第2章「目覚めの楽章(アダージョ)」
雪月花。
それは、楽器を用いて能力を振るう者たちの国家組織のひとつであり、音の力で世界の秩序を護る者たちの拠点だった。
その中心には、白く輝く”城”がそびえている。
緑に囲まれた森の中、その荘厳な佇まいは、まるで楽団の聖堂のようでもあった。
「マエストロに報告しないと…。」
雪月花本部の正門を抜け、涙はギターを担ぐ嵐と並んで歩いていた。
彼女の腕の中には、未だ目を覚まさぬ少年——一ノ宮 悠歌が静かに眠っている。
「ずいぶん静かだな。なんで目を覚まさねぇんだろ…。」
「異世界から来たって考えれば、身体にも精神にも負荷がかかってるかもしれない…。」
「異世界、ねぇ…本当にそんな話あるのかよ…。」
嵐の声は疑い混じりだったが、彼の瞳は不安を隠すようにじっと少年の顔を見ていた。
二人が足を止めたのは、重厚な二重扉の前。
扉には銀の装飾が施され、中央には雪月花の紋章が静かに輝いていた。
—―コン、コン。
涙が礼儀正しく叩くと、ゆっくりと扉が開く。
「ようこそ。ずいぶんと急な訪問だね。」
中から現れたのは、どこか中性的な顔立ちをした青年だった。
長身で、柔らかな微笑みを浮かべている。雪月花の制服の上に纏う礼装は、ひときわ上質なもので、胸元の銀のバッジが彼の地位を語っていた。
「コンマス…!」
「こんにちは、涙ちゃん、嵐くん。それと…その子が、例の?」
穏やかに問いかけるその人物は、雪月花統括——四十物 くれあ。
柔らかな空気を纏いながらも、瞳の奥には一切甘さがない。
「中で話そう。マエストロもお待ちかねだよ。」
二人は頷き、案内されるまま長い廊下を歩いた。
やがて、一際広い音楽ホールのような空間にたどり着く。
舞台の中央。
そこに佇んでいたのは、背筋をぴんと伸ばした初老の女性だった。
「ご苦労だったね、涙、嵐。」
その声には、厳しさと温もりが混ざっていた。
彼女こそが、雪月花の頂点に立つ指揮者——マエストロ。
鋭い灰銀の目に見つめられ、嵐は思わず姿勢を正す。
「その子が、森で保護された少年だね。」
「はい。名乗っては…いませんが……。」
「眠ってる間にも、鼓動に微弱な音の波を感じる。この子、何か…”持ってる”よ。」
マエストロはゆっくりと歩み寄り、そっと少年の額に手をかざした。
その瞬間——。
ふっと、少年のまぶたが震え、薄く瞳が開かれた。
「………ぁ。」
「お、起きた…!」
涙が目を見張り、嵐が思わず腰を下ろす。
「…ここ、どこ……?」
細い声。震えた唇。
中性的な顔立ちの少年は、怯えたように周囲を見回した。
その瞳は、どこか透明感を宿した茶色で—―まるで、水に落ちた音のように静かだった。
「名前は?わかるかい?」
マエストロが柔らかく問いかける。
「…いちのみや…はるか…。」
「一ノ宮 悠歌くんだね。」
名前を聞いたマエストロの眉が僅かに動いた。
その名前に、どこか記憶の糸が触れたかのような反応だった。
「……安心して。ここは雪月花。君は今、保護されている。」
「雪月花……。」
「これから、君のことを少しずつ知っていくことになる。まずは、ゆっくり休みなさい。」
涙は静かに座り込み、再び微笑みかける。
「大丈夫。怖くないよ。…私たち、友達になろう?」
そう言って差し出された涙の手を、悠歌は震えながらも、そっと握り返した。