001
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らせる。肺が重く痛い。鈍重になった脚をフル回転で動かし、階段を数段飛ばしながら駆け下りる。このままではいつか足を踏み外すかもしれない。そしたらアイツに捕まるよりも前に、頭を打って死んじゃうかもしれない。
それでも彼女は足を止めることをしない。手すりを使い、遠心力でぐるっと回っていく。
一応警告は出ていたから、校舎内に残っている生徒はいない。だから誰かとぶつかる心配がないのはせめてもの救いだ。
「くそったれ!」
年頃の娘から出るには、ちょいとばかし汚い台詞が廊下に響く。階段を下りた先は一階だった。右と左どちらに行こうか迷っている暇はない。
制服姿の少女は遠心力に身を任せたまま左へ曲がった。気配探知はあまり得意でない。しかし、背中がずっとぞわぞわしている。アイツはすぐそこまで来ているのだ。
念のため、魔術を使って投擲用のナイフを両手に出現させておく。多分、効かないんだろうなということは頭の片隅で分かっていた。
「どこまでもしつこいやつだな」
人のことを言えた義理ではないし、そもそも相手には言葉なんて通じようがない。
それでも彼女は強がるしかなかった。
魔術なんて元々専門外も甚だしい。少女は心の中で毒づく。中学生まで一般的な家庭で育ってきたのだ。神秘とかそんなもの関係のない生活を送ってきた。死がこんなにも密接になるなんて想像すらしてこなかった。
背後から気味の悪い呻き声が聞こえる。手に持っていたナイフを投げてみたものの、ダメージが通った気配はない。ということはいつもの得物も使えないと見た方がよさそうだ。
彼女がこの学園で一年を耐えてきたのは、単なる気合いだった。魔術師を育成する機関だと言うのに、彼女についたあだ名は〈狂戦士〉だ。力だけで襲い来る脅威を葬ってきた。それさえも我流だった。人よりちょっと人斬りのセンスがあっただけ。平均よりちょっと体力があっただけ。それだけの女だ。
きっとアイツには何かしら高圧力の魔術を叩きつければ勝てるだろう。残念ながら、魔術を知って一年足らずの彼女には攻撃魔法なんて使えるはずもなかった。
「どうしよう……」
体力が削られていく。それに比例するように弱音が出てくる。死にたくない。死にたくない。
廊下の先を今度は右に曲がる。
「嘘……」
本来は開いているはずの渡り廊下の扉が施錠されている。壊すこともできなくはないが後戻りした方がロスは少ない。
化け物と邂逅すれすれで廊下の反対側へ走る。もうどれだけ走り続けただろう。術者を見つけてしまえばこちらのものだ。けれど見つからない。必死こいて逃げながら探しているのだ、見つかるはずもない。
吐き気がする。外で笑われていると思うと吐きそうだ。イカれている。できるなら全員ぶっ殺してやりたい。彼女は魔術が嫌いだった。それを神聖化する魔術師のことも嫌いだった。
どんなに死角をつくように逃げてもアイツは追ってくる。彼女の匂いを頼りにしているのかもしれない。
一階をぐるぐると回った。事態は進展するどころか後退している。いくら彼女がスポーツテストで上位の記録を持っていたとしても、走るために整備されたわけでもない建物内を永遠と走るには無理があった。
「畜生ッ!」
近くにあった教室に入り込み、一秒でも時間を稼ぐために鍵をかける。
少女は何の秘策もなく、教壇の上で膝をついた。チョークの粉でスラックスが汚れてしまうが構わない。これからもっと汚れる。
大切に懐に忍ばせておいた細いナイフを取り出す。薄汚れた金色をしている。これは彼女が魔術で生み出したものではない。遠い昔に、ある方からもらったものだった。
ドンッと扉が叩かれ、軋む音がした。
迷っている暇は最初からない。
少女は左手も床につき、右手で握りしめたナイフを自身の手に突き刺した。
「っ……!」
思っていたより痛かった。でも、そんなことは気にしていられない。ありったけの魔力を血に注ぎ込む。
「偉大なる妖精国の女王よ――我のもとへ姿を現せ――」
魔法陣の描き方など知らない。彼女にはそれを学ぶ時間も余裕もなかった。
召喚術式など知らない。彼女には高尚な技過ぎた。
だから一か八かだった。
彼女が唯一誇れる圧倒的な魔力量に全てを賭けたのだ。
何かが応えるように、彼女の流した血が金色の光をまとい始めた。
◆ ◆ ◆
彼女は中学生三年生まで、ごく普通の家庭で育った。父親は都内に勤めるサラリーマン。母親は週四のパートに出る。
高校も地元の公立高校に合格していた。第一志望の学校だった。
本当に本当に普通。お金がなくて私立は無理と言われた。そんな家庭はいくらでもある。
大学も行きたいなら奨学金だねと言われていた。そんな家庭は星の数ほどある。
両親の出身も、祖父母の出身もいたって平凡そのもので、家系図を遡ろうにもそんな大層なものが存在しないくらい普通だった。
どこでどんな介入があったかは分からない。
ある年の四月一日、わたぬきではなく日付的な意味で、彼女はいきなり知らないところで目覚めた。本来進学するはずだった高校は辞退扱いになっており、両親とも連絡が取れないまま、全寮制の魔術師養成学校へ入学させられた。
本来、魔術師とは幼少期から教育を受けたエリートだった。彼女はもちろん孤立した。そんな彼女に理不尽な規則が襲いかかる。先述の化け物に追われているのがまさしくそうだ。この学園内では、生徒同士の殺し合いが起こる。そして、立場上彼女は狙われやすい。こんな殺し合いも入学してから手の指だけでは数え切れなくなっていた。
経験の数だけ彼女は成長しているが、手の内を明かすたびに周りからは対策される。
物理武器が効かない、それは彼女の明確な弱点だった。
◆ ◆ ◆
「召喚に応じ、馳せ参じました」
金色の輝きがソレ――少女の形を模していく。金色の長い髪、金色の瞳が現れる。
「誰?」
今日この日、或土式――アルトシキとアレクサンドラとの出会いの日だった。




