第13章
夜の帳が落ちた鏡水家本邸。
中庭に面した回廊に、一人佇む影があった。
鏡水柚葵。
表情にはいつもの微笑みを浮かべているが、その瞳の奥には迷いが揺れていた。
—―情報を渡す、それがどれほど危険な行為か。
—―けれど、このまま何も知らずに、あの子が奪われる未来を、見ていられるはずがなかった。
回廊から、こっそりと屋敷の外縁へ。
風の届かない場所にある古井戸の裏、その石組みの一部が、通信装置のカモフラージュになっている。
柚葵は細い指で石を一つ外し、埋め込まれたクリスタル装置に小声で話しかけた。
「…こちら、柚葵。提示報告。」
数秒の沈黙の後、雪月花側の通信端末から微かな音が帰ってきた。
『柚葵さん、無事ですか?』
「えぇ。鏡水家ではまだ悠歌の直接奪取には動いていない…でも、作戦会議は開かれました。明確に彼を”対象”として、今後の接触手段を探すよう命が下されています。」
『…やはり狙われていたか。』
「”共鳴の力”、という言葉が出たわ。詳細は伏せられていたけれど…おそらく本気で奪いに来る。あの子を実験台として、手に入れるつもり。」
柚葵の声は静かだった。
だが、指先は小さく震えていた。
「初音お嬢は”駒”としか思っていない。けれど、私はあの子を…悠歌くんを、巻き込ませたくない。」
風が、ポニーテールをそっと揺らす。
『柚葵さん。あばたがこれ以上危険になる前に、こちらへ逃げてくるという選択もあります。』
「ふふっ、それはそれで面白いかも。でも…今はまだ、ここにいる方が役に立てるわ。わたし、聞き出せるし、演じられる。」
彼女は装置の中に小型のクリスタルメモリを差し込んだ。
「これは今朝仕入れた会議の記録。超え、言葉、資料、全部入ってる。解析に使って。」
『…受け取った。感謝します、柚葵さん。』
短い応答と共に、通信は途絶えた。
柚葵はしばらく、静かにその場に佇んでいた。
沈黙の音が、彼女の背を包む。
(…もう戻れない。でも、後悔していない。)
—―あの少年に、あの人の願いに。
自分は心を動かされてしまった。
だから、もうただの”傍観者”ではいられない。
柚葵は、微笑みを絶やさぬまま、再び鏡水家の屋敷へと足を向けた。
その笑顔のウラン、炎のような意思を宿しながら。