愛するということは、
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「聖女様、本日のお祈りの時間でございます」
幼い頃から聞き馴染んだ声に、私はそっと目を開けた。
平民の生まれだった私は、五歳の頃に教会で聖女として判定され、そのまま神殿へと引き取られた。それ以来、私の世界は神殿と、たまに訪れる地方巡業の馬車の窓から見える景色だけとなった。
毎日毎日、国の平和を、民の幸せを神に祈る。
それが私のすべてだった。
―― 幸せってなんだろう……
そんな疑問が胸を過るようになったのは、いつからだっただろうか。
神殿に上がった頃からの顔見知りである第一王子・セドリック様が、ある日私にプロポーズしてきた時、その疑問はさらにふくらんだ。
「君は、僕を『王子』として見ていない。一人の男として接してくれる。だから結婚してほしい」
セドリック様は真剣な目でそう言った。けれど、私は心のどこかで冷ややかに思っていた。
彼が私を選んだのは、私が『聖女』だからではないのか。もし私がただの平民の娘だったら、そもそも王子が目を留めるはずもない。
それでも、私の心には小さな憧れがあった。
巡業の途中で見かける、街の片隅にもある幸せ。普通に恋をして、普通に結婚して、子どもを産んで、家族で笑い合って暮らす――そんな「普通の女の子の生活」に、私はずっと憧れていたのだ。
その後、再びセドリック様から求婚されたとき、私は意を決して尋ねた。
「セドリック様。私は人間です。もし私が結婚して、ただの妻となり、母となれば、聖女の力は失われるでしょう。
……私が聖女でなくなっても、それでも私を愛し、結婚してくださいますか?」
セドリック様は息をのんだ。その綺麗な顔が、みるみるうちに困惑へと染まっていく。
彼は口をもごもごと動かしたが、最後まで明確な言葉を返すことはできなかった。
それから一週間ほど経った頃、セドリック様が沈痛な面持ちで私の元を訪れた。
「……すまない。父上に、君との結婚を了承してもらおうとしたのだが、『国のために聖女を失うわけにはいかない』と反対されてしまった。……僕は、侯爵令嬢と結婚することになった」
「……そうでございますか」
私はただ、静かに微笑んだ。
あの日、その場で答えられなかった時点で、分かっていたことだ。
セドリック様は確かに私を好きでいてくれていたのだろうと思う。
でもそれ以上に、彼が私に求めるのは、『聖女』であるということだったのだろう。
「どうぞ、お幸せに――」
一ヶ月後、王宮でセドリック様の婚約披露パーティーが開かれた。
そこに聖女として出席した私を待っていたのは、手酷い罠だった。
「まあ、よくもぬけぬけと来られましたわね! 平民上がりの分際で、聖女の立場を利用してセドリック様をたぶらかそうとした悪女が!」
セドリック様の婚約者となった侯爵令嬢のヴィクトリア様が、大広間の中心で私を指差して叫び、周囲の貴族たちがざわめき立った。
「やめるんだ! 違う、彼女はそんなことをしていない!私が勝手に好きになっただけだ!」
セドリック様が慌てて否定してくださったが、周囲の耳には届かない。
それどころか、壇上にいた王妃様まで「あの子がここまで庇うなんて、やはり聖女にたぶらかされたも同然ですわ」とばかりに冷ややかな視線を送ってくる。
見かねた国王陛下が、威厳のある声で一喝した。
「静粛にせよ! セドリックが聖女に恋い焦がれたが、国のために諦めてもらっただけだ。聖女に一切の非はない!」
国王陛下が直々に真実を告げてくれたことで、その場の騒ぎは収まった。
でも、その様子はそこだけにとどまらず、街の平民たちにまで「聖女が王子を誘惑した」という噂となって広がっていった。
「おい、あれが王子様をたぶらかしたっていう聖女サマだぜ」
「平民のくせに」
「身の程知らずにも程がある」
神官たちが噂を否定しかばってくれていたが、私への風当たりは日に日に強くなっていった。
地方巡業に出ても、聞こえてくるのは国民からの嫌味や陰口ばかり。
そしてある日、神殿で祈りを捧げていた私の前に、ヴィクトリア様が現れた。
「いつまで聖女の顔をしてここにいるつもりなの。 目障りなのよ!」
彼女の激しい言葉とともに、侍女が私に向けて、バケツに入った汚い泥水を浴びせかけた。
