百円玉が静止した日
1
すべての始まりは、探求心でも狂気でもなく、ほんの些細な「偶然」だった。
新入生歓迎会で賑わう大学の中庭。
ベンチで缶コーヒーを飲んでいた山崎は、ふと手から百円玉を落とした。
チャリン、というくぐもった音。普通なら、何度か弾んで足元に転がるはずだ。
だが、その百円玉は弾まなかった。
アスファルトの地面に落下する直前。0.5秒程度、空中に留まってから、ようやく落下した。
周囲の喧騒の中、新入生の集団やサークルの勧誘員たちは誰も気づいていない。
だが、山崎はそれを見逃さなかった。
彼は、百円玉を拾う。そして、同じ場所で、同じ角度から落としてみた。
今度は普通に落下して、弾んで転がった。二回、三回と試すが、現象は再現しない。
普通なら「目の錯覚だ」と忘れるだろう。
だが、山崎は違った。
彼の頭のネジは、致命的な方向へ柔軟だった。
「なるほど。常にバグってるわけじゃない。神様が『確率』で演算をサボった一瞬を、俺が偶然引いただけか」
世界からすれば、それは広大なオープンワールドの片隅で起きた、ごく微小な処理落ちに過ぎなかった。
しかし、たった一人だけ。
絶対に「見逃してはいけない人間」に、それを見られてしまったのだ。
この日、山崎は大学の生協で一冊のノートを買った。
『四月一日:中庭のベンチ横。百円玉が0.5秒程度空中に留まってから落下した。』
世界にとっての最悪のクレーマーが、産声を上げた瞬間だった。
2
そこから、山崎の行動は常軌を逸し始めた。
彼は「偶然のバグ」を「意図的に再現」することに執着した。
サークル棟の裏手。他の学生たちが講義や遊びに向かう中、山崎は一人、デジタルノギスとストップウォッチを手に、ひたすら壁に向かってスーパーボールを投げ続けていた。
一回、十回、千回。
反発係数の微細なズレを計測し、ノートに記録していく。
「あ、今サボった。壁のテクスチャがコンマ二秒だけ遅れた」
山崎が楽しげに呟くたび、その空間の「描画負荷」が跳ね上がる。
世界からすれば、山崎は、めちゃくちゃ重箱の隅をつついてくる、最高にめんどくさいユーザーだった。
「偉人たちは賢かった。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、『万有引力』なんてそれっぽい仕様書をでっち上げて、この手抜き世界に協力してあげたんだから」
山崎はノートの余白に走り書きする。
「でも俺は嫌だね。バグはバグだ。隠さずに全部暴いてやる」
3
山崎の「異常な観測」に、世界はついに悲鳴を上げ始めた。
彼の周囲だけ、セミの鳴き声が電子ノイズのようにループし、影が本来とは逆の方向へ伸びる現象が頻発した。
山崎は、キャンパス外縁にある「旧・資材置き場」に目をつけていた。
そこは大学の敷地内でありながら人が寄り付かず、世界にとって最も演算を手抜きしている死角だった。
『六月二十日:資材置き場のコンクリート。ここはヤバい。描画エンジンが追いついてない。俺が注視するだけで、空間が割れそうだ』
彼はそこに立ち、わざと複雑な動きをした。
水たまりの表面張力と重力が干渉するポイントに、正確なリズムで石を落とし続ける。
「ほら、計算してみろよ。逃がさないぞ」
システムがパンクした。
「――ッ!!」
音のない衝撃。
山崎の視界が、上下に反転した。
重力の設定値がオーバーフローを起こし、彼一人だけが「空に向かって落ちる」という致命的なバグの中心に放り込まれた。
「ははっ、すごい! 本当にひっくり返った!」
逆さまの世界で、山崎は狂喜しながらノートに書き殴る。
4
夏休みが目前に迫る頃。
世界はついに、クレーマーに対する最終処理を決定した。
山崎の右手が、時折デジタルノイズのように砂嵐となって透ける。
システムの自己防衛機能が、山崎というデータを削除し、無害な一般データで上書きするプロセスに入ったのだ。
「……あーあ。神様、本気でキレちゃった」
山崎は、自分の存在が消えかかっていることを自覚しながら、自宅でノートを閉じた。
彼は自分が消された後、この世界が何事もなかったかのように平穏なフリを続けることを知っていた。
「俺みたいなめんどくさいやつが、もう一人くらい現れても面白いんだけどな」
部屋の窓から差し込む、眩しい夏の日差しが、山崎の輪郭を白く焼き切っていく。
システムが『エンターキー』を押したかのように、彼の姿が光の中に霧散した。
……数秒後。
そこには「山崎」という名の、ただの大人しい青年が座っていた。
彼の手にはノートはなく、その瞳にはもはや、世界の綻びを捉える異常な好奇心は微塵も残っていない。
「あれ、俺……何しようとしてたんだっけ。まあいいか」
初期化された彼は、気怠そう虚空を見つめる。
足下の一冊の薄汚れたノートには気にも止めず。
世界は一つ息を吐き、再び「手抜き」の日常描画を再開した。




