飴と鞭
「じゃあ、僕はもう行くね。にしても、こんな夜遅くにアルバイトなんて偉いね! アルバイト、頑張ってね! ああ、出来る限り明るい道を通って帰った方が良いよ、魔王様、すっごい美人だから、酔っ払いに絡まれたら危ない」
「え、ええ……」
魔王様はヒトシの長たらしい発言に戸惑いを見せていた。だが、次の瞬間に疾風を思わせる素早いスタートダッシュを決めたヒトシを背後から見て、口が開きっぱなしになる。
☆☆☆☆
「ただいまー。ちょっと遅くなっちゃって、ごめんなさい」
ヒトシが家に帰ると、スマートフォンを持ちながら頭を何度も下げている母親の姿が見えた。会話の内容から察するに、先ほどの万引き犯を捕まえた報告がされているようだ。特にいつも通りで対応に慣れた母親は「またか……」と言いたそうな表情のままヒトシを睨む。
「ヒートーシー、また、またまたまたまたまた、厄介ごとに首突っ込んで!」
母からすると、犯罪者を毎週のように捕まえている息子が誇らしいという感情は一切ないらしく、危険な行動はとらないでと幼少のころから何度も口にしている。
ヒトシにとっての危険な行動は国を脅かす武装敵組織に単独で乗り込むことなので、今回の件に関しては危険ではないと説明すると裸締をお見舞いされる。
ヒトシが母に抵抗した時は一度もなく、叱りを受ける時間ですら笑っていた。前世で産みの母と会った覚えはなく、家族の温もりを一切受けられなかった。だが、今回は違う。健康過ぎる父と母がおり、元気過ぎる妹がいて脅威となる魔物や犯罪者集団がほぼいない安全な国に生まれ、夜中に見張る必要がないほど堅牢な家に、頬が落ちそうになるほどの美味しい食事の数々が得られる。
この何もかもが幸せだと、ヒトシはひしひしと感じられる。
「あぁ。水を汲みに行く必要がないなんて。何なら煮沸する必要もない。キンキンに冷えていて無臭。ほんと、美味しいなぁー」
ヒトシはウォーターサーバーの水をコップに移し、一気飲みした。水を飲んで毎度、美味しさに驚かされており、家族から呆れられていた。
「お兄ちゃん、それ、地下帝国の人が言うような言葉だよ……」
「うーん、確かに地下に帝国を作っていたドワーフたちは綺麗な水を飲んで嬉しそうに……、じゃなくて、美味しい水は恵まれているんだよ。感謝して飲まなきゃ」
「どこの水も大して変わらないでしょ」
トワは安い肉でも満足できる舌を持っているので、水道水より高いミネラルウォーターの味などどうでもいいと考えている。だが、ヒトシの料理は目隠しした状態でも百発百中で当てられる謎の才能を持っていた。特技が役立った場面は一度もない。これからもない。
「じゃあ、お風呂に入ってくるよ。皆、もう入った? 入ったなら風呂場を掃除しておくけど」
ヒトシの目の前にお中元で送られてきた高級バスタオルを抱きしめているトワが目を輝かせながら止まっていた。身長一五〇センチメートルほどでヒトシの胸にデコが当たるくらいの身長。どうやら、夜中の十時になるまでトワはお風呂に入っていなかったらしい。
少し前まで小学生だったとはいえ、すでに中学生になったのだからそろそろ一人でお風呂に入るころのはず……。
マキオ曰く「兄貴は絶対に入ってくるなよ」とか「入って来たら殺す」とか、言われるようになるはず。だが、その兆候は今のところ見受けられない。
ヒトシとトワは共にお風呂に入り、体の疲れをしっかりと解した。トワはヒトシの上半身に抱き着くコアラ体勢で入浴し、顎を肩に置いて背中をトントンされるのが好き。決して赤子ではない。
ヒトシが日本に来て驚いたことの中で、お風呂は上位に食い込んでくる。熱いお湯が安価で手に入り自分達専用の風呂場があり、石鹸と言う高級品まで大量に使える。前の生活は川で体を洗ったり、買った水に布を浸して、体を拭いたりできればいい方で、水がない場所だと体を一ヶ月洗わないのもごく普通だった。
安心して長風呂できる生活はヒトシの心に確かなゆとりを生んだ。守るべき大切な妹を抱えている状況は不可解だとわかっているが、お人好しゆえ断れない。
父と母はすでにお風呂に入ったというので、ヒトシとトワが体を洗い終えた後、風呂場の掃除をさっとこなす。短時間でも、毎日こなしていれば汚れが増える心配がない。
風呂場から出たら、体をバスタオルで拭いた後、使ったタオルもそのまま、ドラム式洗濯機に入れて洗濯する。機械が洗濯してくれるというのだから、楽で仕方がない。
料理、洗濯、掃除、その他諸々、ヒトシは家事をこなしていた。こんな良い生活をさせてもらっているので、両親に何も返さないという選択肢はなく、体力のある自分に出来る範囲で家事を担っていた。
「ヒトシ、ちょっと来なさい」
ヒトシとトワが花柄のお揃いの寝間着姿でリビングに戻ってきたころ、浴衣を羽織りながら八畳の和室にいる父から声が掛かる。和洋折衷建築なる一軒家なので和室も完備されていた。
父は畳が好きで母はフローリングが好きだったからだそう。仲が良いのにこういうところで対立しているのも仲が良い要因だろう。
ヒトシはトワと離れ、父がいる和室に入る。高級な畳で柔道畳と肌触りが全く違う。
「えっと、父さん、何か……」
父は腕を組みながら胡坐をかき、目を瞑っていた。ヒトシが声をかけると、閉じられていた瞳がグワっ! と開き、柴犬のように愛くるしい黒い瞳が現れる。
「また、人助けしたらしいな」
「は、はい。困っている人がいると放っておけなくて……」
「う、うぅぅ。そうか、そうかぁ。うちの子、立派過ぎて涙ちょちょぎれる」
父は浴衣を眼元に当てて女々しく泣いている。筋骨隆々の体格に、太い首、筋が浮かび上がるほど使い込まれた腕、広い肩幅。仕事中は鬼のようだと聞くが、家にいる時だけは何とも可愛らしい父である。
「人助けは良いことだ。このまま続けなさい。悪い奴を見過ごすような男にだけはならないように」
「もちろんです、父さん」
父から褒められ、母から盛大に説教されるという飴と鞭の使い方が上手い両親に頭も上がらない。
もう午後一一時を過ぎようとしていたので、ヒトシはすぐに自分の部屋に向かった。ヒトシの部屋は二階の奥。その隣がトワの部屋になっている。
自分の部屋に入り、電気を付けた後、剣道の防具や竹刀の手入れを欠かさずこなす。傷が入っていて最悪折れた場合、相手が怪我してしまうかもしれない。
昔は自分が死なないようにしていた手入れが、相手を守るためにする行為に変わると全く思っていなかった。
手入れしていたら、あっと言う間に時間が過ぎ、午後一二時前。ベッドの上に薄手の布団にくるまっている物体があると気づく。
ヒトシは薄手の布団を摘まみ、そっとめくる。脅かそうとしていたであろうトワが良い笑みを浮かべながら心地よさそうに寝落ちしている姿が見て取れた。
「いっぱい眠って、大きくなるんだよ……」
ヒトシはトワをお姫様抱っこし、隣の部屋のベッドに移動させる。トワに布団を掛け直し、そっと部屋を後にした。自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がるとトワの温もりが感じられる。何とも幸せな瞬間だ。数カ月後にこの温もりも得られなくなると思うと少し泣きそうになる。