懐かしい匂い
メッセージを送ると五分も経たず、
『ノプローブレムですよ! ヒトシ先輩から連絡が返ってくるだけで、私は朝から気分上々ですから!』
『それなら良かった。じゃあ、この後、河川敷で朝練ってことで』
『オケーイ! ヒトシ先輩のこと、朝からボコボコにします!』
――あれ、僕、許されていない? ユウさん、未だに怒っている? にしても、ノプローブレム、オケーイって打ち間違いしているのかな。
ヒトシは疑問に思ったが、特に気にせず竹刀が入った竹刀袋を背負い、荒川河川敷に向って走った。
夜の帳が上がり、ほんのりと白くなっている空。肺に入ってくる朝方で排気ガスが少ない冷たい空気。街路や花壇で日が欲しそうに今か今かと待ち続けている花々。
使い古したジャージ姿で原動機付自転車並の速度を保ちながら爆走するヒトシ。ランニング中の人や犬の散歩に朝から邁進する人々はヒトシのあまりの速さに驚愕し、何かのアスリートだろうなと察して遠目になりながら心の内で応援していた。
荒川河川敷にやってくると竹刀を肩に担ぎ、剣道部の顧問のような雰囲気を放っている少女を見つけた。巌流島で待っている佐々木小次郎ではないが、それ相応の強者感がヒトシの肌にビリビリと伝わってくる。
「ヒトシ先輩、ここであったのが運のつきだと思ってください。私のメッセージをことごとく無視した件、晴らさないでおけましょうか。いや、だめです。晴らさなければなりません!」
ユウは時代劇でも始めたのかと思うほど遠回りな発言を繰り返していた。律儀に古語を現代語に治してくれている。優しさが垣間見えているが、殺意はこれでもかと放っていた。
「その件はごめんこうむる。ここで決着を付けようぞ」
ユウの時代劇風の演技にヒトシも乗り、背負っていた竹刀袋から竹刀を抜き取る。そのまま、姿勢を正し、向かい合った。
ユウはヒトシの殺意溢れる雰囲気に当てられ、身震いしたのかニヤリと笑う。殺し合うには暖かすぎる春風が勢いよく吹くと、長いブラウン色の髪が靡き、視界が一瞬遮られた。
その瞬間を見計らい、ヒトシはユウに攻撃を仕掛ける。だが、その程度で出し抜けるほどユウの腕前を過信していない。
靴裏が砂利を踏みしめ、竹刀が衝突するたびに激しい音が鳴る。朝っぱらからジャージ姿の男女が竹刀を打ち合う姿は明らかに異質であった。
だが、両者の真剣な雰囲気に当てられた者は皆、全て四〇〇年の時を超える。
河川が海に、地面が砂浜に、竹刀が真剣に見えてくる。
殺意に満ちた鋭い眼光がぶつかり合い、見るものすべてが手に汗握る。長い戦いの中で時の流れを感じず、口を開けっぱなしにしながら呼吸を忘れる者もいた。
「良い乱取り稽古になったよ。ありがとう」
「いえいえ、私も手に汗握る戦いが出来て感無量です」
ヒトシとユウが練習を終えた頃、周りから拍手が送られる。両者は何事と思い、周りを見渡すと、老若男女の人々が鼻息を荒らげた状態で、力強い拍手している。とりあえず、頭を下げた。
「み、見世物じゃないんですけどね」
「なんでこんなに多くの人が集まっているのか」
人だかりの中、ボロイジャージのフードを深く被り、河川敷を走り去っていく者がいた。小さめの半ズボンを穿いており、すらりと長い脚が見える。ただ、サイズが合っていないのかお尻のラインが丸見えになっている。
日頃から走っているのか、脚が褐色になるほど日焼けしているようだった。その者に視線が引かれたのは、どこか強者感があったから。己の強さをひた隠しているような雰囲気があった。人口が多い東京には自分が知りえない人がたくさんいると理解している。
「ヒトシ先輩、タオルとお水をどうぞ」
ユウは見るからに高級そうなハンドタオルと、天然水のラベルが張られたペットボトルを差し出してくる。気を使われているらしい。準備してくれた品を、受け取らないのも野暮だと思い、ヒトシはタオルとペットボトルを受け取った。
どこまで汗を拭いていいのかわからなかったが、ユウの気にせず使ってくださいの一言で、吹っ切れる。顔や首、脇、腹、背中と言う具合に汗を拭き取る。汗の吸い具合から考えて新品ではなさそうだ。水も一気飲みしてしまうほど美味しい。
「ユウさん、えっと、タオルと水、ありがとう。タオルは洗って……」
「いえ、気にしないでください」
ユウはヒトシの手にあるタオルを一瞬で掴む。反応速度が異様に早い。モグラ叩きゲームで一度もミスせずに満点を取れる速度はある。
ヒトシですらユウのあまりの速度に反応できなかった。もしかすると、今までの戦いでも手を抜かれていた可能性は否めない。
「スゥ……、はぁ……。スゥ……、はぁ……」
ユウの方を見ると、ヒトシが使っていたタオルを顔に押し当てている。おそらく、顔の汗を拭き取っているのだろう。そう、考えなければユウがヒトシの汗の匂いを嗅ぎたくて仕方がない変態のように見えるじゃないか。
「ふぅ~。はぁ~」
ユウがタオルから顔をあげると、大変満足そうな表情……。頬がほど良く熱り、瞳が蕩けているように見えなくもない。
ヒトシはユウに話しかけるのを止め、知らんぷりした。
四日目にしてユウの性格は何となくわかって来た。なかなか個性の強い女の子らしい。だが、ヒトシはそういう子が学校に一人や二人、いるよなと素直に飲み込む。
人は他人に言えないようなフェティシズムを一つや二つ持っているもの。他人の感性にとやかくいう資格はないと抑え込む。だが、
「すぅ、はぁ、すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……。はぁああ~」
ユウのすぅはぁすぅはぁが止まらない。ヒトシもさすがに自分の汗のにおいを嗅がれている状況を見て、肩を丸める。彼女がわざとしているにしても、ためらいなく見せびらかせる精神力はいったいどこからくるのだろうか。
「えっと、ユウさん、そんなに匂いを嗅いでどうしたの……」
「え、あぁ、いや、そのー。懐かしい匂いがすると思いまして。顔をずっと埋めたくなります。べ、別にその、ヒトシ先輩の汗のにおいは全然臭くないので。むしろ、超良いにおいです」
ユウも、タオルのにおいに魅了されるのはおかしいと思っているらしい。すぐに止める。一分ほどの沈黙のあと、耳までじんわりと赤く染まり、疾風のように走り去っていく。
ヒトシも一息入れ、落ち着きを取り戻し、家に戻った。




