008
傷の治療はすぐに終わったし、毒の方も問題ないとのことだった。シキはアリーに抱えられ、自室に帰ってきた。吐き気は未だに止まらず、しばらくトイレに籠った。でも吐くものがなくなり、苦しいだけになる。
「シキ」
後ろから名前を呼ばれる。シキは振り返らずに「何」と短く返した。
「お水です。飲んでください」
冷蔵庫にシキが入れておいたものだ。ありがたく受け取って、居心地の悪い食道に流し込んだ。
ペットボトルの蓋を閉めた瞬間、シキは疲れていたからかその動きに反応できなかった。アリーが近づき、唇を重ねてきたのだった。
「ちょっ、ぅ……」
舌が割り込んでくる。シキが逃げようとするのを、アリーが頭を抱えて対処する。
「このままここでします?」
「……」
シキはトイレの水を流し、ベッドの方へ移動した。いくら体調不良と言えど、トイレでするキスにはロマンがないと思ったからだ。
座ったままするつもりでいたが、シキはいとも簡単に押し倒される。力では妖精に敵うわけがなかった。
前回は三十分もかからなかったが、今回のキスはプラス一時間以上もかかった。魔力が安定するよりも先に体力が尽きそうだった。
もう夜中というより朝方という時間になりつつある。不思議と眠くはなく、シキはアリーの腕の中で今日の振り返りをしていた。
学園はなんて仕事が早いのだろう。もう決闘の様子がアーカイブに上がっている。人権を無視した殺しもモザイクなしで載っている。これこそ人権侵害なのではないかとシキは思った。
動画を見直して思ったのだが、今回シキがした一番の怪我はアリーに放り投げられた時のものだ。放り投げられなかったら死んでいたのでファインプレーなのは間違いないが、納得いかない。
「もうシキが血をドバドバ流していた時はひやりとしましたよ」
四階から落ちた時よりも長い距離を飛んだと思う。窓にぶつからなかったのが唯一の救いだ。
ぎゅぅっと後ろからの抱き締めが強くなる。
「ねぇ、アリー。私がもしも死んだらアリーはどうなるの?」
「そんな物騒なもしもやめてください。……まぁ、もしそんなことがあれば……消滅、ですかね」
「え?」
思いもよらぬ答えだった。術者が死ねば普通は元の場所に戻るのではないのか。
「普通は戻ると思うんですけど、わたしって魔法の才能ないんですよね。戻り方、分からないんです。だから多分消えると思います」
急に責任を負わされた。元から死ぬつもりなどさらさらないが、他人の命が肩に乗ったと思うと……なんていうか苦しい。
「一心同体ですね!」
「運命共同体かな……」
何でこんなことに……と思う。たびたび思う。なぜこんな運命を辿っているのかと。たまに夢に見る。高校の制服を着ている自分の姿を。ここのではない。第一志望だった高校のものだ。公立だから制服に魅力はなかったけれど、日の当たる生活が恋しくなる。
アリーがもぞもぞと動き、さらに密着を図ってくる。
「何」
トイレで返してきたよりは、高い声で言う。
「もう体調不良は治ったんだけど」
「シキが良い匂いすると思って」
今日はシャワーをまだ浴びてないのだからやめていただきたい。
しかし、パスが繋がっているからだろう。アリーにくっつかれていると心地よい。安心感がある。まぁ、大型犬に抱きつかれているような気分なのだが。
ぐぅぅと腹の虫が鳴く。シキではなくアリーのだった。早めの夕食だったし、仕方ないかと起き上がる。……起き上がる時は回している腕を離してほしい。
「食堂行く?」
「はいっ!」
Tシャツの上にジャージを羽織る。誰に見られるわけでもない髪も一応梳かしてから部屋の外に出た。
◆ ◆ ◆
学生ではあるが、座学の必須単位は習得済みなので、シキは日中暇であることが多い。体を鍛えたり、魔術の知識を深めたり、もっぱら死なないために時間を使っている。傍からしたら真面目に見えるかもしれないが、必死なだけだった。
「シキは真面目ですね」
毎日同じ筋トレをこなしていると、つまらなそうな口調のアリーがちょっかいをかけてきた。彼女は妖精なので筋トレは必要ない。そもそも馬鹿力なので必要ない。
「だって死ぬ間際にあの時ちゃんと筋トレしていれば、とか思いたくないだろ」
「死ななければいいんですよ」
「死なないためにやってるんだ」
刀を振るうのだって筋力がいる。走るのだって脚力がいる。時には男子と殴り合いになることもあるのだから、鍛えておいて損はない。
「そうだ、アリー。私と模擬戦をしてよ」
「模擬戦、ですか」
「そう。お互い白兵戦が得意なわけなんだし、軽く手合わせ程度にさ」
「まぁいいですけど……わたしブッキーなので、あまり手加減とかできませんよ?」
筋トレをきちんとメニュー通りにこなしてからシキたちは演習場へ向かった。ここには屋内の個室がある。壁をぶち壊したりすれば怒られるだろうけど、魔術を使わない模擬戦ならなんとかなるだろう。多分。
今は授業中なので演習場はガラ空きだった。広い部屋を借りる。大きさはバスケットコートくらいだ。
