ダサTシャツ
ヒトシの朝は早い。日が昇り始める前に目を覚まし、早朝からトレーニングを始める。生前からの日課が全く抜けていなかった。
荒川河川敷を他のお爺さん、お婆さんに迷惑が掛からない程度に竹刀を背負いながら爆走。もちろん、すれ違う人々に大きな声で挨拶も忘れない。雨の日は走るだけだが、晴れの日は河川敷を降りて広場で竹刀を千回振るう。
「おやおや、ヒトシ先輩、ここであったが一日目。今日こそ、決着付けようぞ!」
ヒトシの前に現れたのは赤いジャージを身にまとったユウだった。背中に竹刀を入れるケースを背負っており、竹刀を握って構えている。
「いや、決着って言われても。と言うか、ユウさんも剣道をやっているんですか?」
「趣味程度にですかね。でも、この竹刀は演劇の稽古で使う方が多いです」
ジャージ姿でも他の者の視線を釘付けにする美貌を持ったユウは春風に吹かれ、長い茶髪を靡かせる。
彼女の構えを見た瞬間に強いと判断したヒトシは微笑み返し、竹刀を構えた。男女で試合することはほとんどないが、練習だとたまに相手になる。けれど、あたり前のようにヒトシから一本を取る女子はいない。
「ヒトシ先輩、これは剣道ではなく演劇だと思ってください。私の攻撃を全部上手く躱してくださいねっ!」
ユウは竹刀を真上に投げる。加えて着ていた長袖のジャージを脱ぎ捨て『勇者』と言う字が書かれたダサTシャツを曝した。
真上から落ちてくる竹刀を見もせず手に取り、体の周りで巧みに回して剣道でまったく見ない構えを取る。そのまま、一歩でヒトシの足下まで潜り込むと真横から大きな一振りが放たれる。
ヒトシは後方にバク転し、靴裏で地面を擦りながら停止。ユウの動きが演技なのかと疑わしいほど洗礼されており、魔王と戦っていたウィンディと姿が被る。
「ヒトシ先輩は今の攻撃を躱してくれるんですねっ! うはぁっ~、やっぱり、やっぱり、ヒトシ先輩は演劇部に入るべきですよ! 私が勝ったら、演劇部に入ってくださいね!」
ユウはヒトシが四の五の言う前に地面すれすれで走り、鋭い連撃を放った。
ヒトシはユウの普通じゃない剣術に翻弄されるも、騎士以外は皆自己流だったな……と思い出に浸りながら、竹刀を叩き合わせる。
爆竹のような破裂音が乾いた河川敷に響き渡り、辺りの人々の視線を集めていた。喧嘩かと思う者が大半で、警察沙汰になる一歩手前。
ユウの竹刀がヒトシの体に当たりそうになる。その瞬間、ヒトシは人間の反応速度の限界値〇.一秒を軽く超えた。
――プルウィウス流剣術、シアン流斬。
ヒトシはふと、昔の感覚でユウの竹刀に向って剣術を放ってしまった。ユウの手から竹刀が吹っ飛び、高らかに舞った竹刀は地面に衝突して拍子良く粉砕。
ユウは尻餅をつき、大きすぎる目をさらにかっぴらいて驚いている様子だった。
「ご、ごめん、ユウさん。大丈夫……」
「はわわわ……、ヒトシ先輩、凄いっ!」
ユウはすぐに立ち上がり、ヒトシの体に抱き着いた。その瞬間、ヒトシの体が宙に浮く。大腰(柔道・相撲の技の一。相手のからだ全体を、自分の腰の上にのせるようにしてひねって投げる)が完璧に入っており、ヒトシの背中が地面に……つかず、靴裏が先に地面につき、ブリッジ状になって一本を防いだ。
「はわわわ~、私の攻撃にここまで耐えてくれる人、初めてですっ! もっといっぱい色んな技をかけてもいいですかっ! 良いですよね! ありがとうございます!」
「僕、まだ何も言っていないけど!」
ヒトシとユウは剣道から柔道にシフトし、空手やボクシングを経由してざっと三〇分ほどしのぎを削っていた。
ヒトシは決して手加減しているつもりはなかった。そのため自分と互角に戦える女子と初めて会い、笑っていた。
