同じ気持ち
「田中さん、話し合いましょう! 車の中から出て来てください!」
タナカはヒトシの言葉に耳を傾けず、警察が集まる前に携帯電話で公衆電話の位置を調べる。だいたいの場所がわかれば問題なかった。
「田中さん、僕もあなたの気持ちがわかります。守りたかったものが無慈悲に奪われて凄く辛かった。自分の無力さを呪った! 生きている自分が憎たらしかった!」
ガラス一枚を隔てて、外からヒトシの大きな声が車内に響いてくる。
その黒い瞳に映る、ごく普通の一般人としてのヒトシが、自分と似た心情を抱えているのではないか、そんな考えが一瞬でも頭をよぎったことにタナカは首に血管を浮かばせ、携帯電話を割ってしまいそうなほど強く握りしめた。
何の苦悩もなく日常を送ってきたようにしか見えない人間と、自分の感情が重なるはずがない。
あのテロで、大切な教え子の多くを失った。無力な自分に絶望し、自ら命を絶ちたくなったこともある。それでも、生き延びてしまった。何の報いもなく、ただ自分ひとりが今も生きているという現実が、どうしようもなく腹立たしかった。
「君に、何がわかる……。私の、何がわかるって言うんだ!」
タナカは密輸経路で手に入れたグロック一九(オーストリアの武器・軍用品製造会社の拳銃)を左手に取り、指を滑らせて引き金にかける。同時に内蔵された三つのセーフティが静かに解除された。
ためらいはなかった。左側のドアガラスに向けて一発。銃声とともにドアガラスが粉々に砕け散り、真鍮色の薬莢がチャンバーから跳ね上がる。
硝煙のにおいが外にいるヒトシの鼻腔を焼くように刺激し、発砲音で鼓膜が破れそうになる。
車内にいたタナカは銃を撃ち慣れていないため、左手首を捻挫し、間近で発砲音を聞いたため左耳から血が出ている。だが、そんなこと一切気にしない。右手に視線を向け、マオが使っていた公衆電話は渋谷近辺だと調べが付いた。
携帯電話を無造作に放り捨て、右手でハンドルを握り直す。左手の激痛に顔をしかめながらも、グロックを手放したその手で無理やりシフトレバーを掴んだ。その瞬間だった。
真横、左のドアが唐突に跳ね上がるように開き、冷たい風が車内に流れる。それと同時、鉄の塊のような蹴りがタナカの左頬を抉った。
視界が跳ね、奥歯の軋む音が頭の内側に響く。
「わかりますよ。人の死は何度見たって慣れません。夢にも見る。でも、その人が死んだことを覚えていられるのは自分だけなんですよ!」
ヒトシは、タナカが左側のドアガラスに向けて発砲した瞬間を見逃さなかった。銃口は向けられず、その視線はどこか虚ろで自分を撃つ意志がないことは明白だった。
一瞬で状況を読み切り、ヒトシはトラックのボディを駆け上がる。重力を無視するかのような身体能力で車体の上部を越え、風のように左側へ回り込む。
鍵に手がかかった刹那、ドアを開け放ち、サンルーフの縁に手をかけて一気に加速。跳ねるようにして車内に踏み込み、鋭い蹴りをタナカの顔面に叩き込んだ。
床に転がっていたグロックをすかさず拾い、シートベルトを引き剥がしながらタナカの胸ぐらをつかむ。迷いのない動作で体をひねり、左側のドアから巴投げの要領でタナカを放り出した。
トラックはすでに前進している。タナカは蹴られる前にアクセルを踏んでいた。
「ニュートラルに入れて、ブレーキを踏んでいるのに、止まらない……」
トラックが改造されているのか、トラックは真っ直ぐ進む。なんなら、ハンドルが自動で回っていた。何者かが遠隔で操っている可能性がある。機械音痴なヒトシにこれ以上何も出来ず、右ドアから脱出。
地面に転がっているタナカはフラフラと立ち上がり、トラックの後ろを追っていた。
「田中さん、これ以上、罪を重ねたら駄目です。そんなことして死んでも、天国にいる生徒に会えませんよ!」
ヒトシは地面を掛け、タナカの体に背後からタックルし、倒れ込ませる。そのまま、腕を取ってうつ伏せにさせたまま抑え込んだ。柔道は相手の背中を付けさせて抑え込みに入るが、実際の犯人に正面から覆いかぶさるのは危険だ。
「あの映像で叫んでいたのはタナカさんですよね。あの殺されていた生徒たちは教え子ですか……」
「清嗣、七海、大翔、義郎、幸太郎、舞、詞南、金之助、豹耶……」
タナカの口から知らない者たちの名前が念仏のように発せられている。
高校二年生の修学旅行、教師だったタナカとその生徒たちはアメリカへと渡った。テルス・ベッルムと言う名のテロリスト集団がまだ息をひそめていたころ、他の観光客同様にタナカたちは運悪く初めての被害者になった。
九.一一(アメリカ同時多発テロ事件が起きた二〇〇一年九月一一日)の教訓を得ていたアメリカだっため、比較的対処は早かったものの人質二〇〇人のうち一八〇人は無慈悲に銃殺された。
殺害に大した意味はない。戦争で捕虜を殺すのはよくあった話だ。と逮捕されたテルス・ベッルムの団員はいう。
タナカの生徒たちは何の意味もなく殺され、未来を奪われた。どうせなら、あの時死んでおけばよかったと何度思ったか。自殺を試みようとして、何度失敗したか。躁鬱になり教師を退職したて消息を隠した生活。
タナカの存在を嗅ぎつけた、テロに会い、無慈悲に殺された生徒の父親などがコンビニに押し寄せてくる機会は多かった。犯罪に手を染めようとする者もいた。なぜ、息子や娘が死んでお前だけ生き残っていると叫ばれる内容が、脳内で永遠に繰り返される。
「みんな……、弱い、私を許してくれ……、今すぐ……、そっちに行かせてくれ……」
タナカは地面に額を押し当て、アスファルトに冷たく硬い感触が額に食い込むのも気にせず、溢れ出た涙がその表面に滴り落ちていく。荒い息が鼻腔を震わせ、顔を歪ませながらも、その涙は止まらなかった。
やがて、頭を持ち上げると瞳の奥には虚無だけが広がっていた。無意識に、次の瞬間、彼は自分の頭を勢いよく地面に打ちつける。鈍く響く音が周囲に反響し、額が擦れるたびに皮膚が裂けて血がにじみ、アスファルトに赤く滲んでいく。
だが、それでも止まらない。
タナカの様子は、完全に常軌を逸していた。彼の動きは無意識的で、まるで自分を壊すことを望んでいるかのようだった。素人のヒトシから見ても精神に異常をきたしている。
ヒトシはタナカの背中に腕を押し当て、力を込めてその頭部が持ち上がらないように押さえつけた。その間にもトラックは勢いを増し、進んでいく。
大きな音を立てながら柵を突き破り、石段を乗り上げ、国会議事堂の背後に向かう。
外では、国会議事堂近くを歩く人々の姿がぼんやりと見える。交通整備によって周囲の車は通っておらず、まるで時間が止まったかのように静かな空気が漂っている。
その静けさの中で、歩道を行き交う人々の足音が妙に耳に残る。どこか遠くの街角では、コーヒーを片手に立ち話をしている若者が笑い声をあげ、近くのカフェのテーブルでは、誰かが手にした新聞を広げて、何事もないように日常の一幕を過ごしている。
だがそのすぐそばで、トラックは音を立てて突き進んでいる。周囲の平穏とは裏腹に、まるで別の次元で起きている出来事のように。