冷たい泥水が、真っ白な聖女の法衣を汚していく。
ポタポタと地面に落ちる泥の音を聞きながら、私の中で何かがぷつりと切れた。
冷たい泥が頬を伝い、髪から落ちる。
胸が苦しい、悲しい、悔しい。でもそれ以上に、疲れてしまった。
こんな国のために、私は五歳の頃から毎日、必死に祈ってきたのか。
―― もう、いいや
一人残された私はその場に膝をつき、泥に塗れた手を胸の前で組んで、心から神様に祈った。
『神様、お願いです。私を、もう聖女じゃなくしてください』
その瞬間、圧倒的な神威が王国を包み込んだ。
空気が張り詰め、重苦しく人々に圧し掛かる。
そして天から、地を揺るがすような恐ろしい神の声が、王宮の国王と神殿の上位の神官たちの脳裏に直接響き渡ったのだ。
人の子らよ。
お前たちが我が愛しき聖女にこれほどの仕打ちをするならば、
聖女の役目を終わらせよう。
もし今後、元聖女に対して少しでも嫌がらせを働く者があれば、
我が怒りをもって、この国を滅ぼそう。
神託を受けた国王陛下と大神官様は、顔を真っ青にして即座に行動を起こした。
すぐさま神託の内容が国中に公開され、「元聖女を害することを固く禁ずる。違反したものは厳罰と処す」という厳格なお触れが出された。
私に泥水をかけたヴィクトリア様は、当然ながら即座に婚約破棄された。
また、彼女の実家である侯爵家は伯爵家へと降爵され、彼女自身は二度と出られない遠方の修道院へと幽閉されたようだった。
そしてセドリック様は、少し後で隣国の王女を妻に迎えた。
こうして私は、ただの『元聖女』の平民になった。
だけど、五歳から神殿にいた私は、もう両親の顔も覚えていないし、今更帰れる実家などない。
行くあてのない私は、思い切ってこの国を旅してみることにした。
「神殿の中しか知らなかったから。これからは自分の足で、人々の暮らしを、色々な場所を見てみたい」
そう言ったら、小さな頃から私をかわいがってくれていた大神官様も国王陛下も、「今までずっと国のために祈ってくれていたのだから、これくらい当然だ」と言って、旅の資金や手配など、手厚く支援してくれた。
出発の前夜、私は鏡の前に立った。
元聖女だと分からないように、これまで大切に伸ばしてきた聖女らしい長く美しく整えられた髪をハサミでばっさり切り落とす。
聖女の象徴だった純白の法衣を脱ぎ捨て、どこにでもいる普通の旅人が着るような、地味な麻の服に身を包む。
「それじゃあ、出発しましょう」
翌朝、短くなった髪を揺らして微笑む私の後ろに、三人の影が続いた。
聖女だった時から私の護衛を務めてくれていた二人の騎士、ジークとロイドと、私専属の侍女だったリリアだ。
「聖女様―― あ、いえ、お嬢様。私たちを置いていくなんて、ダメですよ」
「俺たちの主は、神殿ではなくあなたですからね」
「ふふ、ありがとう。でも、これじゃ今までやってた地方巡業と変わらないわね」
私たちは顔を見合わせて笑い合った。
そうして私の旅は始まった。
旅が始まってすぐ、私の心には新たな、そして深い悩みが生まれていた。
聖女をやめたので、憧れていた「普通の女の子の生活」を目指してみる。それはよい。
ただ、そもそも「人を好きになるって、どういうことか」という根本的なことがよく分からなかったのだ。
五歳から神殿にいた私には、男と女の愛というものは物語の中だけのお話で、未知の領域のことだった。
旅の途中で、私は様々な夫婦に出会った。
親同士が決めた政略結婚から始まり、年月を重ねるうちにお互いの誠実さに惹かれ合って深い愛を築いた夫婦。
周囲の大反対を押し切って熱烈な恋愛結婚をしたのに、激しい恋心が冷めた後はすれ違いばかりで憎み合って別れてしまった夫婦。
同じ村で同じ年で産まれ、他に相手もいなくちょうどよかったので結婚して、昔から今も変わらず『家族』として生活を続けているだけと言った夫婦。
「条件から始まっても愛が育つこともあれば、あんなに愛し合っていても壊れることがあるのね……。ますます分からなくなっちゃったわ」
悩んだ私はある夜、日課となっているお祈りの後で、思い切ってリリアに問いかけてみた。
リリアはジークと付き合っていた。聞くには打ってつけだ。
「ねえ、リリア……人を好きになるって、どういうことなの?
