可愛い
「ち、違います。ちょっと不都合があって、洗濯の代金を肩代わりしただけです」
「そっかー、駆け落ちじゃなかったんだ。まあ、よかったよかった。にしても、その子、大分無理している感じだね。髪の艶とか、肌の張りとか、若いのにボロボロじゃん」
ヒトシから見たら、マオの髪や肌は普通に綺麗だと思っていた。だが、目の前のニートみたいな美女をよく見たら髪はぼさぼさでもキューティクルというのか艶が段違いで肌もむきたての茹で卵かと思うほどつるつる。モモ色の唇も妙に色っぽいほど潤っていてプルプル。このニート美女はただものじゃないと感じた。
「んー、にしても、この胸はけしからん。あまりにも発育が良すぎる。ひねりつぶしたい」
ニート美女は腕を組み、テーブルに重たい胸を置きながら眠るマオの姿を見つめていた。かくいう彼女の胸は……愛くるしいほどにつつましい。
「少年、視線に気を付けたまえ。今、私の胸を見たな、このエッチ……」
ヒトシはニート美女が身を反らせながら言う言葉に無性に心臓を高鳴らせていた。目の自前にいる女性は大人の魅力とでもいうのか、人を引き付ける力にあふれている。まるで画面の奥からでも意識を引き付けられてしまうトップアイドルのキラキラ・キララのよう。
「あ、あの、キラキラ・キララって知っていますか。あなたと凄く似ているというか、もう瓜二つというか……」
「キラキラ・キララ? ぷっ、あはははっ! なにそれ、ダサい名前。そんな、アイドルがいるの? 嘘でしょ。もう、そんなへんてこりんな名前のアイドルと一緒にしないでよ」
ニート美女はお腹を押さえながら大爆笑。その仕草は嘘っぽくなく、凄く自然で……あまりにも可愛い。
「少年。今の発言は私がアイドルに見えるくらい、可愛いってことでいいのかな?」
ニート美女はテーブルに肘を置き、頬杖をつきながら訊いてくる。可愛くなったり、色気を発したり、大人の女性とはここまで自分の雰囲気を変えられるものなのだろうか。
ぺったんこな胸を見ても何も感じなかったというのに、寝間着の第一ボタンが外れていて真っ白な肌に浮き上がる細い鎖骨が見えるだけで、息がつまる。
ヒトシは生唾を飲んで一度頭を縦に振った。ニート美女は鼻で笑う。
「ありがとっ、少年のおかげで、ちょっとやる気が出た」
ニート美女は椅子から立ち上がった後、洗濯物が入っているであろうエコバッグを持って外に出る。黒塗りのワゴン車がコインランドリーに止まると朝っぱらなのに黒いサングラスを掛けたスーツ姿の男が出てくる。
ニート美女がグラサンの男を何度も殴り蹴り、騒いでいる。グラサンの男は両手を合わせ、謝るような素振りを見せる。その後、ニート美女がグラサンの耳元で囁く。
ガラス越しから中を見られたような気配がした。コインランドリーの中にピシッと決まったスーツ姿をさらすと僕のもとに歩いてくる。
「いやぁ、少年、助かったよ。休みなのに急な仕事が入っちゃって、あの子カンカンに怒っちゃって。でも、君のおかげでやる気が出たらしい。ほんと、感謝するよ。そのお礼と言っちゃなんだが……」
グラサンの男性は内ポケットから質の良い手帳を取り出し、しおり替わりにしていたチケットを取り出す。八月に行われるキラキラ・キララのライブチケットで、マキオが必死になって取ろうとしていた東京ドーム公演の……。
「私用に取っておいたんだけれど考えてみたら、別にいらなくね? ってことで、少年にあげる。まあ、隣の彼女さんと一緒に楽しんでくれたまえ」
グラサン男は下手くそな笑顔を見せてくる。襟元やネクタイを直してから猛ダッシュで車の運転席に乗り込んだ。
ニート美女がボックス車の扉を開け、中に入ろうとしていた。ふと、ヒトシの顔を見て、ぱちくりとウィンク。
やり慣れた愛くるしい仕草に胸がときめき、日本の美女も悪くないかもしれないと美女に疎いヒトシは思った。
午前六時二○分ごろ、後方から洗濯と乾燥が終了したと知らせる機械音が鳴った。
マオは未だに熟睡中。口角から涎を垂らし、時おり『肉……うみゃ』と寝言を呟いている。夢に見るほど肉が好きなのだろう。彼女を起こしたら怒られそうな気がする。
女心などわかるわけもないヒトシは善意丸出しで、家事しているいつも通りの感覚で洗濯乾燥が終わったマオの衣類を洗濯籠に入れていく。
その際ブラジャーや猫の絵柄が刺繍されたパンツなどが視界に入るわけだが、自分の母や妹の下着類と何ら変わらぬ感覚でかき集め、洗濯籠の中に入れておく。
柔軟剤の香りがふわりと立ち昇り、洗濯乾燥したての良い匂いが鼻腔を擽った。暖かな衣類の綺麗になった姿はやはり気持ちが良い。マオにも堪能させたかったな、などと悠長に考えている。
衣類を全て洗濯籠に入れ終えた後、熟睡中のマオを背中に担ぎ、洗濯籠も持ちながら彼女の家に戻る。曇天の空模様だが、雨は止んでおりコンクリートと雨、トラックから出る排気ガスが混ざったにおいが何とも言えぬ不快感を与えてくる。
せっかく柔軟剤の良い香りで気分を良くしていたのにと思う。マオを安全に家に送り届ける方が先決だと考え直し、振動を限りなく少なくして走った。
「なんか、懐かしいな」
前世で人を助ける時によく背負っていたなと思い起こされる。大概重傷者なので、出来る限り体が動かないよう走る癖がついていた。眠った者も起こさないほど振動のなさで、マオは未だに熟睡中である。
彼女からは雨と泥のにおいがした。先ほど水たまりに入ったっきり体を洗っていなかったからだろう。背中に当たっている大きな胸の感触はおそらく柔らかい。下着を穿いていないので、背後に人がいないかちょくちょく調べながら走る。運がいいのか、人とすれ違わずマオの家に帰って来た。
ドアノブに手を伸ばし、鍵が掛かっているかどうか調べると開いている。少しだけ開けた扉の隙間からキツイ香水のにおいが香ってくる。扉を閉め、インターフォンを押した。
一度目は誰も出ない。二度目も来ない……。ただたんに鍵が開いていただけか? そう思ってマオを担いだままのヒトシは扉を開け、中に入った。
狭い玄関、正直臭い香水、おそらくタバコのにおいと混ざっている。ゴミは散らばっておらず掃除はされているようだった。
玄関に並んだ艶やかな赤いハイヒールの数々……、一足の男性用の尖がった革靴。それに対し、穴が開いたり踵が擦り切れすぎている使い古されたランニングシューズが一足。
前方に扉、右手に細い通路。通路を覗くとトイレの扉が右手側にあって、左手側に風呂場と思われる扉が見える。突き当りに鏡が壁に付けられた小さな洗面台。どうやら脱衣所は無いらしい。洗濯機も見当たらないが、洗濯用の洗剤が洗面台の下に置いてあるのでおそらく近くに洗濯籠が置かれていたと思われる。
ヒトシは持っていた洗濯籠を洗面台の近くに置いておいた。
後はマオをこの場に置いておくわけにもいかないので、靴を器用に脱がせたあと、自分の靴も脱ぐ。




