死の気配
「はぁ……、私は何を考えているんだ。あんな奴、気にしたら負けだ」
マオは大好きな猫の写真集を見ている時に、ヒトシのことを考えてしまった。
実家が近づくにつれ、足は泥沼を歩いているかのように進みにくくなる。このまま、コンビニに逃げたい。そんな気持ちに苛まれながらも猫の写真集を抱きしめる。モモカとまた猫の話がしたい。大学にも行ってみたい。女子がギャーギャー騒ぐほど盛り上がっているコイバナというのもしてみたくある……。
まだ、高校で出来ることは沢山あるのだから、母に辞めたくないと言わなければ。
走ると歩くを繰り返し、午後七時頃に実家に到着。
ボロアパート一階の左端、階段を移動する音が直に聞こえる嫌な場所。壁は薄く、内部で少し声を荒らげればすぐに外に漏れだしてしまう。
「あぁ、気持ちいっ、もっと、もっとちょうだい、お金なら払うから、もっと、私を愛してっ~!」
「たく、しょうがねえなあ。今までの金も、ちゃんと耳をそろえて払ってもらうからなぁ」
「うん、大丈夫、払う、払うよ、ちゃんと払うから、娘にも沢山働かせてお金を生ませるからぁ。あぁっ、きもち、気持ちいいの、そこ、もっと突いて」
「ほんと、どうしようもねえ、女だな……。怖気がするぜ」
聴きたくもない母の喘ぎ声と知らない男の人の声が混ざって薄い壁の奥から生々しく聞こえてきた。タイミングの悪さに反吐が出そうになる。
あらゆる娯楽に溢れた日本ですら性行為に勝る快楽はないらしい。愛があればの話だが。
貞操だけは死ぬ気で守って来たマオは母のまがい物の幸せな時間が終わるのを扉の前でじっと待っていた。
今まで真夜中の帰りだったため鉢合わせずに済んだが、万が一、学校を辞めて昼の仕事に回ったとしたら、毎晩のように母とどこの誰かも知らない男の汚い声を聞かなければならないのかと、今になって学校を辞める弊害が体に沁み込んでくる。
だが、アルバイト先がおそらく廃業するコンビニ。深夜で新しいアルバイト先を探さなければと、頭の中で予定が組み上がっていく。ある程度、終えると猫の写真集を開き、モモカの写真の腕に唸りながら猫を見る。
猫を見たら癒される、猫を見たら嫌なことが忘れられる、現実を見るより猫を見たい。そんな猫信者のマオは一時間近く立ち尽くした状態で猫の写真集を何度も何度も初めから見直した。午後八時頃、声が聞こえなくなる。ようやく終わったかと一息ついた。
「なんでっ! なんでなのっ! 私たち、愛し合ってるじゃない! 結婚の約束だってしたじゃない!」
「お、おいおい、ちょっと、落ちつけって……。結婚するとはいったけどさ、お前、結婚費用、出す気ないじゃん。結婚するにしても、金がいるんだぜ、その金がないのにどうやって結婚するんだよ?」
「だから、お金はこれから生み出すって言ってるでしょっ! 結婚が先でもお金が先でもどっちでもいいじゃない! あなた、私のこと愛しているんでしょ、なら、先に結婚してもいいじゃないっ!」
「ま、まあ、まてまて、その話はまた今度にしよう。金もまた今度でいいからさ、な、また今度、落ちついて話し合おうぜ。もちろん、俺はお前を愛しているよ、あぁ、愛している愛している」
「はぐらかさないで、私の全部をあなたにあげるわ、お金も、命も、体も、何もかも……。だから、私を幸せにしてよ。ねえぇ、お願い、私に愛をちょうだいっ! ほかに何もいらないからぁああっ!」
建物の中でドタバタと何か暴れるような音が響き渡る。鳴いているカエルを踏みつぶしたような音や、食器類が割れる音、壁が壊れるような音。
幸い、周りの住居人はまだ帰って来ていない様子で苦情は入らない。
「愛、愛、愛、愛、愛、愛……、うっせんだよ、糞婆ぁあっ! もういい、どうでもいい、金にならねえ女なんて、ゴミだっ! もう、一生、店に来るんじゃねえよ! お前みたいなババア、はなから愛してなんかねえよ、この世の底辺ババア! 愛してほしけりゃ、金を出せ、金をよっ!」
男の叫び声が上がると一気に静かになる。だが、マオは感じ取った。血の繋がりが一応ある母の中で何かが壊れてしまったような、心のよりどころがまたなくなってしまって大きな穴が開いてしまったような、虚無感を……。
マオは扉に手を伸ばせず、息がつまりそうな雰囲気が漂う家から、後ずさりしてしまっていた。こういう時、自分は拘わっていけない。
何かすれば、むしゃくしゃした母の暴力の矛先が自分に向いてしまう。幼少期の記憶がフラッシュバックする。今は息を殺し、気配をなくし、まるで自分がこの世から消えた存在としてふるまわなければならなかった。
「ちょ、ちょっと待て、そ、それはやばいだろ、ちょ、お、落ち着け、な、落ち着けて!」
男性のドタバタとした大きな足音が、扉の奥から聞こえてくる。扉が破壊されたかと思うほど勢いよく逃げ出してきた男は金髪でお世辞にもカッコいいといえない顔つき。スーツや靴は手に持っており、見るからに良い品だった。
歌舞伎町のホストだろうか……。その男がパンイチの状態で臭い香水を辺りに広げながら走り去っていった。
空いた扉の向こうに見えるのは幸せだったと思われる行為の後に身に着けたであろう、下着姿の母。
お金もないのに質のいい美容室に行って綺麗に纏まっていたはずの長い茶髪は幽霊のようにボサボサに乱れ、毛先から足先まで精気が完全に抜けてしまったように項垂れている。
「あんたのせいよ……、全部、何もかも、マオのせい……。あんたなんか産んだから……、体がたるんだし、皴が増えるし、老けて見えるようになったのよ……。本当なら、もっとお金持ちでイケメン、地位の高い人と結婚して幸せな生活を育むはずだったのに……。あんたを生んだせいで、私の人生、滅茶苦茶よっ!」
目の前から迫る得たいの知れない存在が、ほぼ使われていないから刃こぼれ一つない包丁を握りしめて歩いてくる。
「マオが死ねば、私、また若返るかしら……。マオがいるから、私は一生幸せになれないんだわ。マオが、いなくなれば、私は幸せになれるんじゃないかしら……。そうよ、そうに違いないわ……。そうすれば、幸せな生活が、私に入り込んでくるはずよ……。あぁ、マオ、もう、学校に行かなくていいから、ここで死んでっ!」
目の前から迫る母は何かに取りつかれたように機敏に走りだし、ゴキブリを何の抵抗もなく叩き殺そうとするようにマオの前に来る。
母は人を刺し殺せる鋭利な包丁をマオの顔目掛けて勢いよく振りかざしてきた。狂気の表情と叫び声、武器の包丁は逆手持ち、まさに日本の童話に出てくる鬼婆のそれ。
実の母に悪霊が乗り移ったのか。いや、そうではない、限界だった母の精神が完全に崩れてしまった。もう、目の前の狂人に理性は残っていない。




