16時16分のおうちカフェ
ガラー、と古びた引き戸を引いた瞬間、涼しいエアコンの風とともに香ばしいエスプレッソと甘いキャラメルの匂いが押し寄せてきた。
「うわぁ、涼しい〜! 生き返る〜っ!」
真っ先に滑り込んだのは、太陽みたいな笑顔の陽向だ。
ポニーテールを大きく揺らし、一瞬でカフェの静寂を塗り替える。
ここ『みんみん』は、築100年以上の長屋を改装した人気の古民家カフェだ。
使い込まれた欅の柱、格子窓から差し込む斜光、そして重厚な黒光りする床板。
レトロで落ち着く空間なのに、放課後のこの時間帯だけは、近隣の高校生たちの熱気で密かに賑わっていた。
壁に掛けられたレトロな柱時計を見ると、針は16時16分を指している。
終校ベルが鳴って、部活が休みの私たちが学校を飛び出し、このカフェの最後の一卓に飛び込むまでの、完璧なタイムライン。
「陽向、声が大きいって。ここ、おしゃれな古民家カフェなんだからさ」
苦笑しながら続いたのは葵。
整った顔立ちを少しすまし顔にして、スマホの画面に目を落としている。
ホーム画面には、登校途中に見かけたという野良猫の写真。
「いいのいいの! 今日は吹奏楽も陸上もバレー部もみーんな休み! つまり、奇跡の放課後ってわけ!」
私は二人の後ろから「はいはい」と笑いながら、文机をリノベーションした低い四人掛けの席についた。
私の名前は美咲。高校二年生。
休日はアニメの推し活に全力を注ぐ、どこにでもいるオタク女子だ。
「すみませーん! 『キャラメルショコララテ』3つください!」
陽向が即座に注文する。
そう、私たちの今日のお目当てはこれだ。
古民家『みんみん』の名物メニュー。
じっくり淹れた濃厚なエスプレッソに、ほろ苦いキャラメルソースとフワフワのフォームミルク、そして削りたてのダークショコラが贅沢にトッピングされた絶品ラテ。
しばらくして、厚みのある和陶器のマグカップが3つ、目の前に並べられた。
「キャー! 奇跡のビジュアル! 映えすぎる!」
陽向がすかさずスマホを掲げる。
「ちょっと待って、葵の猫のキーホルダーも画角に入れて。美咲、その推しの缶バッジは……あ、ちょっと見切れさせるくらいがおしゃれかも!」
「えー、ちゃんと推しの顔入れてよ」
「だめ、ストーリーの統一感が崩れる!」
そんなやり取りをしながら、私たちは角度を変えて何枚も写真を撮る。
インスタのストーリーにアップして、エフェクトを選んで、互いの投稿に「いいね」を押し合う。
令和の女子高生にとって、これはもはや食事前の儀式のようなものだった。
「ん〜〜っ! おいしいっ!!」
陽向がラテの泡を鼻の頭につけて声をあげる。
私も一口すする。
香ばしいキャラメルの甘みとショコラの苦みが、冷房で少し冷えた体にやさしく染み渡っていく。
「ねえねえ見た? さっきのTikTokのトレンドダンス」
「あー、あの韓国のグループのやつでしょ? 葵、絶対似合うと思う」
「無理無理、私ダンスなんて踊ったら猫パンチみたいになるから」
「何それ、それ絶対バズるじゃん!」
たわいもないLINEの通知音と、ストーリーの閲覧数が伸びていくのをチラチラ確認しながら、話題は次から次へと飛んでいく。
推しのアニメの新シーズン、来週のテストの範囲、TikTokで流れてきた可愛いコスメ。
16時30分。
格子窓の外を、同じ制服を着た生徒たちが通り過ぎていく。
西日がすりガラス越しに店内をオレンジ色に染め上げていた。
琥珀色の光の中で、ふと会話のエアポケットが訪れる。
「……ねえ」
陽向が、マグカップの両手持ちをしながら、ぽつりと呟いた。
「うちの学校、来月の三者面談で『進路希望調査票』の提出じゃん。みんな、もう決めた?」
その言葉に、私と葵はピタリと手を止めた。
それまで弾んでいた空気が、一瞬だけ大人びたしずけさに包まれる。
「進路かぁ……」葵がラテの泡をスプーンですくいながら、ため息をついた。
「私、全然。お母さんは『地元の短大でいいんじゃない?』って言うけど、なんかピンと来なくて」
「私もだよー」陽向がテーブルに突っ伏す。
「体育会系だし保育とか子供と遊ぶのは好きだけどさ、具体的に『これ!』っていうのがなくて。毎日部活とインスタで手いっぱいなんだよね」
ふたりの視線が、私に集まる。
「美咲は? アニメ関係の専門学校とか?」
「ううん……」私は首を振った。
「アニメは大好きだけど、それを仕事にするのはちょっと違うかなって。絵が描けるわけでもないし。……実はね、私、ずっと迷ってることがあって」
「なに?」
ふたりが覗き込んでくる。
古民家の太い柱に刻まれた傷や、カチコチと響く時計の音が、なんだか私たちの背中を静かに押している気がした。
