第六話:「笑わないOL」
「……あの、配達です」
夕暮れの団地の一角。
エレベーターのない、昔ながらの5階建てマンション。
神原ユウトは、4階まで階段を上がり、指定された部屋の前に立った。
カチャリ――
静かに開いたドアの向こうから現れたのは、黒髪を後ろでひとつにまとめた女性だった。
スーツ姿。疲れが見える目元。
そして何より――表情が、まったく動かなかった。
笑わない。
目も合わない。
「ありがとう」のひと言もない。
だけど、怒っているわけでもない。
むしろ、完全に感情を遮断しているような静けさがあった。
ユウトが料理を差し出すと、彼女は無言でそれを受け取った。
「ありがとうございました」
ユウトが軽く頭を下げると、彼女もわずかに会釈してドアを閉めた。
(……疲れてるのかな)
何となく、それだけで胸がざらつくような配達だった。
⸻
その夜――
彼女、佐伯あやは、淡々とウーバーの袋を開けていた。
ハンバーグ弁当。あたためられたごはんの湯気が、ほんの少しだけ部屋ににじむ。
でも、どこかに何も感じられなかった。
(また、笑えなかった……)
ひとりごとのように、あやは口の中で呟いた。
大学を出て、就職して、
「仕事ができる人」と呼ばれるようになって――
いつの間にか、“ちゃんとしてる自分”だけを残して、生きてきた。
ミスをしないように、弱音を吐かないように。
笑顔を“作る”ことに慣れて、
ある日ふと――本当に笑う方法を忘れたことに気づいた。
だから、誰かに「笑顔が素敵ですね」と言われるたびに、少しだけ苦しくなった。
⸻
数日後。
また同じ部屋への配達が回ってきた。
「配達です」
変わらない受け渡し。変わらない表情。
けれど、ユウトは気づいた。
ほんの一瞬だけ、彼女の手が、小さく震えたことに。
(今日も疲れてるんだろうな)
ユウトは、そっと料理を手渡すと、
前より少しだけ、深く頭を下げた。
「……いつもありがとうございます」
それだけ言って、階段を降りる。
彼女はドアを閉めた後、小さな袋を抱きかかえるようにして、
ぽつりと、誰にも聞こえない声で言った。
「……こっちこそ、ありがとう」
そしてその夜。
佐伯あやは――
ほんの少しだけ、目尻を緩めながら、ごはんを食べた。
【配達員メモ】
今日のお客様:心の中で何かを押し殺してる人
人って、笑わなくなるまでに
いろんなことを“飲み込んできた”んだと思う。
それでも、ちゃんと受け取ってくれるなら――
俺は、今日も届け続ける。