きょうだい
マキオの妹であるメイは女子ではなく着替えている途中のヒトシに話しかけた。階級は全く違うのに加え、男女と言う関係だが、メイが嫌がっているわけではないので練習相手になっても問題ない。
ヒトシは男女共に人気なため、すぐに予約しなければメイのもとに回ってくるのは相当後になるとわかっていた。
「良いよ、一緒にやろうか」
「やった! ありがとうございます!」
メイは額が丸見えの髪型が崩れそうになるほど勢いよく頭を縦に振る。ただ、メイの後方にいる兄のマキオは負のオーラを発していた。組み合っていた男性を無意識に投げてしまうほどにいら立っている。
着替え終えたヒトシはすでに走ってきているため、準備運動は完了していた。メイと共に打ち込み稽古(完全に投げず、技を掛け合うだけ)に励む。
身長差があるため、メイは背負い投げの打ち込みをヒトシに何度も繰り返した。その際、ヒトシはメイに引き手やつり手の使い方、重心の移動、脚運びなど、事細かに指摘していく。すべての指摘が終わったころにメイの額からぽたぽたと大量の汗が流れ、息が上がっていた。
投げ込み稽古(完全に技を掛ける)に入るとメイはヒトシを思いっきり投げ込んだ。畳にヒトシの側面が当たり破裂に似た衝撃音が道場に響き渡る。ここまで来るとヒトシはメイから離れ、別の者の元に向かう。
大学生や社会人、マキオも混ざっている男達限定の中にヒトシが加わると、空気が一気にひりついた。
すでに乱取り(試合形式の練習)に入っており、我先にとヒトシに対戦を申し込む。三分間の間、常に攻めの姿勢を崩さない。だが、だれ一人としてヒトシから一本を取れない。体重差、力の差以前に、戦い慣れが圧倒的に違った。
投げ込み音が道場の中で反響し続ける。投げ込み稽古なら当たり前のように聞こえる音だが、乱取りで聞こえていい音の数々ではない。
ヒトシと乱取りしている大学生や社会人の男達は何度も何度も投げられ、心がへし折られるまで投げ込まれる。中には激しさのあまり嘔吐する者が普通にあらわれるほど過酷を極めた。だが、ヒトシは手を抜かず、お願いされるたび乱取り稽古に出る。
マキオはヒトシに投げられ過ぎて大概の者に臆さず、県大会入賞レベルに成長していた。だが、未だにヒトシから一本を取った記憶がない。
妹のメイに良い所を見せようと果敢に攻めるがヒトシに勢いを使われ、ぶん投げられる始末。休憩中なのか柔道場の壁際に立つメイのときめき溢れる乙女の表情を柔道畳に押し付けられた状態で見ていた。
ヒトシが休憩している時、同じようにマキオも休憩に入り、メイの練習している姿をまじまじと見つめる。その威圧感に耐えられなかったのかメイは練習相手と共にマキオから距離を取った。
マキオは露骨に落ち込み、木製の壁に額をゴンゴンとぶつけていた。まるで修行僧が大きな鐘に頭を打ち付けているように見える……。
ヒトシはマキオの行動がメイに嫌われる原因になっているのではないかと改めて思う。
「マキオ、メイと距離を置いたら?」
「俺から癒しを奪うっていうのか。アイドルやAV女優は俺を見てくれないが、メイだけは俺を見てくれるんだ。俺からメイを取ったら、何が残るっていうんだ」
マキオはガン決まった様子をヒトシに見せる。その姿を見て、明らかにシスコン異常者で間違いなかった。このままだと、マキオがメイを襲う可能性もゼロじゃない。
兄と妹は大して仲が良くないというのが一般的だといわれる。いや、互いに干渉しなくなるといったほうが正しい。
兄妹も男女なのだから、互いの趣味嗜好や付き合う相手が別で話がかみ合わなくなっていくのだろう。年を重ねれば顕著になっていく。
マキオとメイは同じスポーツを習い、昔から切磋琢磨してきたと聞いている。ただたんにメイが大人になり始め、マキオが妹離れ出来ていない状況にある。
仲が良いのが一番だが、互いに距離感を間違えれば犯罪になりかねない。
前世だと、貴族のきょうだいは殺し合うほど仲が悪く、平民のきょうだいは助け合って生きていく関係上仲が物凄く良かった印象だ。
ヒトシにきょうだいと呼べる存在がいなかったので、はたから見れば羨ましいと思っていた。
日本のきょうだいは複雑だ。ものすごく仲が良いか、仲が悪いか、無干渉か。各家庭様々なきょうだい模様がある。
それゆえにアドバイスの仕様がない。他人の感情を変えるのが難しいとヒトシはよく理解している。少なくとも一年以上マキオとメイの関係を見てきたため、軽く助言したが、マキオの感性を刺激してしまった。
友好関係を維持するのは難しい。背中を合わせて共に死線を潜り抜けて来た戦友は硬い絆で結ばれるが、ふと出会い、軽い会話を重ねて友好な相手になる友達という存在は案外もろい。一言で友達関係が破局する場面も一六年の間で何度も見てきた。
ヒトシはマキオの逆鱗に触れないよう、口をつぐむ。話したいならマキオの方から話し掛けてくる。いつもはそうだが、今日は違った。
ヒトシのもとにマキオが来なくなり、午後九時に稽古が終わる。高校で部活に励んだあと、さらなる強さを求めて遅い時間まで稽古に励んでいるマキオにストレスが掛からないわけがない。
きっと疲れているのだろうと察し、ヒトシは脱衣所で周りをはばからずに座り込んでいるマキオに話しかけなかった。
気まずい空気のため服を持って脱衣所から出ると、メイと他の女子たちが練習終わりに自主練に励んでいた。まあ、女子大生の苦笑いする姿から察するにメイに付き合わされている感が否めない。少しするとバイトに行かなければならないからとメイから距離を取っている。
ヒトシが着替えようとすると、メイがボールを拾って来た犬の如く走ってくる。体力があり余って仕方がないのか、ヒトシに飛びついた。
互いの柔道着はすでに汗まみれで、襟部分は握りしめるだけで汗が滴りそうなほど。動いている時は気づかなかったが、大分冷え込み洗濯直後の服を着ているかのようだった。
「ヒトシさん、一回だけ乱取りしましょう! 私、次の大会は絶対優勝したいんです!」
メイはやる気に満ちた燃え滾る瞳をヒトシに向ける。その熱意を見たら、断れるはずもなくヒトシはメイと自主練する。ただ、指導者がいない状況で乱取りするのは危険だった。
そのため、打ち込みと投げ込み稽古に変えてもらう。それだけでもメイは飛び跳ねてやる気を見せ、気が済むまでヒトシに打ち込み、畳みが壊れるのではないかと思うほど投げ込む。
受け身が完璧なヒトシはどのような体制からでも受け身が取れるため、運動中に怪我した覚えはない。
体力の限界からメイの体勢が崩れた瞬間に、投げられる寸前だったヒトシは体勢を立て直し、メイの体を支える。半場、倒れた姫を支えた王子のような雰囲気が漂っている。
「練習する姿勢は素晴らしいけど、過度な練習は怪我の要因になるからこれくらいにしておいた方が良い。よく頑張ったね」
ヒトシはメイの乱れた髪を軽く治す。メイの頬は体を動かした影響で赤くなっているのか、ヒトシの対応が紳士的過ぎるからか、理由はわからない。されど、その場面を見てよく思わない男が一人。