本望
「確かに、真央さんといたら、金的されるし、犯罪者に沢山会うし、包丁で刺されるし、良いことないね。でも全部、真央さんを守れているから、僕としては本望だよ。真央さんが無事で、本当に良かった。こんな傷、へでもないよ」
ヒトシは痛みに耐えながらも、心からマオが無傷で自然に笑顔になる。引きつった笑みのまま、マオを見ると彼女の顔が妙に赤らんでいるようだった。耳や首もとがじんわりと紅に染まっていく。青いリンゴが日の光を浴びて熟していくようだった。
だが、そんなこと気にしていられないくらい熱から激痛に変わっている左腕の傷に視線を移す。包丁を抜いたら血が出てしまうのでそのまま放置。後遺症やリハビリが必要だな、など悠長な考えをしている間に警察官と救急車が到着する。
警察官はヒトシとマオの発言を聞き、マオの母を拘束、殺人未遂また傷害罪の容疑で逮捕された。抵抗はなく、ずっと放心状態で未だに現実を受け入れられていない様子だった。
救急隊員が顔を青ざめさせるほどヒトシの腕に包丁が刺さっている。
筋肉と魔力があれば刃物が体に刺さらなかった過去の世界と違い、地球だと力を入れても刃が体に突き刺さるとヒトシはもとから知っていた。だが、ほんの少しばかり刃物が聞かないスーパーマン的な状況に期待していた自分もいる。
すぐに大学病院に救急搬送され、連絡を聞いた母が家でぶっ倒れていないかと自分のことよりほかの者を心配するヒトシだった。
当たり前のように手術になり、何十針も縫う大がかりな手術だった。だが……、
「へぇ……、そう言う風に縫うんですね。凄いなぁー」
局部麻酔で腕の痛みが減っているからか、ヒトシは外科医の手術をガン見していた。過去に体に入った傷を自分で縫い付けていた経験がある。手術が大変参考になったと外科医に頭を下げ、屈託のない笑みで感謝の言葉を伝える。
大都会東京で大量の人を治療してきた医師たちですら、刃物が腕に刺さった大怪我を負い、笑顔で話している学生を見た覚えがなかった。ヤクザでも笑っていられないほどの激痛だろうに……。
マオは警察に連れていかれた母親の方ではなく、ヒトシが運び込まれた病院の中にいた。手術室の待合室で両手を握り合わせ、背もたれのないソファーに座っている。
深夜、人通りが無い病院の通路は異質な雰囲気を放っている。独特な消毒液が香水とどこかに通っていて居心地は悪い。LED蛍光灯が節電のために薄暗い設定にされており何かに祈りを捧げているような姿のマオの存在感をより一層強めていた。
「えっと、あなたが牧田さんかしら……」
ヒトシが大学病院に救急搬送されたと聞き、食事をほったらかして超特急でやって来たヒトシ一家。父とトワは少し離れた位置に座り、ヒトシの無事を祈る。ヒトシの母が何かに祈り続けているように見えるマオの近くにより、話し掛けた。
「は、はい。こ、この度は、母が大変ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」
マオがヒトシを傷つけたわけではない。だが、身内の母がヒトシを傷つけたのは事実。実の母が刑務所にいるため、謝る人がいない。そうなれば、自分が謝罪しなければならなかった。
いや、謝罪だけではない、死にかけていたところを助けられたから、感謝しなければならない。だが、未だに混乱しているマオの頭で考えられたのは、ヒトシの家族への配慮だけだった。
「警察から事情は聞いたわ。あの子、あなたを守って刺されたみたいね。ほんと、毎回変な気分よ。息子は危険な状況に陥っているのに、多くの人から感謝されるんだから」
ヒトシの母はどことなくヒトシと顔の骨格が似ており、慈悲深い優しい瞳を持っていた。あの真っ直ぐな眼の遺伝は母親譲りだとマオは知る。だからか、初対面にも拘らず、どことなく親近感を覚えてしまった。
「えっと、なんてお詫びしたらいいか。治療費は必ず支払います。すぐに全額は無理かもしれませんが、わけてでも必ず……」
「まあ、落ちつきなさい。とりあえず、座りましょう」
ヒトシの母は力んで青い瞳を涙で潤わせているマオを椅子に座らせた。マオに何の罪もないのは警察の話からすでに知っている。手術が終わるまで両者は会話を重ねた。決して弾むような会話ではないが、心のキャッチボールは辛うじて続いている。
「うぅぅ、真央ちゃん、大変だったわね。本当によく頑張ったわ……」
「ミチコさん……、わたし、わたしは……、生きてていいんでしょうか……」
会話を繰り返すにつれ、ヒトシの母、美智子はマオの人生を聞き、普通とかけ離れた生活環境に涙していた。話を受け止められて、心のつっかえがなくなったマオもまた、両手を顔に当てながら涙を流していた。もう、今日で何リットル涙を流したのかわからないほど、泣いてしまっている。
「はい……、甘いの好きそうですし、これでも飲んでください」
父が眠りにつき暇を持て余していたトワは自販機で微糖の缶コーヒーを買ってマオに差し出した。ヒトシの怪我の原因になった女に優しくするのは尺だったが、第一印象は良いに越したことはないため、一応偽善で優しくしている。ヒトシに寄りつく女は全員敵とみなしているので、トワにしては最大限の配慮だった。
「ありがとう……」
マオは暖かい缶コーヒーを受け取り、飲み口を開けて一口飲む。苦いのは苦手だが甘味が口に広がった後、ほろ苦さが鼻に抜ける。ツンとくる涙の味と合わさって大人な味がした。
手術は午後一二時を跨いだころに終わった。マオは今日の疲労が体に一気に現れ、ミチコの肩に頭を乗せるように眠っていた。
ミチコはマオの頭を優しく撫でながら何も言わずに待つ。
トワはマオの目を見張る大きな胸を指先で突きあまりの柔らかさに驚愕していた。これが自分の胸とおんなじ胸なのかと。
手術室から外科医が現れ、ミチコに手術は無事に成功したと告げる。なんなら、
「あ、お母さん、ごめんなさい、まさか、こんなことになると思ってなかったよー」
ヒトシは包帯でぐるぐる巻きにされた左腕を首からつるした固定器具に乗せながら歩いて手術室を出て来た。
腕に刃渡り二〇センチメートル近い包丁が刺さったというのに、あっけらかんとしている自分の息子を見たミチコは張り詰めていた気が一気に抜け、病院の壁に後頭部を打ち付けそうになるほど全身から力が抜ける。
「お兄ちゃん! もう、私がどれだけ心配したと……」
トワが大声を出そうとしていたので、ヒトシは右手で口を押える。すぐに右腕でぎゅっと抱きしめた。
「トワ、心配かけてごめん。でも爆破事件にトワが巻き込まれていなくて本当に良かった」
「も、もぅ……、私はハグだけで、許しちゃう甘い女じゃないだからね……」
トワはブーブーといいながらも、ヒトシの体をぎゅっと抱きしめてご満悦な表情を浮かべている。




