第15章
春の夕暮れ、雪月花の医療棟の廊下には淡いオレンジの光が差し込んでいた。
tap tap。
控えめな足音を響かせながら、悠歌——一ノ宮悠歌は、白い包みを手に持って歩いていた。
手の中にあるのは、涙から教えてもらった柚葵の好物——花形のハーブクッキー。
柚葵が雪月花に保護されてから数日。鏡水家の幹部でありながら、情報を流していたという事実は、組織に波紋を広げた。
だが、悠歌の心に残っていたのは、情報や作戦のことではなく、あの時自分を守るようにして戦った柚葵の姿だった。
扉の前に立ち、静かにノックする。
「…入っていいよ。」
小さく、しかし確かに届く声が返ってきた。
扉を開けて中へ入ると、白く整えられた部屋の中に、穏やかに座る柚葵がいた。
彼女は病衣を纏いながらも、いつものように微笑んでいた。その笑顔はやわらかく、どこか儚い。
「悠歌くん、いらっしゃい。」
「…こんにちは。これ、涙が教えてくれたんです。柚葵さん、クッキー好きって。」
「ふふ、それは…嬉しいな。ありがと。」
悠歌がベット脇の椅子に腰かけると、二人の間に、静かな時間が流れ始める。
「…あの、柚葵さん。」
少しの沈黙ののち、悠歌が言葉を選ぶように口を開いた。
「どうして…僕のために、そこまでしたんですか。」
柚葵は、答える代わりに一度目を閉じた。そして、遠くを見つめるように、言葉を紡ぎ始めた。
「ねえ、悠歌くん。人ってさ…誰かを護りたいと思うときって、理由はそんなに複雑じゃないのよ。」
「私はね、たくさんの子たちの『声』を聞いてきたの。泣いてる声、叫んでる声、助けてって…。でも、私には何もできなかった。生まれた場所が”鏡水家”だったから。」
彼女の笑顔の裏に、苦しさと悔しさが滲んでいた。
「だから、私は…雪月花に、あの子たちに、そしてあなたに”償う”ために、動いたの。たとえ裏切りと言われても、自分の目で見て、耳で聞いて、感じたことを、否定したくなかった。」
「柚葵さん…。」
「悠歌くん、あなたには——罪悪感なんて持たないでほしい。」
そう言って、柚葵は優しく微笑んだ。
「あなたがここにいてくれて、私はようやく”誰かを守れた”って思えたの。だから、もう、前を向いていいの。あなたには、きっと…誰よりも強い力があるから。」
その目は、まっすぐに悠歌を見つめていた。
「…ありがとう、ございます。」
声が震え、涙が頬を伝う。
柚葵はそっと手を伸ばし、悠歌の髪を撫でる。
「優しい子ね。きっと、あなたの中に眠っている”共鳴の力”は、まだ目覚めたばかり。でもね、それは怖いものじゃないわ。」
(それが、未来を救う力なら。どうか、この子の選ぶ未来が、光で満たされますように。)
柚葵は心の奥で静かに願っていた。
「私が雪月花に保護されて、良かったって思えるのは、あなたに会えたからよ。」
悠歌は、涙を拭いながら、柚葵の手を握り返した。
部屋に夕日が差し込む。ゆっくりと、でも確実に、夜が訪れるように。
二人の心にも、希望という明かりが灯っていた。