「わたしは素手でいきますね」
「いいの? 杖出さなくて」
「ハンデです。シキは真剣でいいですよ、おそらく当てられないので」
随分な言われようだった。シキは遠慮なく獲物を出現させる。右手には長い刀。左手には短い刀。シキのオーソドックスな装備だった。
「わぁ! 二刀流かっこいいですね!」
バカにしているわけじゃないんだろうが、バカにされている気分だった。
「いつでもきていいですよ」
アリーは後ろで手を組みながら、にこにこと笑みを浮かべている。アリーの方から仕掛けるつもりはないようだ。
様子を伺いたいシキであったが、アリーが動く気配がないのならシキから動くしかない。刀をしっかり持ち直し、床を蹴った。シキがアリーに勝るものと言えば、おそらくスピードだ。力では勝てないのだから、穴埋めは得意なものでするしかない。
アリーの左側に回る。防がれる前に短刀で突き刺そうと思ったが、いとも簡単に避けられてしまった。挙句、軽く足払いをされて顔面から転んだ。
「あぁ、ごめんなさい! つい足が!」
シキは情けない格好から気合で立ち上がる。顔がひりひりと痛い。
持ってた短刀を握り替え、心配をしてくれているアリーの胸元に投げつける。しかし、これもキャッチされてしまった。シキは慌てて短刀の物質化を解く。投げ返されてはシキが死んでしまう。
「こんなものですか?」
わざと煽る言い方をしているのか。シキは両手で刀を持ち、姿勢を低くした。脚に力を込める。咄嗟に手が届かない足を狙う。
「おっと」
ジャンプでかわされた挙句、顎を蹴り上げられた。シキは脳が揺れる感覚に陥る。気を失った。
シキが起きた時にはアリーの膝の上だった。膝枕である。
「目覚めましたか? あーよかったぁ……。死んじゃったらどうしようかと思いました」
恥ずかしながらシキは自分が強いと自負していた。しかしそれは周りが魔術師ばかりで、武道に精通してる人材がいなかっただけなのだ。道場破りなどしたら笑い者になるだろう。
「君、強過ぎない?」
「そうですか? わたしからしたらシキが弱いだけに思いますが」
痛い。心が。
「まーほら、今時の人間って実践訓練が少ないじゃないですか? シキも鍛えれば強くなりますよ」
「じゃあ、アリーが稽古つけて」
シキは膝枕から脱出し、アリーに向き直る。
「ええ、でも死なれたらわたしも困っちゃうんですけどぉ……」
「そこは死なない程度に手加減頑張ってよ」
この学園にシキの相手をしてくれるもの好きなんて存在しない。対人戦を稽古するためには、アリーに頼るしかないのだ。
「アリーだって私が弱いままだと困るでしょ」
「それはそうですね……。分かりました。でもわたしは我流で鍛えた身なので、参考になるかは分かりませんよ?」
我流であそこまで綺麗な身のこなしができるなんて、どんな生活を送ってきたんだ。
「まずは武器を使わないで練習しましょう。シキは自分の間合いもよく理解していないようですしね」
あまりやる気はなさそうだったが、アリーの稽古はは普通にシビアだった。少しでも気を抜けば足払いの刑にかけられた。その上でアリーは一切手を出してこない。表情もずっとにこやかだった。
「待って……ちょっと……休憩……」
息が絶え絶えになる。
「シキは体力もないですねぇ」
ないことはない。シャトルランだって三桁いく。全国の女子高校生の中でも体力はある方のはずだ。
「シキ」
大の字になって床に転がるシキの上に、おもむろにアリーが乗っかってきた。そして腕の関節を押さえてくる。
「この状況から抜け出してみてください」
「え、ちょ」
腕はきめられててまったく言うことをきいてくれない。
「どうしたんですか? 相手に有利な態勢をとられた時、諦めるんですか?」
畜生と呟きながら脚を動かす。なんとかアリーに当たるものの、拘束を解くほどのパワーは兼ね備えていなかった。
「このままだと悪い妖精に襲われちゃいますよ」
目が笑っているようで笑っていなかった。貞操の危機である。
シキは膝を折りたたみ、腰のあたりに力を入れる。いっせーのという気持ちで体を横に回転させた。緩む。その隙に逃げ出そうとして、簡単に捕まった。四つん這いで逃げようとしたところだったから、腰を掴まれて抱き締められた。
「良い感じですね!」
「それなら離して」
「いや、なんか、シキがちょっと怯えた目をしたのがゾクッときまして……」
「この変態!」
「わーわー、暴れないでください」
腰をがっしりと掴まれ、重心を低くしても逃げられない。肩で息をするくらい体力は削られている。無理だった。シキは逃げ出すのを諦めた。
その様子をアリーは嗜めることをせず、ただシキを抱き締めているだけだ。気になるのはたまに首元の匂いを嗅いでくることくらい。
「誰も来ないならセックスしません?」
「しません!」
シキの顔が赤くなる。アリーは面白そうに笑っていたが、どこまで本気なのかシキには分からなかった。




