五千円
最近、メイの口から学校の同級生が子供に見えるとか、筋肉が全くない男は無理とか、付き合うならやっぱり年上の余裕がある男の人がいいよねー、など言葉をよく耳にしていた。
どれもこれも、ヒトシに当てはまる要素ばかり。ヒトシのような男がこの世界に何人もいないと知っているマキオはヒトシに忠告したつもりだが、メイの方からヒトシに向ってしまっている事態に頭を悩ませていた。
言っては何だが、メイが勝てる見込みは五割もないと察してしまっているがために、失恋の辛さを知ってほしくないと無用な兄心が働いている。失恋ばかりの人生がために、妹を同じ目に合わせたくなかった。
そんなマキオのシスコン精神など梅雨知らず、ヒトシは脱衣所を出た途端にマキオに睨まれ、自分が何かしたのか理解できず、あたふたと辺りを見回し、柔道場を後にした。
ふと、いつもの帰り道。さすがに四日連続で犯罪者がやってくるわけがないよなと思いながらも、一応、マオが働いているコンビニに顔を出す。四日連続で深夜のアルバイトに出ているマオがレジに立っていた。
自動ドアが空き、聞き馴染みのある入店音が流れる。マオの青い瞳がLED蛍光灯の明りを反射してちらりと光る。い……、と発声した瞬間に止まり、大きなため息のあと軽く息を吸って、……らっしゃっせーと言う無気力な声がお客のいないコンビニ内に響く。
もちろん視線はヒトシに向いておらず、売れ残っている肉まんやあんまんが入ったスチーマーに向いていた。すると、きゅう~ん……と言う子犬のような音がどこからか鳴った。
捨て犬でもいるのかと思ってヒトシは辺りを見回すが、犬らしき存在は見当たらない。
マオの方を見ると無表情だが、耳がじんわりと赤らんでいる。もしかすると、彼女の腹の音なのではないかと察した。
ヒトシはコンビニの中を見回り、犯罪者らしき人物はいないと確認を終えた。その後、マオの前に歩いていく最中、またしても、きゅうぅ~んと言う愛くるしい腹の音が聞こえてきた。
「きゅ、きゅぅーん……」
マオの苦し紛れに出した腹の音を真似した声は、さっきまでの腹の音はあたかも自分の口から出していた音だと言わんばかり。ただ、いつもの威厳ある冷徹な声ではなく、とても可愛げのある優しい声質だった。
「ぷっ。さ、さすがに、無理があるでしょ……」
ヒトシはマオの腹の音声真似がツボに入り、大笑いしたい気持ちを堪え、息を飲み込み笑いを少しでも内側に押し込める。今、笑ってしまえばもっと嫌われてしまうと思った。
笑いを必死にこらえているヒトシの前に立っているのは、わなわなと震え顔が真っ赤になり、白目に這う毛細血管がじんわりと浮き上がるほど血が巡っている魔王様。
青色の冷たい瞳と裏腹に、体の熱は上昇し続けていく。
昼頃にも辱めを受けたばかりだというのに、目の前の男が自分に不運を運んでくるのだとマオは理解し、ヒトシの姿を瞳に映す行為すら憚られる。ただ、マオの感情と裏腹に、朝から何も食べていない体はすでに限界を超えていた。
『きゅるるるぅ~』
『く~くりゅるる~』
『きゅる、きゅる、きゅう~』
マオはお腹に可愛らしい動物でも飼っているのかと思うほど、腹から愛くるしい鳴き声が響く。彼女はお腹を抱え、その場に蹲り、お腹が鳴る音を止めようとするが……、腹の虫は一向に鳴きやまない。
「相当お腹が空いているんですね。今日、下着を見てしまったお詫びに、何か奢らせてください」
「…………」
マオは提案に何も答えないが、青色の双眸をヒトシに向けていた。元から綺麗な瞳がうるうると潤い、宝石のように輝いている。ただ、今にも泣きそう……。腹の虫がようやく収まったころに立ち上がり、高カロリーバーとプロテインが多く入っているサラダチキンを一〇パックほどをプラスチックの籠に入れ込み、レジに戻った。
バーコードを読み込んでいき、五千円ほどのお会計になる。魔王様は容赦がない。
ヒトシは財布から千円札五枚を取り出し、財布をレジにいったん置く。千円札の枚数を数え、しっかりと五枚あると確認した後、これでマオのお尻と下着を見てしまった件を許してもらえるのなら安いと考え、堂々とマオに差し出した。
マオが目を丸くし、受け取ろうか受け取らないか迷いを見せる。どうも、ヒトシをビビらせようとしただけで本当に買う気はなかったらしい。
だが、ヒトシも引くに引けない。脳裏の奥の奥に焼き付いてしまった肉まんのようにブリブリのお尻と愛くるしい動物の刺繍が入った下着を見てしまったのは事実。
女子にとって男子に下着を見られるという羞恥心がどれほどのものか、想像に容易い。お金や物で解決するのなら、罪悪感を消すためにも払わせてもらいたかった。
「お、おい、五千円は大金だ。下着を見られただけで五千円ももらえない……」
「なにを言っているんですか。僕は牧田さんのお尻と下着を脳裏に焼き付いてしまうほど見てしまったんですよ。この食べ物で許してもらえるのなら、どうか受け取ってください」
「ひ、卑怯だぞ……。食べ物で釣るなど……」
マオは籠の中に入った大量の食べ物を見て、腹を再度鳴らした。だが、下着を見られた程度で五千円と言う大金を貰ってもいいのかと思い、唇をぎゅっと結ぶ。貧乏なマオにとって五千円はあまりにも高額なのだ。深夜のコンビニアルバイトで三時間レジに立っていれば稼げる額だが、色々と費用が掛かるため、一日三百円で生活している。
そんなマオの目の前に下着を見たからという理由だけで五千円を差し出してきた疫病神がいる。受け取るか受け取らないか、選択は二つに一つ。自分の下着などに五千円の価値があると思えず、拒否したい気持ちが強まるが、腹から訴えかけてくる空腹の辛さに……、
「お、お買い上げ、ありがとうございました……」
マオは完敗した。
ヒトシから五千円を受け取り、使い古されたボロボロの鞄に籠の中身を入れていく。
「ほ、本当に良いんだな。後から返せと言われても返さないからな」
「もちろんです。好きなだけ食べてください。あと明日も弁当を持って行きます。僕と一緒に食べましょうといわないので好きな場所で食べてください。もし、教室の中で牧田さんの可愛らしいお腹の音が鳴ったらもっと恥ずかしくなると思いますから」
ヒトシの発言を聞き、一理あると思ってしまったマオは疫病神の善意など受け取っていいのだろうかと悩む。だが、明日が終われば土日がやってくる。部活が朝からみっちり入っており、食べ物がないと倒れる。今、五千円分の食糧が手に入ったが、食べ物などすぐに消えると知っているため、ヒトシの提案の甘い響きに惑わされていた。