「私、アニメの『医療もの』とか『救命もの』を見るのが大好きなのね」
「うん、美咲、医療アニメ観て毎回ボロボロ泣いてるもんね」と葵。
「そうなの。でね、主人公のドクターもかっこいいんだけど……私、いつもその横で患者さんの手をとったり、不安そうな家族に声をかけたりしてるナースの人に目がいっちゃうの。
アニメの中だけじゃなくて、実際に自分が体調崩したときも、看護師さんが優しく声をかけてくれただけで、すごくホッとしたことがあって」
私は照れくさくなって、キャラメルショコララテのカップをぎゅっと握りしめた。
「私、誰かが一番不安なときに、隣で『大丈夫ですよ』って笑ってあげられる人になりたい。……看護婦さんになりたいんだなって、最近やっと思った」
言い終えて照れくささに顔を上げると、陽向と葵が目を見開いていた。
「……すごーい! 美咲、めちゃくちゃ似合う!!」 陽向がバシッと私の肩を叩く。
「絶対いい看護婦さんになるよ! 美咲って話聞くの上手だし、推しを語るときの情熱、患者さんへの愛にスライドしたら最強じゃん!」
「うん、すごく美咲らしいと思う」葵も柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、もし私が将来入院したら、美咲が担当してね」
「もう、演技でも入院なんてしないでよ」 私が笑うと、今度は葵が窓の外の空を見上げた。
遠くを飛んでいく飛行機の飛行機雲が、夕焼け空に白く細い線を引いていた。
「……私ね」 葵が静かに口を開いた。
「さっき猫の写真見せたでしょ? 私、困ってる人とか、言葉が通じない動物とかが『安心できる空間』を作るのが好きなのかも」
「どういうこと?」と陽向。
「私、英語が好きでしょ? で、色んな国の人と話すのも、接客するのも好き。……実はね、飛行機に乗るのが夢なの。空の上っていう、ちょっと不安で特別な場所で、いろんな国の人に『大丈夫ですよ、快適に過ごしてくださいね』って言える仕事。
キャビンアテンダント……CAさんになりたいなって、密かに思ってた」
「えぇっ!? キャビンアテンダント!?」 陽向が声を張り上げ、隣の席のお客さんに「しーっ」と手で制される。
「かっこよすぎる! 葵、スタイルいいし、英語ペラペラだし、制服絶対似合う! 私が乗客なら、葵がCAさんだったら絶対安心する!」
「ありがと。まだ身長とか語学力とか、課題は山積みだけどね」 葵は少し照れながらも、その目はまっすぐに未来を見据えていた。
「じゃあ……」 最後に残った陽向が、自分のマグカップを見つめて、ニッと笑った。
「決まりだわ」
「え? 陽向は?」
「私ね、やっぱり子供が大好きなんだよね。いとこの赤ちゃん抱っこしたときも、陸上部の地域ボランティアで小学生に走り方教えたときも、心の底から楽しかったの。子供たちの『できた!』って笑顔を見るのが、私のエネルギーなんだなって」
陽向はラテの上のショコラをスプーンですくい、嬉しそうに口に運んだ。
「私、保育士さんになる! 毎日子供たちと走り回って、太陽みたいな先生になるの。美咲が看病して、葵が空を飛んで、私が子供たちを育てる。……ねえ、私たち、めちゃくちゃ最強のトリオじゃない!?」
「あはは! なにそれ、職種バラバラじゃん!」
「でも、なんかいいね。全員『誰かを笑顔にする仕事』だ」
葵の言葉に、私と陽向は深く頷いた。
ほんの数分前までは、「進路どうしよう」「大人になりたくないね」なんて笑い合っていたのに。
この古民家カフェ『みんみん』の、16時16分から始まった琥珀色の時間の中で、私たちの未来はかすかに、けれど確かな光を放ち始めていた。
「よし、忘れないうちにスマホのメモ帳に書いとこ。『第一希望:看護学部』っと」
「私も『外国語学科・エアラインコース』って調べる!」
「私は『幼児教育学科』! 面談で先生を驚かせてやるんだから」
カチャン、と3つの和陶器のマグカップが中央で重なり合った。
少しぬるくなったキャラメルショコララテは、最初の一口よりもずっと甘く、私たちの口内に広がっていった。
柱時計が、ポーンと17時の音を奏でる。
格子窓の外は、すっかり深い紫色の夕暮れに包まれていた。
「ねえ、ストーリー更新しよ」
陽向が3人の手を重ねた写真を撮る。
『16時16分の放課後。うちらの未来、本日決定しました!』
キャプションを添えてアップロードした瞬間、画面いっぱいにハートのリアクションが弾けた。
令和の女子高生の、何気なくて、けれど一生忘れない特別な放課後。 私たちは少しだけ大人になった顔で、笑いながらカフェの扉を開けた。




