほどのダメージを与えているか、それはカインにも想像できない事だ。
唯一、不幸中の幸いと呼べる事があるとすれば、カインがリーゼファラスにとって掛け替えのない人間の一人となった事だろう。
少なくとも、寄りかかれるものを全て失ってしまった訳ではない。
「……嫌になるわね、ホントに」
「どうかしたか?」
「私達が付いて来るって言わなければ……リーゼ一人に行かせていれば、こんな事にはならなかったかもしれない」
「もし、の話か。不毛だな」
「分かってるわよ。私自身、あの時の判断が間違っていたとは思わないし、同じ状況なら同じ事を言うでしょう。でも、それでも思ってしまうものよ」
深々と溜息を吐き出し、揺らめく焚き火の明かりを見つめながらミラは呟く。
アルベールという予想外の存在さえなければ、このような状況にはなっていないはずだった。
もしかしたら、星天の王をカイン達が倒していたかもしれない。
誰も死ぬ事なく、凱旋することが出来ていたかもしれない。
――それら全て、『もしも』の話だ。
「仕方ねぇ、とは言わんがな。だが、こうなっちまった以上は、やれる事をやるだけだ」
「カイン、貴方……それほど、ショックを受けてはいないのね」
「それが、俺の性質って事だろう。誰かの死を否定はしないし、あいつが満足して死んだのなら、俺はそれを祝福するさ」
「……そうね、貴方はそういう性質だし、私が哀れむような資格もないか。けど――」
「分かってるさ。引き受けた以上、面倒は見る」
肩を竦め、カインは目を閉じる。
カインとて、アウルを失った事を悔やんでいない訳ではない。
“死”を支配する事を望んだカインにとって、勝手に彼女を奪われた事は痛恨の極みである。
それ故に、アルベールのことは許しがたい存在として認識していた。
(あれを倒せば全て終わる。だが、容易い相手ではない事も事実だ。俺一人でも、リーゼファラス一人でも、届きはしないだろう)
アルベールの力は強大だ。
リーゼファラスと同格であった星天の王を一蹴するだけの力、特異にして強力無比な特殊能力。
超越者に至ったカインとて――否、至ったものであるからこそ、彼我の力の差を理解していたのだ。
少なくとも、無策に挑んで勝てる相手ではない、と。
故に、体勢を立て直す時間は必要だった。戦いにおいても、心を整理する意味においても。
溜息を吐いて、カインは視線を起こす。
少し離れた場所では、ウルカが刃に炎を灯して明かりとしながら、車の整備を行うレームノスの兵を手伝っていた。
明るい内に整備を行っておきたい所ではあったが、見える内は出来る限り距離を稼いでおくために、夜日が落ちてから整備を行っていたのだ。
ウルカも悩み、視線を俯かせていたが、何もせずにはいられなかったのだろう。
「で、だ。これから、どうするんだ?」
「ジュピター様から信託があったわ。私達はオリュークスに戻る予定。貴方も、そのつもりでしょう?」
「……なら、好都合か。あの主神が気づいてるんなら、テッサリアに行っても意味はねぇだろうしな」
この戦争の状況は、今日で大きく変化した。
それが好転したのか、或いは悪化したのかは、渦中にいるカインたちには分からぬ事であったが。
どちらにしろ、終わりが近付いてきている事を、カインは感じ取っていた。
と――その時、毛布に転がっていたリーゼファラスが、僅かに身じろぎする。
その気配を感じ、ミラははっと顔を上げて彼女に駆け寄ろうとしたが、一度踏み止まると、カインに目配せをしてその場から離れていた。
ミラの言わんとしている事を理解し、カインは軽く息を吐き出し、リーゼファラスの傍へと腰をかける。
そして程なくして、ゆっくりと、リーゼファラスは二色の瞳を開いていた。
ぼんやりと虚空を見上げている彼女に向け、カインは落ち着いた調子で声をかける。
「よう、調子はどうだ」
「……ここ、は」
「コーカサスからある程度離れた位置だ。あの場から撤退してきた」
「撤退……ああ、そう、そうでしたね……」
覇気のこもらぬリーゼファラスの声は、弱々しい調子のまま虚空へと溶ける。
しかしそんなリーゼファラスの様子が、何よりも現実を直視し、理解している事を示していた。
