小さな幸せ
ヒトシはマオとマオの母親の間に入るのは距離的に無理だと察し、マオの背後から前腕の二本の骨で包丁を受け止めるつもりだった。だが、マオの母が包丁を逆手持ちで構え斜めから振り下ろした結果、前腕の橈骨と尺骨の間に刃が突き刺さった。
骨は折れておらず、血管の損傷も最小限で腕に跡は残ると思われるが、骨折よりは治りが早いと医者から言われる。
出血の影響があるため、ヒトシは一日入院することになる。何もなければ明日に退院できると言われ、ミチコは大きなため息をついた。その後、ヒトシを病院におき、マオを家に送った。
「何かあったら、いつでも相談しにきなさい。遠慮しなくていいから」
ミチコはマオにウィンクしてサイドガラスを閉め、車を走らせた。
マオは何度頭を下げたかわからなかった。家の鍵は開いている。だが、こんな家の品を盗みに来る者は誰もいない。母と男が争った跡が家の中に色濃く残っていた。
ガラスの皿や倒れたゴミ箱、もう、午前三時頃だが、ヒトシの手術中に眠っていたので目は冴えていた。昨日に色々ありすぎて、もう一度眠ろうとしても全く寝付けなかった。
とりあえず散らかった部屋を片付ける。
チロリと出て来たゴキブリを容赦なく叩き潰し、一時間以上かけて綺麗に整えた。
母の部屋に入るのはものすごくためらったが、もう、母がこの場に戻って来られるとも思えなかったので入ることにした。
むわっと広がる香水とたばこのにおいが咳き込むほど酷い……。使い捨てられたコンドームの残骸と、寝汗か、酒か、はたまたそれ以外か、何かわからない液体で濡れた布団。まるで、ラブホテルの清掃員になった気分だ。
高級バックや高いドレスなどが、衣装棚にしまわれており、部屋の中より真面だった。売ったら、そこそこするだろうなと思いながらも遺品整理するように散らかった品を片付ける。
高級なクッキーでも入っていたような六角中のブリキ缶を発見。
お金でもいれているのかとおもって明けたら、自分が幼少期に書いた絵や手紙が入っていた。ところどころ滲んでいる。今、新たに滲んだ場所が増えた。
なんで、こんなに泣いてしまうのか不思議だったが、母の泣き虫な部分が自分にも遺伝してしまったのだと悟った。
暴力を振るってくる母は嫌いだが、優しかった母は好き。
きっと危ない感覚だが、母の精神が安定していたら、幸せな暮らしが出来ていたと思わざるを得ない。
ブリキ缶は残し、大量の衣類や靴、香水、その他諸々、捨て……、売りに行くと決める。
もし母が戻って来て、またホスト狂いになりそうなら全力で止める覚悟が出来ていた。糞な母でも見捨てる気はない。ヒトシならきっと見捨てないはずだ……。
善人になる気はないが、自分の母親を切り捨て、他人を大切に出来るわけがない。でも、もう一緒に住む気はない。母親のいうことを聞く気もない。
とんでもなく茨の道を行くことになるが、生かされてしまったのだから、道を作りながらでも生きるしかない。
自分の部屋以外がさっぱりすると、気持ちが良かった。すでに東から日が昇り、おおっぴらに開けた窓から光が入ってくる。
くすんでいる部屋も多少真面に見えた。
午前七時頃、大家がやってきた。警察から話を聞いたのだろう。『荷物を纏めて出て行ってくれ』と、一喝。周りの住居人から苦情が来たら困るとのこと。わかり切っていた。だから、荷物を纏めていた。
マオは頭を下げて住む場所が決まるまで待ってもらい、了承する。
血が付いたワンピースを着ていたので不気味がられた。すぐに服を着替えて母の持っていた品を纏めて売りに行く。全部売ったら、わかっていたがほぼ偽物だった。それでも八万円くらいになった。一ヶ月生活できるかどうかってところか……。
「生活費、家賃、学費、ヒトシの治療代……、ほんと一人で生きていくのは厳しいな」
母譲りの無駄に大きな胸に手を当てて、体でも売ればおそらく数年生きていけるだろう。だが、母親の二の舞いになるだけだと頭を振った。
マオは今まで一人で何としてでも生きていくと考えていた。だが、人生、ただ生きているだけではダメだと知る。
生きる目的、糧、ほんの少しの幸せがなければ心が死んでしまう。このままだと、母親と同じ道をたどると悟ったマオは幸せな未来のために他人に頼る道を選ぶ。
ミチコから知らされていた携帯電話の番号に公衆電話を使って掛ける。マオがいる場所まで車で迎えに来ると言うので、待っていた。二○分もしない間に、近くのコンビニで合流し、車に乗り込む。
「このまま、ヒトシを迎えに行くわ」
「あ、はい……」
マオは花やフルーツでも買ってきた方が良かったかと考えた。だが、ミチコはマオの雰囲気で考えを察し「あいつに花の良さはわからん」と笑い、手を振っていた。
マオの気が少し軽くなった。清く正しく普通に生きているミチコが妙にカッコよく見える。大人の女性という感じがして、自分も将来はこんな大人になりたいと思えた。
☆☆☆☆
「あれ、真央さん、どうして病院まで?」
「な、成り行き……、腕、大丈夫なの?」
マオはヒトシの姿を真面に見れなくなっていた。母がいないのに、未だに名前呼びなのが少々気に食わなかったが、特別に許すことにした。
「んー、動かさなければ痛くないかな。でも、左手が当分使えないや」
ヒトシは着替える服がなく、未だに病室のベッドに座り入院儀で過ごしていた。ミチコがヒトシに服を投げ、カーテンを閉める。すぐに着替え終われると思っていたヒトシだったが、利き手の左手が使えないと少々不便だった。ティーシャツを着るのも案外難しい。
「なにか手伝おうか……?」
マオはカーテンの外側で椅子に座り、小さな声で呟いた。ミチコは先生と話し合っており、この場にマオとヒトシしかいない。
「これくらい、自分で出来るから、心配しないで」
「私、受話器越しに店長から言われたんだけど……、私が不運体質じゃなくて、周りの不運が私に集まってくるらしい。でも、たぶん、嘘。ムラヒトが腕怪我しているし」
「なら、真央さんの不運を僕も引き受けるよ。逆に幸せを真央さんに分ける与える」
「な……、ば、バカじゃないの。幸せは大切にしなきゃダメでしょ。そもそも、自分から不運を受け取ろうとするとか、訳がわからない」
「安心して。僕は美味しい水を飲めるだけで幸せになれるから」
「……ちっさい幸せ」
「でも、ずっと不幸だと思うより、小さな幸せがあるだけで、ほんと生きやすいよ」
ヒトシは前世と現世で、違うところを沢山知り、見て、感じてきた。だが、幸せが尊いのはどっちも同じだった。
前世よりも小さな幸せが今の生活に多く溢れている。そのおかげでヒトシの心の幸せパラメータは常に満タンだった。




