もう拘わらないでくれ
「もう……、私に拘わらないでくれ」
ヒトシの横を過ぎ去っていくマオの青い瞳は水玉のように潤い、ダムが結界したかと思うほど涙を流していた。彼女の感情が理解できず、ヒトシは立ち尽くす。
マオは学校を出て自宅に戻る。
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昨日、金曜日の夕方ごろにマオは制服を着替えるため家に帰った。いつも通り、嫌いな香水のにおいが玄関に充満している。まだ、香料が強いため、使われたばかり。
「マオ、聴いて聴いて。私、とうとう再婚するの」
もう、毛先がボロボロになるほど髪を何度も染め、少しでも若く見せようとしている痛い母が両手を大きな胸の前で握り合わせ、たわ言を言い始める。
いったい、何度目だろうか。再婚するから、結婚資金が必要なの、相手が結婚資金があるなら結婚してもいい、とかほざいている男らしい。
何度も持ち逃げされて、何度泣いてきたのか、自分の実の母だというのに情けなくて仕方がなくなる。
すでに、そんなお金を用意できるほど母に稼ぎはない。キャバ嬢として働いているがそのすべて、何ならそれ以上の金をホストにつぎ込んでいる。
何度やめさせようとしても止まらず、完全に諦めの心情が大きかった。
マオは何をいっても意味がないと知っているため、母がキャッキャと飛び跳ねている姿をただ見ていた。
「私が結婚したらもっとお金が必要になる。私も中卒で生きていけてるし、マオも高校を出る必要ないわよね。なら、高校を止めて、今すぐ働き始めた方が良いわ。どうせ、あの人と一緒で碌な人間にならないだろうし」
垂れ気味な乳の谷間が丸見えのいかがわしい真っ赤なドレスを見に纏った母は加齢臭や酒、たばこのにおいを消すかのように無駄に高い香水を自分に何度も吹きかける。
高級なバックを持ちツルツルピカピカなハイヒールを履き、マオの意見など一切聞かず家を出て行った。はたして仕事に行ったのか、ホストに会いに行ったのか、マオに知るすべはない。
このとき、猫トークや『犬のおまわりさん』で気分がほのかに高揚していた。だが、心情は拳銃で撃ち落とされた鳥のように急落下している。
中学三年のころも大きくもめた。若くて可愛い女ならば割の高い仕事がある。犯罪に近いが、年齢を偽るなど大概の者がやっている行為。見つかったとしても未成年なら大きな痛手にならない場合が多いなど、全く誇れない知識ばかり教えてくる母。
高校に行く必要がないと言う母と、高校大学まで行こうと考えていたマオは衝突。
昔から自分勝手な母はやることなすこと、全て失敗してきた。母の両親も最悪だったらしい。
結婚した相手も最悪で、仕事場も最悪、再婚しようとした相手も最悪、親子そろって不運体質。そう考えると、母の腹から生まれてきたのだと実感した。
高校にあがる時は自分が学費を稼ぐと説得し、何とか入学できた。その後、アルバイト代で学費以外が母に引き抜かれることもしばしば。食費や家賃代までホストや持ち物に使い込んでしまうため生活は火の車状態。
家で食事しようものなら『生活費を隠していたのか!』と殴られる。猫グッツが大量に置いてあるのは母も猫が好きで唯一許されたから。
それ以外の品があると、仮面を脱ぎ捨てたように怒り狂う。何を言い返しても、母が決めたら変わらない。自分がこの世に産まれてきたことすら望まれていない。
子供なんて生まれただけでお金がかかる。なら、なんで産んだのか。理解不能だ。
「はぁ……、なんで、私はあんな女にしたがっているんだ。逃げればいいのに。逃げるってどこに? なんで、私が逃げないといけないんだ。何も悪いことしていないじゃないか」
何度反発しようとしても、なぜか言いくるめられてしまう。高校に進学して気づいたのかもしれない。自分の不運体質は大きくなっても変わらず、頑張っても意味がないと。
良い未来のため頑張って来たつもりだが、ヒトシから良い未来とは何か質問されて答えられなかった。何も変わっていない。昔からずっと……。
プライドが高くて、傲慢で、本当は寂しがり屋で、ビビりで、涙もろい。一切変わらない性格にうんざりする。今度は頑張ろうと思っても、いつの間にか元に戻っている。
体目当てではなく普通に友達になろうとしてくる男、見るからに育ちが良さそうで演劇部なんかに誘ってくる癪に障る女、猫の話が始まったら止まらない面倒な女、もう、金輪際拘わりあいたくない。これ以上拘わったら、別れの時に辛くなる。
「はは……、出会って一週間も経っていないんだぞ。なんで、こんなに胸が熱くなるんだ」
出会って一週間のはず。なのに、もう何年も前から知り合っているかのような、鎬を削ってきたライバルのような感覚があった。
特にヒトシとユウは赤の他人と思えない。この五日間で犯罪者に三回出会い、下着を見られ、水たまりに突っ込み泥まみれになり、コインランドリーでカッパを着ながら全裸になって猫好きだとバレた。
母が再婚を理由に自分を退学させると決心してしまったのも全て不運だ。毎日、何かしらの不運があって心休まる時がない。
もう嫌だ、なんで自分だけ、そんな弱音が流したくもない涙と共に出てくる。その度に感情を飲み込んで自分を押し殺してきた。
「学校を退学になるなら、もう、頑張る必要もないか。アルバイトに行って金を稼がないとな……」
マオは母に対して膨れ上がる鬱憤を冷まし、感情を抑え込む。冷徹な仮面を被れば、ある程度心を制御できた。服を着替えてコンビニのアルバイトに向かう。
人気のないコンビニ。土地が狭い東京でコンビニオンリーの店も珍しい。高校入学時から働かせてもらっている。
いつも控室で服を着替えるが、営業時間なのに店長の姿が見えない。店長が事務仕事するときに使う部屋の扉をノックして確認するが、返答がない。扉を開け、中を覗くと照明が付いていないのに壁際に置かれた画面がぼんやりと光るパソコンが見えた。
扉を開けて部屋の電気をつける。店長の姿はない。