やはり強い女であると、改めてそう認識しながら、カインはゆっくりと声を上げる。
「お前に取っちゃ、耐え難い事だろうな。自分を理解してくれる誰かを失う事は」
「……ええ。本当に、滑稽です。貴方に言われるまで、気付きもしなかった」
沈んだ声音のリーゼファラスは、上げた右腕で目元を覆う。
視界に入る何かを、覆い隠そうとしているかのように。
「カイン……私は、どうすればいいのですか。私は、何も……あの子に、報いる事が出来ない」
「お前は十分、あいつの望みを果たしていたさ。だからこそ、あいつは笑って逝った。満足していたんだ。だからこそ、俺は……あの終わりを、否定する事は出来なかった」
名前を呼ぶ事を恐れるかのように、二人は言葉を交わす。
カインの脳裏に浮かぶのは、話題に上がる彼女の――アウルの死に際の表情だ。
口元を血で汚しながらも、あまりにも美しすぎる笑みを浮かべて事切れた彼女。
彼女の“死”を――カインは、決して否定しない。
「リーゼファラス。お前は、誇っていい。お前は確かに、あいつを……アウルの事を、幸せにしてやったんだ。あいつの為に、誇ってやれ」
「……それでも、私は……あの子に、一緒にいて欲しかった……!」
リーゼファラスの言葉の中に、僅かな嗚咽が混じる。
この場で泣き喚かないだけ、彼女は己の精神を制御する事が出来ているだろう。
けれど、執着の対象を奪われたリーゼファラスが受けたダメージは並みのものではない。
下手をすれば、このまま折れてしまいかねないほどに。
(それは、嫌だな)
反射的に脳裏に浮かんだ言葉に、カインは思わず苦笑する。
戦力としての話でもなく、大局としての考え方でもなく――己の認めた女であるリーゼファラスが、こんな形で倒れてしまうのが、認められなかっただけだ。
理想の押し付けでしかないが、カインはこれまで、乗り越えるべき壁としてリーゼファラスを見つめ続けてきたのだ。
一種、憧れのような思いを抱いてきた対象であり、彼女がその輝きを曇らせてしまう事が、カインには許せなかった。
故に――カインは、手を伸ばす。
「リーゼファラス、起き上がれるか? 少し、付き合って欲しい」
「……カイン? いえ、構いませんが……」
僅かに嗚咽の滲む声で、顔を背けながらリーゼファラスは首肯する。
ゆっくりと起き上がる彼女に手を貸しながら、その手を逃がさぬように掴み、カインは声を上げる。
「アウルの亡骸に処置を施したい。このまま腐らせるのは忍びないが、お前に許可を取らずにやる訳にも行かないからな」
「っ、それは……!」
「見るのが辛いか? だが、お前はここで逃げるような女じゃないだろう?」
「……分かっています。私も……いえ、私こそが、あの子を見送らなければ」
掴んでいるカインの手を強く握り返しながら、リーゼファラスは悲壮な色を交えつつも毅然とした表情で顔を上げる。
彼女は、己の責任から逃れるような真似はしない。それは、彼女を見続けてきたカインが知り抜いている事だ。
そんな彼女の姿を見られた事で、カインは僅かに口元を綻ばせる。それでこそ、誇り高い聖女だと告げるように。
「行くぞ、こっちだ」
リーゼファラスの手を引き、カインは歩き出す。
手は握ったままであったが、不思議と離すつもりにはなれなかったのだ。
リーゼファラスも、大人しくその手を引かれている。強い責任感を持つ彼女といえど、アウルの存在は特別だったのだ。
ともすれば逃げ出してしまいたくなる足を押さえつけるため、リーゼファラスはカインの手を離せずにいた。
彼女がそんな僅かな迷いに逡巡している内に、二人は目的の場所まで辿り着く。
自動車の近く、アウルが寝かされた場所へと。
「ッ……!」
体温と血の気を失った、凍えるほどに冷たい身体。
胸にぽっかりと開いた穴からは、既に流れ出る血すら存在しない。
失われた、一人の少女。その亡骸を前に、リーゼファラスは歯を食いしばって表情を歪める。
だが、それでも決して、アウルから目を逸らそうとはしなかった。
そんな彼女の姿を横目に見て、カインは小さく声を上げる。
「リーゼファラス」
「分かって、います……カイン、この子をどうやって葬るつもりですか?」
