第3話 事務所は中継地
もう一度、時計を確かめて立ち上がった。
書類を再確認して、内ポケットにすっと差し込んだ。
安下宿の軽い戸を開き、錆びた共用階段を駆け降りると、明けかけの空の冷気が肌を刺した。
頬をつねってみる。
夢じゃない。
もう何度目かの確認をすると、歩みは自然と速くなった。
予定時刻より少しだけ早く到着した。
喉の奥で唾が鳴った。
深呼吸してノックし、軋む扉を押し開けた。
「おはようございます」
「あ、レジナルドさん! おはようございます!」
すぐにチアリーの明るい声が返ってきた。
「おはよう。レジー、待ってたわ」
ベルの落ち着いた声も続いた。
奥には4台の事務机が向かい合い、そのうち3つに人が座っていた。
昨日は見かけなかった小柄な女性が顔を上げた。
「おはようございます。あなたがレジーさんですか。契約書は?」
ちらりとこちらを見て要件だけ告げると、すぐに手元に視線を戻した。
「は、はじめまして。レジナルドです。本日からよろしくお願いします」
契約書を手渡した。
彼女は素早く目を通し終え、トントンと揃えて机に置いた。
「アゼッタ。ブロード商会で事務と経理を担当しています。よろしく」
それだけ言うと、アゼッタは自分の業務に戻った。
手前の机ひとつだけが空席で、その天板は真っ白だった。
汗と埃と鉄の匂いにまみれた現場とは違う、きれいすぎる白さが目に刺さった。
そこが今日から自分の席だと気づいた瞬間、こわばった肩がわずかに下がった。
「まず今日は、この商会について知ってもらうことからね」
ベルが立ち上がって、応接用のソファーに移動した。
「ブロード商会の主な業務は、倉庫スペースを販売することよ」
「え、こんなにたくさん……」
差し出された取引先一覧は、小さな文字と数字でびっしり埋まっていた。
ここに載っている分の出荷量を荷車で運ぶとしたら、一体何往復になるのか。
頭の中で数えようとして、すぐに諦めた。
「それで、倉庫スペースの販売というと?」
「工房って、作ることと売ることで手一杯でしょう? よく売れるところほど、荷物の置き場がすぐ足りなくなるの」
荷車で塞がっていた路地裏の光景が、頭の片隅でちらりとよみがえった。
「なるほど、置き場所に困った荷物を、一度ここで引き受けるわけですね」
「そうね。でも場所だけじゃないの」
ベルは一覧の見出しを指でなぞった。
「私たちは取引先の在庫を預かり、その管理、発送業者への引き継ぎまでを行う、流通の『中継地』としての役割を果たしているわ」
理解しきれている自信はないのに、気づけば私はベルの次の言葉を逃すまいと、その口元を視線だけで追っていた。
その時、部屋の奥から「ブーブーブー」と警報が鳴り響いた。
「わあ、また詰まっちゃったみたい! 見てくるね!」
チアリーが慌てて立ち上がった。
「いい機会ね。レジー、チアリーについて行って。アゼッタも一緒に倉庫を案内してあげてちょうだい」
「わかりました」
アゼッタはさっと立ち上がると、部屋の奥へ向かった。
私も急いで後を追った。
「私は営業周りがあるから、あとはよろしくね」
ベルはそう言って、3人を見送った。
間仕切り布をくぐった先にあったのは給湯室。
使い込まれたやかんやマグカップが棚に整然と並び、さっきまで誰かが淹れていたらしいお茶の香りが残っていた。
その先のドアをチアリーが開いた。
部屋に踏み入れると、ひやりとした風が肌を撫でた。
耳の奥で細く“キーン”と鳴り、舌の上でピリピリと鉄の味がした。
端から端まで3〜4歩の狭い部屋だ。
床一面に魔法陣が描かれ、紋はぼんやりと青色に灯って、静かに揺らめいていた。
奥には台座がどっしりと据わり、その上に六角柱の結晶が浮いていた。
結晶の放つ紫の輝きは、周囲の空気を歪めつつ、部屋全体を照らしていた。
チアリーは「よっ」と魔法陣を避けながら、台座のそばまで移動した。
「はーい、今から行きますよー」
結晶に手をかざすと、鳴り続けていた警報がぴたりと止んだ。
「レジーさん、こちらへ」
アゼッタが先に魔法陣の上へと移動した。
足を踏み出す直前、全身の毛穴が一瞬だけ逆立つような気がして、身震いが走った。
それでも、気づけば片足は先に床を踏み出していた。
胸の奥で鼓動がひとつ跳ねた。
チアリーもぴょんと隣へやって来た。
「倉庫へ移動します」
足元の魔法陣の輝きが増した直後、3人は真っ白な光に包まれた。
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