014
二月某日。とても寒い日だった。そして雨がザーザーと降る日でもあった。しかし、寒いと言うのに雪にはならなかった。誰もがこんな日は自室の布団でぬくぬくと過ごしたいと思うはずだ。思わない変わり者がいた。それがヒスイだった。
ヒスイは氷を操る魔術師であり、名門京久野家の次期跡取りであった。言い方が過去形なのは、シキとの勝負に敗れたからである。
氷属性だからかは分からないが、ヒスイには寒いという感覚がなかった。だからこんな日はヒスイにとって都合のよい気候だった。
また、ヒスイにはあとがなかった。いや、学園の定める猶予的には二年ほどの時間があるのだが、お家の問題である。次期当主であるならば、最短の三年で学園を卒業するように言われていた。成績は優秀、試験も問題なく越えてきた。一つやり残したことと言えば、殺害者数が一人足りてなかった。
魔術師の家系というものは、極めて残忍であり、人でなしという言葉がよく似合う。教育方針もなかなかに邪悪なものなのだが、ヒスイはそれに染まらず十八まで生きた。とても良い子だったのである。
そんな彼女が目標を達成するには、決闘を断れない相手に挑むことだった。奨学生の中で一番心の痛まない相手。それはあらゆる生徒から厄介者とされる二年下のシキだった。
◆ ◆ ◆
あの日ほど、外に出たくなかった日はない。台風の日の方が幾分かマシだとシキは思っている。二月の大雨の日だ。外に出ろと言うやつが馬鹿である。
建物内で呼び出されるなら、まだ許せよう。二月の暴風雨の中、グラウンドに集合をかけられてみてほしい。普通ならサボるだろう。
奨学生のシキにはボイコットという選択肢がなかった。クソ野郎と心の中で叫んだ。多分口にも出ていた。
傘をさしていくわけにもいかないし、レインコートを着て戦うわけにもいかない。一応ウィンドブレーカーを羽織ったものの、土砂降りの中ではあまり意味がなかった。
さらに最悪なことに、決闘開始時刻は夜の十時。しんしんと冷え込む時刻。グラウンドのライトも当然のように点いていない。真っ暗。
決闘が開始された。
気配が……分からない。なんせ強風である。天気予報アプリでは風速がどうこうと言っていた。
それよりも何よりも寒い。耳が千切れて飛んでいきそうだ。足先も指先もどんどん感覚がなくなっていく。鼻の頭が痛い。このままではシキが何もしないうちに死んでしまう。
足場は悪い。あちこちに水たまりができている。
鈍る思考の中、シキはいつもの刀を右手に握る。左手にはナイフ。
魔力探知ができないシキには相手の居場所は分からない。遠くで図書館や寮の明かりが見えるが役には立たない。
ヒスイは何もしてくる気配がない。
このままシキの体力を奪う作戦だろうか。一歩横にズレようとした時、ヒュッと音を立てて何かが飛んできた。刀で弾き返す。考えるよりも前に飛来物が飛んできた方向にナイフを投げる。何かに当たったが、人間ではない。
飛んできたものは何だったんだろう。暗くてよく見えなかった。凶器が落ちているようにも見えない。
わざわざいる場所を知らせるなんて阿呆らしい。しかし、実際はシキの攻撃を防いだ。陽動だろうか。
「……」
頭痛がする。ただの低血圧だが、シキを苛立たせるには十分な痛みである。
ひとまず移動しよう。止まるのは危険だ。どうせ居場所はバレバレだが、止まっているより動いているものの方が目標を定めにくいはずだ。
「ごめんなさい」
どこからか女性の声がした。とても綺麗な声質だった。
後方からパリパリと音がする。シキには何の音か分からない。
ひやりと嫌な予感がしたした。いや、ただの予感ではなかった。実際に空気が冷えてきている。それは時刻が遅くなっているからではない。
「凍ってる……!?」
水浸しのグラウンドが凍てつく。パリパリ、パリパリと音が円状に広がっていく。雨に濡れたブーツにまで霜が広がっていく。
――まずい。
とにかく足を動かすことにした。
ここのグラウンドは芝生ではない、土である。真砂土とか言うらしい。小学校のグラウンドでよくあるやつだ。