「ん、ああ。俺の力を使うんだ。お前にとってはきっと、こうした方がいいだろうからな」
言って、カインはアウルへと向けて掌を翳す。
瞬間――アウルの身体が、周囲の夜闇に溶け込むように黒い色に包まれ、その形を徐々に崩し始めた。
目を見開くリーゼファラスを他所に、カインはそのまま己の力を、“死”を操る力を注ぎこむ。
アウルの身体は黒く染まり、漆黒の霧となって解け――それが、カインの手の中で一つの形に集束する。
――一振りの、刃へと。
「……成程。お前は随分と、これの事を気に入っていたんだな」
苦笑と共に、カインは手に納まった刃を見つめる。
カインが操るファルクスや大鎌と同じ、漆黒に染まった“死”の刃。
しかし今現れた刃の形状は、カインが操るそれとは全く異なっていたのだ。
肉厚の、大型ナイフ。頑丈で、いかなるものでも解体できてしまうのではないかと錯覚するほどの逸品。
見間違えるはずも無い、アウルが愛用していた大型のナイフ――それが、黒く染まってカインの手の中に納まっていた。
「それは……カイン、それがアウルなのですか」
「ああ、そうだ。アウルの“死”と、魂の結晶。力を感じるだろ?」
「ええ……信じがたいですが、《分断》の気配を感じます」
この漆黒のナイフからは、アウルの操る欠片、《分断》の気配を感じ取ることが出来たのだ。
それはつまり、アウルの魂が、今この刃の中に宿っているという事に他ならない。
強力な力のこもった、一振りの刃。カインはそれを、リーゼファラスへと向けて差し出していた。
「ほらよ、お前が持っとけ」
「いいの、ですか。貴方の力によるものでしょう?」
「構わんさ。こいつも、お前に支配された方が幸せだろうよ」
頷いたリーゼファラスは、差し出されたナイフの柄を掴み、ゆっくりとそれを持ち上げる。
自身で握ることなど滅多になかった、アウルのナイフ。けれど、懐かしさにも似た感覚を感じ取り、リーゼファラスは口を噤んでいた。
そうしなければ、喉奥からせり上がってきた嗚咽を我慢できなくなってしまいそうだったから。
そして、同時に理解する。己が、どうするべきなのかを。
「貴方、は……私を、私の中身を、美しいと言ってくれましたね」
ナイフを逆手に持ち、両手で押さえて、ゆっくりとそれを持ち上げる。
自らへ向けた切っ先へ、語りかけるようにしながら。
「ならば私は……貴方を、拒絶しません」
――それを、躊躇う事なく己の胸へと突き刺していた。
「ぐ、ぅ……ッ!」
苦悶の呻きが、リーゼファラスの口から零れ落ちる。
あえて自らの防御能力を弱め、カインの力の一部である“死”の刃を突き立てたのだ。
苦痛があるのは当然であるし、下手をすればそのまま死に至りかねない行為である。
しかし、リーゼファラスはそれを決して止めようとはせず、カインもまた黙って見守っていた。
突き立った傷口から、血が吹き出るような事は無い。
その刃が突き刺さった部分は水晶と化し、黒い刃へと干渉をかけているのだ。
――刃に込められた、アウルの力を支配する為に。
「あ、あああああああッ!」
超越者は、己以外の存在の力を支配する事が可能だ。
しかし、それは非常に特殊なケースであり、誰もが真似を出来る事ではない。
だが、リーゼファラスとアウルならば。長い間行動を共にし、互いが互いを必要としていた二人ならば。
沈みこむ刃は徐々に抵抗を失い、水晶と化した胸を貫いて、体の中へと一気に飲み込まれる。
自らの胸を押さえ、荒い息を吐き出すリーゼファラスは、満足気な笑みを浮かべてその場に崩れ落ちていた。
そんな彼女を抱き留めて、カインはいつも通りの笑みを浮かべる。
「流石だな、リーゼファラス」
「ふ、ふふ……とうぜん、です」
自らの内側に埋め込まれた異物、蝕む“死”の感覚を、リーゼファラスはあえて受け入れ、己の中へと飲み込んでゆく。
未だ完全ではなく、リーゼファラスは著しく消耗していたが、浮かべられた表情は失われていた笑みだ。
満足そうに、嬉しそうに笑いながら、己の胸を抱きしめてリーゼファラスは呟く。
「ずっと、いっしょですよ……おやすみなさい、アウル」
カインの腕の中で――リーゼファラスは、別れの言葉を告げていた。