ユウも同じく自分と戦ってすぐに倒されない相手と初めて出会ったようで、笑顔が絶えない。
性別が同じならば公式試合で白熱した勝負ができるライバル関係になれた。が……、どちらともスポーツにガチになる性格ではない。
「ひゃっふっ~! いぇえ~い! ヒトシ先輩、運動神経良いですね!」
ユウはヒトシの手を握り、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら琥珀色の瞳を太陽の如く輝かせていた。輝きが強すぎて直視できないヒトシは視線を反らしながら苦笑いする。
「ユウさんも凄いよ。ここまで堂々と張り合えるなんて思ってなかった」
「ヒトシ先輩がいれば演劇部でもっとリアリティのある演技ができます。ハリウッドも狙えちゃいますよ!」
「はは……、言い過ぎだよ」
ヒトシはユウの熱烈な勧誘を受けるも、頷かなかった。
「はぁ……、そうですか。じゃあ、仕方がありません。私がヒトシ先輩と付き合ってあげるので演劇部に入ってください」
「なにを言われても僕は演劇部に入らないよ。えっと、竹刀の弁償を」
「百万円です」
「たっか! そんな竹刀があるの……」
「嘘です。二千円くらいですから、別に気にしないでください。どうせ、演劇の稽古の時に壊れちゃいますし、予備は沢山あるので」
「そう言われても、僕が壊してしまったのだから弁償する義理がある。学校でお金を渡すよ」
「もう、律儀ですねー。ま、ヒトシ先輩がそういうなら、私は何も言いません」
ユウは放り投げたジャージを拾い、軽く叩いてから腰に巻き付ける。ぺったんこな胸辺りから書かれているダサTシャツの『勇者』の文字が存在感を放っており、ヒトシは彼女が勇者の役をやったらさぞかし凄い演技になるのだろうなと優に想像できた。
「じゃあ、ヒトシ先輩、明日も一緒に稽古しましょうね!」
ユウはヒトシの返事を聞く前にチーターを思わせる加速とバネを披露し、時速四〇キロメートル近い速度で走っていた。なんせ、新聞配達の原付を余裕で追い越していたので間違いない。
「いったい、何者なんだ……」
ヒトシは粉砕した竹刀を拾い集め、グチャグチャになっている地面を軽く均してから家に帰った。軽くシャワーを浴びてから制服に着替え、朝食と父母自分用に弁当を作り、トワを起こしに行く。
「トワ、朝だよ。起きてー」
「うぅん、もっと寝ていたい……」
「僕は朝にちゃんと起きられる子が好きなんだけどなー」
ヒトシが呟くとトワはベッドから飛び「起きた!」と叫ぶ。
ヒトシはトワの頭に手を置き何度も褒めるとトワの顔が緩んでいき、すぐに目が冴える。
家族四人そろって食卓を囲む。夜は家族の時間が合わないため朝食だけは一緒に取っていた。
朝食の最中に流れているテレビの情報番組のニュースキャスターがニュースを拳銃の弾丸のように言いまくる。何百キロメートルと離れた場所。何なら、世界の反対側の情報がインターネットですぐにわかる情報伝達技術にヒトシは今でも信じられない。逆に感銘も受ける。
ただ、これといって面白い情報が一つもない。全て辛いニュースばかりだ。飲酒運転の車に巻き込まれ歩行中の家族が亡くなったとか、児童が飛び降り自殺したとか、息子が面倒見切れなくなった老いた母を殺したとか、学生が行方不明になったとか。
知りたくなかった情報まで流れ込んでくる。拳銃の弾丸やマシンガン、ライフル、ショットガンなどの攻撃は全て躱せる自信があるのに、不意に流れてくる情報は躱せない。聞き逃すしかない。
異世界を生きていたが、事故が起きて数名の犠牲で済んでマシじゃないか、と思えるわけでもない。有名なトロッコ問題のようなものだ。選びようがない。軽い命などこの世に存在しないのだ。