過去に浸りたくなる
「お邪魔します……」
一応一言呟いてから扉の前に立ち、取っ手を持って押し開ける。決して広くないリビングが現れる。
中央に使い古されたテーブルが置かれ、手前の左端に小さ目のキッチンと通常の半分もない小さな冷蔵庫があった。その上に二合ほどの炊飯器が置かれている。だが埃を被っており使われた形跡はない。
扉が二カ所ありマオの部屋と書かれた紙がセロハンテープで貼られている場所を見つける。
ヒトシはマオの部屋の取っ手を握り、引いて開けた。唯一香水臭くなかった。猫のグッズというか、猫がデザインされている商品が沢山置かれていた。カーペットや布団カバー、枕カバー、猫カレンダーに猫のポスター。至る所に猫だらけ。
茶色っぽい毛並みの青眼の猫が多い気がする。まるでマオが猫になってしまったようだ。
人の好みに口出しする気はないので何ら気にせずマオをベッドに寝かせようとした。だが、綺麗に整えられたベッドに今のマオをそのまま乗せてしまったらベッドが確実に汚れる。猫の肉球型カーペットも汚してしまいそうなので、この場に寝かせるのも申し訳ない。
コインランドリーにいた四〇分のおかげかカッパの表面は乾いていた。椅子になら乗せても問題ないと判断し、塗装が剥がれて古めかしく見える木製の椅子にそっと座らせる。
コインランドリーのテーブルに突っ伏していた時と同じ格好でそのまま眠らせておく。彼女が寝過ごしてしまうのも危惧し、高校までの距離を考え午前七時三○分ごろにアラームが鳴るように猫型の目覚まし時計をセットしておく。
「これでよし。じゃあ、牧田さん、僕はこれで失礼します」
ヒトシはささっとマオの家を出て、自宅に戻ると午前七時前だった。シャワーを浴びたい気分だったが、先に朝食と弁当を作り終える。
朝食は味噌汁と大根の漬物、軽めのサラダ、ご飯、きんぴらごぼう、サバの塩焼き。
マオが猫好きだと知ったので、マオに渡すようの弁当に猫の雰囲気を漂わせる。
具体的にご飯に乗せる海苔を猫の肉球型にしたり、ハムとチーズを使って猫の肉球を再現したり、具材の配置を工夫して横たわる猫のポーズを作ってみたり。これを見ればマオも元気を出すだろうとヒトシは微笑む。
化粧を終えたスーツ姿の母は猫というより虎のように大きくあくび、四脚あるうちの右奥の椅子に座る。
スマートフォンの通知を確認し、テレビのリモコンに手を伸ばした。
午前六時五九分から午前七時に変わる瞬間ぴったりにテレビをつけるのが母の癖が強いルーティーン。
誤差〇.一秒に収まると母はドヤ顔をヒトシに向ける。
その後、一〇分と経たず、父とトワが似た寝起き姿でリビングに入って来た。親子は似るのが当たり前だが、父とトワの仕草はほんとよく似ている。
両者共に朝が弱いタイプ。母とヒトシは朝が強いタイプ。しっかりと遺伝するものだなと、毎朝思った。
平日は四人そろって夕食が取れない日が多いため、朝食だけは毎朝四人できっちりそろって食べる。それが日常生活に大した縛りが無い村坂家の唯一の仕来り。
「ヒトシ、いつもありがとうね。土日は私が家事するから」
「別に、土日も僕が家事しても良いよ。休日だし、母さんも休みたいでしょ」
母は頭を横に振ってヒトシの発言を拒否する。ヒトシが赤子のころから泣かず喚かず優秀過ぎて、保育士に逆に怖いといわれるほどだった。
妊娠と共に仕事を辞めるつもりだったが、未だに続けている。本当に仕事が好きらしく、公務員なのに毎日残業して帰ってくるほどだ。ほとんどの人が定時に帰るというのに……。
父とトワはぽけーっとした顔で料理を口にする。サラダをボリボリと食し、みそ汁を飲んだ辺りから覚醒。朝食を全て平らげた頃、完全に目を覚ます。ヒトシの朝食が目覚ましスイッチとなっており、そこからは準備が早い。
父はつなぎを着こみ、手ぬぐいを三角巾のように頭につけて大きめの弁当と水筒が入った保冷バックを持ち、威厳たっぷりに「行ってくる」と呟いてから午前七時三〇分ごろに一番に家を出る。
次に母が黒い仕事用のバックに板チョコと共に手ぬぐいで包まれた小さめの弁当箱を入れ、背負ってから「行ってきまーす」と父の後を追うように午前七時四五分に家を出ていく。
階段をドタバタ通りてくるトワが転んだ声が聞こえ、体を摩りながら苦笑い。インターフォンが鳴る。トワの友達が迎えに来たというのに、はぁーと息を吐き、頬を膨らませる。
「私、中学生になったのにお兄ちゃんとまだ一回も一緒に登校していない!」
「まあまあ、友達を無下にしない方が良い。せっかく迎えに来てくれているんだから、一緒に行っておいで」
「むぅ~、行ってらっしゃいのチュウちょうだい!」
トワはヒトシの前に立って大きめの声を出し、口を尖らせる。
「小学校で卒業しようよ、そういうの……」
「お兄ちゃんのチュウがないと、私は車に轢かれて通り魔に刺されて男の人に連れ去られちゃうよ。冗談とかじゃなくて、本当に」
どこかリアリティのある発言にヒトシは溜息をついて、トワの顎下に人差し指の側面をそっと当て、上を向かせる。
唇……ではなく、毎回おでこにキスしてトワをむくれさせる。こんな話をマキオにしたら、いったい何と言われるだろうか。
「じゃあ、お兄ちゃん、行ってきまーす!」
トワは通学鞄を持ちながらあわただしくローファーを履いて家の玄関を後にする。
「行ってらっしゃい。周りをちゃんと見るんだよ」
妹の身の安全を心配しながらヒトシは手を振って、トワを見送る。どことなく、毎日見送ってばかり。それは前世も今も大して変わらない。
魔王を倒すときまで、何人の者を見送って来たか今でも思い出せる。
自分はヒトリなのか、ヒトシなのか時々疑問に思う。周りを見れば、ルークス王国ではなく日本なのは明白で、まぎれもない事実。
魔法は使えなくて科学技術が発展している。魔物の被害もない。前世で考えうる限り、完璧で幸せ過ぎる世界。
されど、どうしてこう、過去に浸りたくなるのだろう。
ヒトシは鏡を見て電動歯ブラシを手に取り、少量の歯磨き粉を付けて、歯を磨く。鏡に映る自分はどことなく前世の自分の顔と似ている。一六年の間、色々あった。前世と今、どちらともに。精神年齢が三二歳くらいなのではないかと思う時もある。だが、おそらく違う。