空気が急激に冷えているのを感じる。吐く息が驚くほどに白い。
シキは比較的温暖な地域の育ちである。少なくとも授業でスケートを習ったことはない。道路が凍結することもほぼない。シキにとって冬とはただ寒いだけの季節だ。
「……っ!?」
恥ずかしいほど大きな音を立てて、シキはすっ転んだ。
愛用のブーツはある程度の滑り止め加工を受けているが、凍結対策をしているわけではない。
顔が痛い。思わず鼻を触る。良かった、折れていない。それよりも手の感覚がかなり鈍くなってきている。戦況はあまりよろしくなかった。
また鋭い音がして何かが飛んできた。遠慮なく頭を撃ち抜きにきていた。シキは反射的に左腕で、頭を守った。左腕に刺さっていたのは氷柱のように尖った氷だった。引き抜くか迷ったがそのままにした。
走る。反射だった。また転ぶかもしれない。走るしかない。氷を割る勢いで脚に力を入れる。バリバリさせる。
相手の居場所は投げてきた方向でしか分からない。……また一発、シキを殺めようとする氷柱が飛んできた。アドレナリンが出ているシキは、それをしゃがんで避けた。すぐ、脚に力を込め直し、前に跳ぶ。
熱る体が冷気で冷やされてちょうどいい。そこだ、とシキは直感した。経験者に怒られそうな持ち方をした刀を、闇に突き立てる。ガチャンと音がした。金属が硬いものにぶつかった時の嫌な音だ。
シキは持っていた刀を捨て、新しい刀を作り出す。今度は正面からではなく、相手の左脇に刃を差し込む。
「痛っ……」
肉を割く感触と同時に綺麗な声色が滲んだ。弱い人なのだと、シキは悟る。相手は負けを認めなかった。
シキが蹴りをお見舞いしようとして、氷の壁が立ちはだかった。ここで逃がすわけにはいかない。アイスピック、それをシキはテレビでしか見たことがない。単純な形でよかった。
アイスピックを氷の壁に突き立てる。何度も何度も。同じところを狙って。
ベキンッと音がして、シキは氷の壁を蹴り押した。そのままの勢いで壁ごと女子生徒と踏み倒す。
なぜ、すぐ逃げなかったのか。這ってでもこの場から立ち去るべきなのに。
未だ痛みを感じない左手で、尻ポケットに入っているスマホを取り出す。電源ボタンを押し、ロック画面からライトをオンにする。砕けた氷の下に横たわる少女は、銀色の髪をしていた。日本人とは思えない碧い瞳。美しい人形のようだ。
「はぁ……」
この少女に赤色は似合わないな、と思った。思ったけれど、持っていたアイスピックで少女の首を刺した。か細い首だった。
この娘さん、不可解な存在だった。
的確にシキを追い詰める動きをしてくるのに、明確な殺意を感じ取れなかった。できるなら、自身の手で殺害を行いたくないというような。
途中から消えていた雨音がクリアに聞こえた。それから左腕に強烈な熱と痛み。術者が死んだことで操っていた氷が解けて、腕に穴が開いたらしい。
心が折れそうな痛みだった。
彼女を殺してよかったのか、と少しだけ考えてしまった。
◆ ◆ ◆
妹だ、と彼女は言った。数ヶ月前、シキが殺害したヒスイの妹ヒオリ。
ヒスイの死に際の顔がシキの頭に浮かぶ。銀髪に碧眼、特徴はよく一致していた。ただ、シキの第一印象だと姉は受動的で、妹は能動的である。
「つまるところ――」
コイツは何がしたいのだ。
「復讐というやつですか?」
口にしたのはアイスをたらふく食ったアリーだった。腹壊さないか、あんなに食べて。
「人間というものは、大切な人を奪われると怒りに駆られる生き物だと聞いています。ヒオリは家族であるヒスイを殺したシキに恨みを持っているのですか?」
妖精に復讐という感覚があることにシキは驚いた。ヒオリも驚いているのかな、と顔色を伺う。笑っているものだから、なおのことシキは驚いた。
「いやいやいや、復讐なんてそんなたいそれたもの……私たち魔術師にあるわけないじゃないですか」
ヒオリはにこやかだった顔を、行儀のよい微笑みへと切り替える。
「先輩、京久野氷翠を葬ってくれてありがとうございます」