リリアは、ジークのどこを好きになったの?」
私の突然の質問に、リリアは少し驚いたように目を丸くし、それからポッと頬を赤くした。
「そうですね……。格好いいところとか、頼りになるところとか、最初はそういう分かりやすい部分に目を奪われていたかもしれません。でも、本当に好きだと自覚したのは、私の格好悪いところや、失敗して落ち込んでいるところも全部ひっくるめて、隣で優しく笑って慰めてくれた時ですかね。この人と一緒なら、どんな明日でも怖くないって思えたんです。
お嬢様、誰かを好きになるって、きっとその人といる時の自分も好きになれる、そういうことじゃないでしょうか」
「その人といる時の、自分も……」
私は彼女の言葉を噛み締め、さらにずっと気になっていた疑問を口にした。
「……じゃあ、恋とか『好き』っていうのと、さっきの夫婦の話にあったような『愛』の違いって、何なのかしら?」
リリアは人差し指を顎に当てて、少しうーんと考えた後、優しく微笑んで答えてくれた。
「これは私の個人的な考えですけど……
『好き』は、相手のきらきらした良いところばかりが見えて、その人を手に入れたい、独り占めしたいって思う、自分の気持ちじゃないかなって思います。
でも『愛』は、相手のダメなところも全部受け入れて、自分のこと以上に相手の幸せを願うこと、なんじゃないでしょうか。
ただの『好き』はいつか冷めることもあるけれど、お互いを思いやる『愛』に変われば、どんなことがあっても一緒に乗り越えられる絆になるんだと思います」
「……愛は、相手の幸せを願うこと」
私は心の中で、その言葉を何度も繰り返した。
その頃、外で夜番をしていたロイドが、窓越しに真剣な目でこちらを見ていたことには、まだ気づいていなかった。
旅の途中、聖女は要所要所で、静かに国の平和を祈り続けていた。
髪は短く、一般の旅人の服を着ているが、その祈りの姿で街や村の人々は気付いていた。
『聖女』がいなくなった国が、今も変わらず平穏である理由。
だが、国からは「接触禁止」の厳命が出ている。
だから皆、決して声はかけず、遠くからそっと感謝を捧げていた。
長い旅が続いていたある日、ずっと一緒に旅をしてきたジークとリリアが、ついに結婚することになった。
二人のささやかで温かい結婚式を眺めながら、私は「やっぱり、結婚って素敵だな。いいなぁ」としみじみ感じていた。
かつてリリアが語ってくれた「その人といる時の自分も好きになれる」「相手の幸せを願う」という意味が、幸せそうに微笑む二人の姿を見て、ようやく分かりかけた気がしたのだ。
そんな私の隣に、ロイドがそっと歩み寄ってきた。
「結婚っていいね。聖女じゃなくなったから、いつか私もできるかしら」
そう話す私に、彼は少し緊張しながら、私の目を見つめて言った。
「お嬢様は結婚したいって思ってるんですか?やっぱりセドリック様のことが忘れられないのでしょうか」
久しぶりに聞いたその名前に、私は驚いてしまった。
「セドリック様? 今の今までずっと忘れていたわ。というか、私別にセドリック様のこと、なんとも思っていないわよ。ただ、昔から話し相手になってくれて気安い相手ではあったけれど」
そう言うと、彼はあからさまにホッとした顔をした。
「そうなのですね。てっきりセドリック様のことを想い続けておられるのかと思っていました。
では、誰か心に想われてる方はいらっしゃらないのですか?」
「人を好きになるっていうこと、まだよく分からなくて……」
そう答えた私に、彼は続けた。
「 ……私は、神殿にいた頃から、ずっとお嬢様のことが好きでした。
毎日毎日、聖女でなくなってからも国のため民のために祈りを続ける、そんなあなたをずっと好きでした。もしよければ、俺と結婚してくれませんか?」
「え……? でも、私はもう聖女でも何でもないわよ。」
戸惑う私に、彼は優しく、包み込むような微笑みを向けた。
「聖女だとか聖女じゃないとか、そんなことどうでもいいんです。俺は、あなたという人が好きなんです。人を好きになる意味も、愛の違いも、これから二人で一緒に見つけていけばいい。俺が、あなたを幸せにします。だから、俺と結婚してください」
「――!」
胸の奥に温かいものがこみ上げてきて、満たされていくのが分かった。
セドリック様が躊躇した、私がずっと欲しかった言葉。
条件でも、肩書きでもない、私という人間そのものを丸ごと受け入れ、私の幸せをただ真っ直ぐに願ってくれている。それがとても嬉しかった。
そして、私は、彼が好きだと言ってくれた自分のことをとても愛おしく思えた。
―― あ、そっか……これが『愛』をする、『愛する』ってことなのね
ずっと探していた答えが、今この時、すとんと胸に落ちてきた。
私も彼のダメなところを全部ひっくるめて受け入れたい。彼の隣で一緒に笑い、彼の幸せを誰よりも願いたい。
「はい…… 私でよければ、喜んで!」
旅の目的を果たした私は、王都に戻って結婚することを報告しに行った。
「娘を嫁に出す気分だ」「育てた覚えはありませんが気持ちは分かります」
そういって国王陛下も大神官様も、心から祝福してくれた。
その後、私たちは旅を終え、王領の端の小さな町で静かに暮らし始めた。
時を同じくして、先に結婚したジークとリリア、そしてロイドと私に、可愛い赤ちゃんが生まれた。
賑やかで、温かくて、愛にあふれた、私がずっと憧れていた「普通の女の子の生活」。
そんな日々の中で、私の中の愛は、より深くなっていった。
私は今でも、毎朝家族が起きる前に、愛する夫と子どものため、そしてこの国の幸せのために、静かに祈りを捧げている。
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元聖女の純粋な祈り。
それに守られた国は、人々の感謝の心と共に、いつまでも平和に栄え続けた。
突っ込まれる前に書いておきますが、「愛する」は一つの動詞で「恋をする」のように分割しないってチャッピーにも言われています。でも、あのフレーズをどうしても使いたかったので使いました。




